潜入②
宇治橋の袂から見る宇治川は、思ったより大きく、開けて見晴らしの良い川だった。青銅の擬宝珠を載せた檜の高欄は古そうで趣があるが、橋の上の道幅はかなり広く、車道も歩道も近代的に整備されている。川の両岸は遊歩道になっており、橋の袂から岸辺まで降りられる広い石段があったが、ぬらりひょんはそこを降りてはいかず、橋を渡り始めた。
渋い和服姿の高齢男性とゴスロリ少女二人の組み合わせは何とも異様に見えるに違いないが、観光客の多い土地柄のせいか、日本人が多様性に寛容なせいか、誰も気にすることなく通り過ぎていく。
『さぁ。ここだ』
橋の歩道の中ほどに、川の上流側に橋板の張り出した展望台のような場所があり、ぬらりひょんはそこで足を止めた。
『ずいぶん眺めがいいのねー』
いちかは素直に感嘆する。正面に中洲を臨む幅の広い川の景観は雄大で、遠くに青々とした低い山がいくつか連なっている。大人が三人並べるほどの広さのスペースは観光客にとって絶好のフォトスポットで、ひっきりなしに人が出たり入ったりしている。
『ここはかつて橋姫を祀っていた三の間と呼ばれる場所だ』
ぬらりひょんが説明したが、祀っていたという割に、社や石碑のようなものは何もなく、本当にただの展望スペースのようだ。
「橋姫のアジトっていうのは?」
『この下だよ』
筋張ったぬらりひょんの右手が下を指さす。思わず瑞貴は、橋の下に広がる豊かな水を湛えた川面に目をやった。
「えっ、下って……まさか飛び込むんですか」
『そんなわけないでしょう』
いちかが食い気味に否定する。その間にぬらりひょんは腰差しかますから煙管を取り出した。突然の路上喫煙に瑞貴は慌てたが、火を点けた様子もないのに、ぬらりひょんが咥えただけで、煙管の火皿から煙が立ち上る。糸のように細い煙は、一筋につながったまま、するすると三人の周囲を取り囲み、正円を描いた。瑞貴は、このぬらりひょんの煙管の煙をかつて見たことがある。平将門の首塚で、空間を封じるために使った技だ。
『二人とも、この煙の輪から決して出てはいけないよ。分かったね』
言い聞かせるようにぬらりひょんは言って、観光客が大勢行き交う橋の歩道の上で呪文を唱え始めた。
『往くぞ』
最後にぬらりひょんが言った瞬間、瑞貴は体がふわっと浮くのを感じた。その一瞬後、足元に突然穴が開いたかのように落下する感覚がある。
「うわあぁぁ」
瑞貴は睾丸が縮み上がる心持ちがして、思わず叫んだ。現世とも幽世とも知れない碧い空間を、三人は落ちていく。いちかと瑞貴の何重にも重なったレースのスカートが、空気を孕んで傘のように大きく開いた。まもなく落下の速度が緩み、再度浮遊感があって着地した。ぬらりひょんといちかは予想していたかのように地面に降り立ったが、瑞貴は不意のことに体が追い付かず、つんのめる。
「ちょっと、無茶しないでくださいよ。僕は生身の人間なんですから」
『ほほ。そうだったな。これは失敬』
ぬらりひょんは悪びれる様子もなく笑った。文句を言いながら体勢を立て直した瑞貴が顔を上げると、そこは円形の広場のような場所だった。床と壁は大理石のように滑らかに表面の磨かれた石造りのようで、高くドーム状の天井は、それ自体がぼうっと発光するすりガラスのような質感だ。広場の真ん中には水が湧き出す泉があり、そこから放射状に六本の水路が伸びている。水路は石の壁の下を通って広場の外まで流れ出していた。
「ここが、橋姫のアジトですか?」
『そうだ。宇治橋の下にある、橋姫の居城だよ』
『なんか、思ったよりシンプルな装飾ね』
煙管の細い煙は、まだ三人の周りに円を描いていた。これは結界のようなものなのだろうと瑞貴は理解して、歩き始めたぬらりひょんといちかに遅れないようについていく。三人は壁に沿って歩いて行った。大きな一枚岩を何枚も横に並べた石壁には、扉のようなものは見当たらない。水路は大股で越えられるほどの幅だが、底が見えず、澄んだ水がどこまでも奥深く続いているようだった。
ぬらりひょんは壁を手で触りながら進んでいたが、その下を水路が通って流れていく一枚の壁板の前で立ち止まり、壁の石を強く押した。すると、回転扉のように壁が回り、隣接する部屋に通じる道が現れた。
『御名答だな』
ぬらりひょんはしたり顔で自画自賛する。三人は、ぬらりひょんを先頭に、石壁の隙間を通り抜けて次の間へと踏み入れた。
最初、石像が並んでいるのかと、瑞貴は思った。部屋の左右の壁に直立して動かない妖怪が何体も立っており、天井付近からカーテンのように流れる水が、中央の通路からそれらを隔てている。流れた落ちた水は、二手に分かれた水路に吸収され、壁際で合流して奥の壁の下を通り、さらに向こう側に流れ出て行っているようだ。
『いきなりビンゴだねー』
いちかが居並ぶ彫像のような妖怪たちを眺めて言う。片輪車、七歩蛇、魍魎。土蜘蛛はぬらりひょんが言っていた通り六体、山地乳も二体いる。入内雀は止まり木に止まった姿で石のように動かず、陰火である渡柄杓ですら、上下に機械的に浮遊しているだけで、まるで作り物のようだった。
「眠っているんでしょうか」
『橋は橋姫のホームグラウンドだからね。川の水は橋姫の最大の武器だよ。この水には、橋姫の妖力が宿ってるから、気を付けた方がいいよ』
いちかに注意を促されて、瑞貴は後退る。ただの水の幕のように見えるが、妖力があると言われると、急に毒の水のような気がしてくる。
部屋の奥まで進むと、二股に分かれた水路が合流する手前に硝子の水槽のような大きな匣がある。白く滑らかな玉砂利が敷き詰められた、瑞貴の肩ほどの高さのある水槽に、十数匹の灰色の毛玉のようなものが放たれている。
『やはりな。思った通りだ』
水槽の中にいる毛玉が、西京鼠のようだった。テニスボールほどの大きさの、ただの綿毛のように見えるそれらは、手足はおろか顔も毛に埋もれ、鼠なのかどうかも定かではない。管狐の一種と言われれば、弾むような動きが何となく似ている。
『やっぱり橋姫は、妖怪に西京鼠を憑かせて傀儡妖怪を作ってたんだね』
にわかに、部屋の一番奥の壁の向こうが騒がしくなった。大勢がどたどたと走り回る足音。忙しない掛け声や怒声。傀儡妖怪以外にも、ここには妖怪がいるのだろうか。三人は目配せし合う。ぬらりひょんがそっと石壁に近づき、壁に耳を寄せた。そして、先ほどと同じように石板に手を当てて、力を込める。
「行くんですか?」
『この煙の輪の中にいる限り、存在を悟られることはなかろう。だが、油断するでないぞ』
声に不安を滲ませる瑞貴に、ぬらりひょんは振り向かずそう告げて、壁を押し開けた。
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