絡新婦②
宝珠の力が顕現して一年が経った。瑞貴の生活は一変して、たくさんの人や妖怪と出会ったが、長いようで短い一年だった。今年も、部活で行く春の柄掛山の山トレーニングに無事参加した。途中、山の松の上に檜扇坊らしき後ろ姿を遠目に見た気がしたが、接触してくることはなかった。春休み以降も、瑞貴は試行錯誤を繰り返したが、紫色のオーラはまだ作り出せていない。
五月の連休は、秩父には帰らないことにした。千歳も仕事が忙しく、瑞貴もいくつか約束があったからだ。その約束の一つが、小夜との横浜デートである。
海が見たいという小夜のリクエストに応えて、高校の最寄り駅で待ち合わせして一緒に電車を乗り継ぎ、横浜を目指す。小夜の着ているラベンダー色のシフォンのブラウスと白のプリーツスカートは、春と夏の狭間の眩いばかりの陽光によく映える。相変わらず小夜は道行く人の注目を集めたが、瑞貴ももう慣れっこになっていた。
中華街はごった返して、人熱れで気温がさらに高く感じられた。どこの店も混雑していたが、飲食店でも雑貨屋でも土産物店でも、神秘性と古めかしさと胡散臭さをないまぜにしたような雰囲気に、小夜は物珍しそうに辺りを見回して飽きないようだった。
「すごい人ね。はぐれちゃいそう」
そう言って手を握られると、未だに瑞貴は緊張する。嬉しそうにぎゅっとつないだ小夜の手は、初夏だというのにやはり冷たい。中華街で食べ歩きをしてお腹を満たした後に、瑞貴は小夜を連れて赤レンガ倉庫に向かった。
「わぁ、素敵」
異国情緒の漂う赤レンガ倉庫を前に、小夜は歓声を上げる。
「ふふ。なんか、チョコレートみたい」
倉庫という名前が似つかわしくない趣のある洋館のような佇まいに、小夜は目を輝かせる。建物の中に入ると、フードコートやお洒落なショップが並んでいる。色とりどりの玩具箱のような店先は、ただ眺めて歩くだけでも十分楽しかった。結局何も買わなかったが、ゆうに一時間以上は赤レンガ倉庫の中を見て回った。
海を見に行く前に、カフェでアップルパイをテイクアウトする。小さな紙袋を持って屋外に出ると陽射しが強く、小夜の白い肌が日焼けしないか心配なほどだ。二人は海に面した遊歩道を歩き、岸壁沿いの柵の前に並んで波を眺めながら、アップルパイを食べた。同じように海を眺めている人たちが何組かいたが、中華街や赤レンガ倉庫の中に比べれば人はまばらだった。雲ひとつない快晴で、歩けば少し汗ばむが、潮風が心地よい陽気だ。
「海、綺麗ね」
小夜が遠くを見つめて言った。
「うん。海、見たかったんでしょう」
「ええ。今まで住んでたのは、東北とか寒いところが多かったから、こんなキラキラした海ってあんまり見たことないの」
「そうなんだ」
小夜は、青い空の下に広がる紺青色の海を見晴るかしている。アップルパイを食べ終えて、二人はしばらく無言で海を眺めていた。
「瑞貴くんは、優しいね」
「えっ」
ぽつりと言った小夜の言葉に瑞貴がびっくりして振り返ると、穏やかな微笑を浮かべた小夜の視線にぶつかった。
「そうかな」
瑞貴としては、迷いが多くて頼りない自分が小夜の相手で本当に良いのかと、不安になることもしょっちゅうだ。そんな瑞貴に、小夜はいつもとびきりの笑顔を向けてくれる。
「優しいよ、すごく」
小夜に真っ直ぐな瞳で見つめられてどぎまぎした瑞貴は、柵に手を掛けて揺らめく波に視線を移す。うねるような水面は灰色がかった深い青で、きめ細かく白い泡沫が揺蕩っている。二人の背後から太陽の光が降り注ぎ、海の上に二つの影が並んでいる。瑞貴は意を決してそっと手を伸ばし、小夜の肩を抱き寄せようとした。
「小夜ちゃん」
呼びかけた瑞貴の視界の端、暗く青い水の中に黒い大きな影が映った。いち早く動いたのは、小夜の方だった。小夜は肩に掛けていたバッグから折り畳み傘を出し、素早く広げて瑞貴と自分の上に掲げる。淡いピンク色の日傘が太陽の光を遮り、海の上に傘の形の影が落ちた。
「瑞貴くん、あれ、鰐鮫よ」
小夜の指さした方を見ると、海中に細長い口をした魚の姿の異形がゆらりと蠢くのが見えた。その目玉はぎょろりと動き、こちらを見上げている。
「影を食べられたら、死んじゃうわ」
小夜は瑞貴の影が傘から出ないように、瑞貴の腕を引き寄せた。二人の身体が密着して、瑞貴の鼻先に触れそうな距離に小夜の前髪の切りそろえられた額が近づく。小夜の髪からシャンプーの甘い匂いがした。
「瑞貴くん、ハンカチか何か、持ってる?」
瑞貴が言われるがままにリュックサックのポケットからグレーのハンカチを取り出すと、小夜はそれを手に取って、海の中へと投げ入れた。ハンカチはひらひらと海の上に舞い降りて、着水した。鰐鮫は水面に伸びた傘のシルエットの周りを未練がましく泳ぎ回っている。しかし、人型の影が傘の影の外に再び現れないのを見て取ると、大きな口を開いた。竜のような顔をした鰐鮫の口の中にびっしりと生えた鋭い歯が見えて、その口がぱくりとハンカチを咥える。鰐鮫は口惜しそうに目を剥いた後、諦めて水中深くへと潜っていった。
「よく気が付いたね、小夜ちゃん」
鰐鮫は、海上で船乗りの影を呑むと伝えられている海の妖怪で、鰐鮫に影を奪われた者は数日以内に死んでしまうといわれている。船の上の漁師たちは、身に着けていた帯や手拭いを投げて身代わりとし、難を逃れたという。あの鰐鮫は、宝珠を狙って来たのだろうか。驚いている瑞貴の言葉に、小夜はただ笑っているだけだった。
その時、瑞貴のスマホの着信音が鳴った。画面を見ると、発信元は蒼だった。蒼が瑞貴に電話を掛けてくるのは珍しい。瑞貴は一瞬躊躇ったが、小夜に「ちょっと、ごめん」と断りを入れて電話に出た。
「もしもし、蒼さん?」
『すまない、瑞貴。六花が、暴漢に襲われて怪我をしたらしいんだ』
「えっ、六花さんが⁉」
『俺は今、都内じゃないんだ。民保協のオンラインミーティングに六花が参加してこないと思ってたら、本人から病院にいると連絡があった』
本人が連絡してこられる状態にあることに、瑞貴はまずは少し安堵する。
『六花を襲った男は現行犯逮捕されたようだが、六花に誑かされたと口走っていたらしい。六花はその男とは面識がないと言ってたが……』
「それって……」
『ああ。六花の言ってた「ドッペルゲンガー」が関係してるかもな』
六花と同じ姿かたちをした人間が、六花になりすまして男を誑かしたのだろうか。蒼は出張で数日間、東京には戻らないらしく、六花の様子を見てきてほしいというのが、電話の主旨だった。瑞貴は、影が海上に落ちないように柵から離れて海を眺めている小夜を横目で見て、困った顔をした。六花のことは心配だが、小夜を置いていくわけにもいかない。
「あの、ええと……ちょっと待ってください」
瑞貴は耳に当てていたスマホを遠ざけて、小夜の方に向き直った。瑞貴が済まなささそうな顔をして事情を説明すると、小夜は考え込みながら聞いていた。宝珠のことや民保協のことは話さないが、内容は伝わったようだった。小首を傾げていた小夜は、話を聞き終わると瑞貴に向かってほんのりと微笑んでこう言った。
「私も一緒に行っていい?」
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