雪解け①
そこは、白く明るく何もない空間だった。床も壁も天井もなく、ただ白い光が満ちている。これから裁きが行われるかのような厳粛な雰囲気が漂っており、瑞貴はそれをどこかから俯瞰していた。
(ああ、また夢を見ているんだ……)
体が重く怠く動かせず、頭だけが妙に冴えた状態で、瑞貴は思った。
白い地に女性が跪き、その遥か頭上には霞がかかっているが、何かとても神聖で、近寄りがたい存在があるようだった。女性はその超越的な存在に、しきりに訴えかけているらしかったが、くぐもったその声は瑞貴の耳には届かない。瑞貴は意識を集中させて、どうにか聞き取ろうとする。途切れ途切れの言の葉は、哀願するような響きを帯びている。
――私がお預かりしている大切な魂です。
母ではない、と瑞貴は直感した。母の声など記憶にはないのだが、以前に夢で聞いた母の声音とは違う。それでいて、母に似た懐かしさを覚える声だった。
――その魂が、どうかそれを現世に帰してほしいと懇願しているのです。
――それが摂理に反するとしてもか。
天上の存在の荘厳な声が、白い空間全体に響き渡る。厳しさを感じさせる、それでいて低く落ち着いた声だ。
――はい。この山を守護される御方にしかできぬことです。
女性は悲哀のこもった、しかし毅然とした声できっぱりと言った。低い獣の唸り声が聞こえる。
――宝珠を代々まで守ることが、この山の古からのお役目かと。
顔は見えないが、女性はきっと祀だ、と瑞貴は閃いた。先代の宝珠で、寒月峰神社の巫女だった女性だ。
――まだ宝珠を終わらせぬというのか。
――はい。私はそのために――……
そこから先は聞き取れなかった。白い空間は白い光に包まれて、長い長い狼の咆哮が響いた――。
瑞貴が目覚めると、離れの和室の布団の傍らに蔦子が座って、心配そうに瑞貴の顔を覗き込んでいた。
「おばあちゃん」
「目が覚めたのね、瑞貴」
離れは、耳の奥に迫るような静寂に包まれていた。部屋には煌々と明かりが点いている。夜中なのだろう。体を起こすと、みぞおちに重く大きなわだかまりを感じ、頭がズキズキと痛んだ。蔦子は畳の上に置いていた水差しの載った盆を引き寄せる。
「あなたは悪い気を取り込んでしまったようだから、宮司様がこれをすべて飲むようにって。途中どんな味がしても、必ず全部飲みなさい」
一リットル以上は容量のありそうな白磁の水差しからグラスに注がれたのは、一見透明なごく普通の水のようだった。晴海が用意したということは、何か特別なものなのだろう。瑞貴はその水を一口含んで、顔をしかめる。
「苦い」
「ええ。最初は苦いだろうけど、だんだん味が変わるっておっしゃってたわ」
グラスの水は、透き通った見た目からは信じられないほど苦かった。以前に妖魔と対峙して気を失った時のように高い熱はなかったが、ひどく喉は乾いているので、勢いに任せて何とか飲むしかない。
「父さんは……?」
恐る恐る瑞貴は尋ねた。
「まだ見つかってないわ」
蔦子は暗い顔で首を振った。だが、それが最悪の答えではなかったことに、瑞貴は一旦、胸をなでおろした。
行き遭い神とともに姿を消した千歳の捜索は、夜を徹して続けられていた。晴海と美弦と吏、そこに寒月峰神社にいるもう一人の神主や瀬尾稲荷の雪絵も加わって、夜の山に分け入っている。雪の残る夜闇の山道は地元の者でも危険であり、それほど遠くまでは行けない。それでも、山頂や庵など、寒月峰神社に所縁のある場所を中心に、手分けして探して回っているらしかった。
瑞貴も捜索に加わりたかったが、水差しの水をすべて飲み終えるまで外に出てはいけないと、晴海から伝言されていた。瑞貴の中で、悠花の幻影に向かって駆け出して行った千歳の姿がフラッシュバックする。家族を失うかもしれないというのは、こんなにも恐ろしく心細いものなのか。瑞貴は心臓をぎゅっと掴まれるような心地がして居ても立っても居られず、早く水差しの水を飲み切ろうと必死になった。
午前四時頃、瑞貴はようやく水差しに入っていた水をすべて飲み干した。水は晴海が言っていた通り、途中から苦みが薄れ、塩味を感じるようになり、飲み終わるころには仄かな甘みがあった。飲み終わってまもなく腹を下した後からは、体が軽くなり、頭痛もなくなっていた。蔦子には心配されたが、瑞貴はまだ闇の濃い未明の山に出て、千歳の捜索に加わった。山に慣れていない瑞貴は、離れと神社の周辺を、管狐を連れて歩いていた。
千歳を見つけたのは瑞貴だった。神社の周囲と参道、そして離れの周囲を一周して、再び神社の境内に戻ってきた時だった。朝日が差し始めた神社の、二体の狛犬のちょうど真ん中に、安置されるように千歳の体が忽然と現れたのだ。胸の上で両手を組んで仰向けに横たわった千歳の身体に、白いプロミネンスのような光が纏わりついている。それを見た瞬間、瑞貴は心臓が止まるかと思った。しかし体は自然と動き、拝殿のそばから神社の正面にある狛犬の方へと、無我夢中に走り出した。
「父さん!」
千歳の上に屈み込み、その両肩を掴んで大きく揺さぶる。息は、しているようだ。
「タカネ、フウロ、誰か呼んできて」
『『御意』』
管狐たちは一斉に駆け出していく。瑞貴はもう一度、父の身体を揺すった。身体の表面を覆っていた白いプロミネンスは消えている。
「父さん……っ」
呼びかけに、うっすらと千歳が目を開けた。その顔は、なぜかとても穏やかで満足そうに見える。
「瑞貴か……」
「そうだよ。父さん、分かる⁉」
千歳の声はしっかりしており、普段と変わらなかった。瑞貴は安堵に瞳を潤ませながら叫んでいた。一方の千歳は、目覚めた顔に微笑すら浮かべながら、少し残念そうに呟いた。
「ああ……。戻ってきちゃったんだな」
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