陰陽師③
一方、地上での式神同士の戦いは続いていた。鬼と老武士、僧侶を相手に、二人の若武者が健闘している。
「櫻子、よくも俺の邪魔をしてくれたな」
「兄さん、目を覚まして。自分の力を活かしたいって言った兄さんの言葉は、こういうことじゃなかったはずよ」
「うるさい。半人前の素人陰陽師が。手ずから息の根を止めてやる」
逆上した夏陽は櫻子を睨みつけ、印を結んで低い声で真言を繰り返し始める。櫻子は悲愴な面持ちで唇を噛み、兄を見つめた。
「木生火。春の桜の『木』の気は、夏の陽光の『火』の気を扶ける。闇落ちした兄さんを救えるのは、私だけよ」
夏陽の真言は、黒い大きな気のうねりとなって、その背後に現れた。戦っていた夏陽の式神たちもその黒いうねりに吸収されていき、風化するように消えて紙切れになる。それを見た櫻子も自分の式神を呼び戻し、人型の紙に戻して手中に収めた。灰色の荒野で、二人の陰陽師が対立する。
夏陽の真言に対抗して自分も真言を唱えることを、櫻子はしなかった。怒りの気魄を呪文に込める夏陽に向かって、櫻子は静かに語り始める。
「そうね、兄さん。私は四人きょうだいで唯一女子に生まれて、おじいちゃんから陰陽道を教わることはできなかった。でも私は兄さんたちの後をいつもついて回って、見よう見まねで修行をした。三人の兄さんたちの中で、陰陽師として大成したのは夏陽兄さんだけだったわね。そして、正当な継承者ではない女の私に陰陽師の才能があると認めて、密かに道を説いてくれたのも夏陽兄さんだった」
夏陽は据わった眼で真言を何度も繰り返している。まるで櫻子の言葉を耳に入れまいとするかのように。そして櫻子は、そんな夏陽の真言をかき消すように話を続けた。
「兄さんは腕のいい陰陽師よ。……分かってる。お父さんは陰陽道に否定的で、鉄秋兄さんも冬海兄さんも陰陽道を捨てたも同然だし、夏陽兄さんが璃念寺に愛想を尽かしたことも、自分の力を活かしたいって言って家を出たことも、兄さんの気持ちを考えたら仕方のないことだった」
真言は、百八回繰り返すことで強大な力を発揮する。夏陽は真言を百八回唱えて、櫻子に術を仕掛けるつもりのようだった。自分を真っ直ぐに見つめる櫻子からいつしか目を逸らし、その眼は虚空を見ている。
「今さら、兄さんの力が必要だなんて、虫のいい話だと思うでしょう。お父さんや他の兄さんたちには夏陽兄さんの価値は分からないかもしれない。でも今、京都には兄さんの力が必要なの。私は知ってる。兄さんほどの力のある陰陽師は、この現代に他に存在しないって」
灰色の何もない荒野に、冷たい風が吹いた。夏陽の背後には、黒い気のうねりが蛇のようにのたうっている。瑞貴と大澤はただ、息を潜めて二人を見守っていた。
櫻子は、残念そうに溜め息をつく。夏陽の真言はもう八十回ほど繰り返されているようだ。このままでは術が完成し、櫻子の身が危うい。しかし、櫻子は数珠や錫杖を握ることすらしなかった。そしてただ、両手を合わせて目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。
「泥のなかから蓮が咲く」
唐突な、櫻子らしい屈託のない声に、夏陽の眼差しが揺らいだように見えた。瑞貴と大澤の視線も櫻子に注がれる。
「それをするのは蓮じゃない」
櫻子の声は、まるで教科書の詩を朗読する子供のようだ。
「卵のなかから鶏が出る」
真言を繰り返す夏陽の声が、わずかに震えた。
「それをするのは鶏じゃない」
「金子みすゞの詩だな……」
大澤が小さな声で独り言のように呟く。瑞貴は大澤と目を見合わせて、互いに困惑した顔をした。
「それに私は気がついた。それも私のせいじゃない」
子供のようなあどけない大きな声で詩を暗誦しながら、櫻子は涙を流していた。頬を伝う涙を、荒野の風が散らしていく。櫻子はなおも繰り返す。
「泥のなかから蓮が咲く」
「もういい、やめろ!櫻子!」
百八回まであとわずかという真言の途中で、夏陽はたまらず叫んだ。蛇のような気のうねりが一気に四散して消え去り、夏陽ははっとする。
「兄さん……」
櫻子は、涙に濡れた顔に微笑を浮かべる。愕然とした夏陽は、歪んだ表情を浮かべた顔を両手で覆った。
「一緒に帰ろう……」
夏陽は地面に両膝をつき、がっくりと肩を落とす。櫻子がそのそばにそっと近づき、小さな子供のようにちょこんとしゃがみ込んで覗き込んだ。
「この詩を一緒に歌ってたあの頃と同じ。夏陽兄さんは、今でも私が一番尊敬する、自慢の兄さんだよ」
一瞬、光が射して、美しい春の野原で座って互いに笑い合う幼い兄妹の姿が、まるで幻影のように二人に重なって見えた。
瑞貴が我に返ると、そこは中学校の校門前の薄暗がりに戻っていた。照度の低い街灯の光の下に、六花と蒼と雄然が立っている。
「ようやく戻って来たか」
雄然がしびれを切らしたようにごちた。
「やっぱり、志布井社長に蠱毒を仕掛けた術士は櫻子ちゃんのお兄さんだったんだね」
櫻子と夏陽の様子を見て、六花が残念そうに声を掛ける。夏陽は項垂れて、冷たいコンクリートに座り込んだままだ。櫻子は、三人に気付くと勢いよく立ち上がり、振り返る。その顔に、今しがたまで流していた涙の痕跡はない。
「雄然さん!ごめんなさい!鬼のされこうべ、橋姫に盗られちゃいましたぁ……」
情けない苦笑いをして、櫻子は頭を掻いた。雄然は驚きもせず、目を細めたまま腕組みをしている。
「昔から曰く付きの品というのは、人の手を転々と渡るものだ。これもあの髑髏の運命であったのだろう。なぁ、アリステアさん」
異層から戻って来たばかりながら、冷静に立ち上がってズボンの埃を払っている大澤に、雄然は同意を求めた。大澤は、何事もなかったかのように真面目くさった表情で頷く。
「そうでしょうな。まさか妖魔があの髑髏を攫っていくとは。私も大変貴重な経験をしました」
あんなことに巻き込まれて、そんな感想が出てくる大澤もたいへんな物好きだ。
「でも、橋姫はあの髑髏を何かの呪いに使ったりするつもりなんじゃないですか」
「なに。あの髑髏には、滝夜叉の櫛の歯を入れてあるからな。そう簡単には悪用できんだろう」
外法頭を手に入れて嬉しそうにしていた橋姫の顔を思い出して心配そうな瑞貴に、泰然自若に雄然はそう言って、久々にチェシャ猫のような笑みを浮かべた。櫛の歯がどんな力を発揮するのかは分からないが、雄然は余裕の表情だ。
一方、路上で放心したように座り込んでいる夏陽に、蒼が近付いた。
「お前を雇って志布井将孝を呪殺させたのは誰だ」
夏陽は力なく顔を上げ、蒼の顔を見た。
「我々は国からの命令で志布井将孝の呪殺事件を調査している。現在の日本の法でお前を裁くことができるのかどうかは知らないが、お前の身柄は国に引き渡されることになる」
「お前らは……」
「私たちは、日本の妖魔を保護して共存を図るための国の外部機関、民俗保全協会です」
六花が名刺を差し出すと、夏陽は興味半ばにそれを手に取って眺め、軽く嘲笑した。
「保護して共存か。生温いことを……。宝珠が再来して妖魔は蘇ったが、それを祓う陰陽師も法師も力を失いつつある。妖魔が制御不能になる日もそう遠くはない……」
「その貴重な陰陽師の力を濫用したのはお前だろう」
魂の抜けたような声で独り言のように呟く夏陽に、蒼が冷たく言い放った。
「雇い主の名を明かすのが怖いのか。国はお前を拘束するが、それだけの力があれば、守らざるを得ないだろう。お前は安全だ」
「いや。あの男は俺に何もできはしない。人を超えた術に憧憬する、嫉妬深いただの男だ」
嫉妬深い男。志布井に使役されていた山姥も、似たようなことを言っていた。
「それは、うちの店に空き巣の下見に来た、あの足の悪い男のことか」
雄然がわざとらしく皮肉な言い方で、夏陽に問うた。夏陽はうっすらと下卑た微笑を浮かべる。
「ああ。そうだ。俺を雇っていたのは、風見原陶生だ」
「風見原陶生。確か、ウェザーコックス・コーポレーションの会長だったか」
ウェザーコックス・コーポレーションは新進のシステムインテグレーターで、志布井社長のブイ・ミューズとも一部の分野で競合する大企業だ。社名は有名だが、企業幹部が率先してメディアに晒されることがなく、会長も志布井社長ほどの知名度はない。名前を聞いてすぐにそれと分かったのは、蒼だけだった。
「風見原……」
その名前に、瞬時に顔色を変えたのは瑞貴だった。風見原――。それは夏の終わりに小夜を養女に迎え入れたという、都心に豪邸を持つ家の名前だった。瑞貴は愕然とした。志布井将孝を呪殺させ、桃泉堂から鬼のされこうべを盗み出そうと画策していたのは、小夜の養父だったのだ。
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