家族①
「キリン、大きかったねー」
寒空の下、不忍池を臨むテラス席は、日曜日の昼時といえど人もまばらだ。空は澄んで高く晴れ渡っているが、乾いた空気は身を切るように冷たく、風が吹けば痛いほどだ。それでも、テーブル席に向かい合って座っている小夜は、ハンバーガーを頬張りながら満足そうにしている。瑞貴と小夜は、朝から上野動物園を訪れていた。
「麒麟って、中国の聖獣でしょう。動物のキリンとは全然違うけど」
「ああ、キリンビールのマークのやつ」
鹿や龍や牛が合わさったような聖獣の麒麟はキリンとは似ても似つかないが、こういう話題を持ち出すのが小夜らしい。実際のキリンは思っていたより巨大だったが、のんびりと口を動かして咀嚼している姿は可愛らしく、平和や幸福の象徴という意味では聖獣ともイメージが重なる。
「んー。ゾウとトラはまだ見てないものね」
「うん。東園はこの後、また回ろう」
冬の不忍池はタール色の水面から乾いて赤茶けた蓮の茎が無数に突き出していて、寒々しさを際立たせている。かじかむ指をこすり合わせながら、瑞貴の頭の中に、水族館を勧めれば良かったかな、という思いがよぎる。
動物園に行きたいと言ったのは小夜だった。バレンタインの手作りチョコレートのお返しに欲しいものを聞いてみたところ、動物園にデートに行きたいと小夜が答えたのだ。
三月に入ったが気温はまだ低く、瑞貴は屋内でランチにしたかったのだが、小夜は不忍池が見渡せるテラスを希望した。陽の当たるテーブル席を選んではみたものの、晴れていてなお染み入るような寒さだ。
「パンダ、見られなくて残念だったね」
「うん。でも、パンダはそれほど見たかったわけでもないし……。グッズは可愛いけど」
小夜はクリスマスの時と同じ白のファーコートを着ている。見た目は可愛らしいが、あまり暖かそうには見えない。中は膝上丈のグレーのワンピースで、相変わらず生足が覗いている。見ている方が寒くなるが、小夜は寒さなどほとんど感じていないようだった。
「キツネザル見に行ってから東園に戻ろうか」
「瑞貴くんは見たい動物いないの?」
テーブルの上に園内マップを広げていた瑞貴は、逆に質問されて考え込んだ。小夜が行きたいところに行くつもりでいたので、あまり考えていなかった。瑞貴は子どもの頃、千歳に連れられて動物園に行った時には何が好きだったかな、と首を捻る。
「僕は……バクが見たいかな」
「ふふ。バクは、悪夢を食べるって動物ね。私も見たい」
あまりにも寒いことを除けば、デートらしいデートだ。午前中、夜行性の動物の屋内展示施設に入ったが、照明が落とされて真っ暗な中、小夜の方から何気なく手をつないできた。お互い手袋をしていたけれど、瑞貴はドキドキしてしまった。隣の人の表情もよく見えないほどの暗さに救われて、最初のどぎまぎした顔は見られずに済んだ。屋内施設を出た後もずっと手をつないで歩き、小夜の華奢で小さな手を、瑞貴は壊れ物のようにそっと握っていた。
ランチの後、二人はキツネザルや水鳥を見に行き、不忍池の周りを散策した。歩いていれば、寒さは多少はましだった。日曜日なので家族連れも多い。寒い中でも小さな子供たちは元気に走り回り、ベビーカーを押す若い夫婦の姿もたくさん見かけた。
東園に戻る長い橋を渡っている時に、小夜がトーンダウンした静かな口調で切り出した。
「私ね、動物園って初めて来たの」
「えっ、そうなんだ」
「うん。水族館とかテーマパークも、行ったことないわ」
瑞貴は不思議そうに小夜の顔を見た。小夜は少し淋しそうな表情で笑っている。
「私の今のお父様は、本当のお父様じゃないのよ」
小夜は瑞貴の方を窺うようにちらりと見て、瑞貴が真面目な顔で耳を傾けているのを見て取ると、話を続けた。
「早くに両親を亡くして、親戚の家を転々としたの。そのたびにお引越しして。色んなお家に住んだわ」
「そっか……」
突然の告白に瑞貴は驚いたが、控えめに相槌を打って小夜の次の言葉を待つ。
「酷い扱いを受けたことはないけど、普通の家庭の子みたいに家族でお出かけしたことはないわ。去年の夏の終わりに、風見原の家に正式に養女に迎えてもらったの。愛倫女子高校にも編入させてもらえてお友達もできたし、今が一番幸せかも」
「それで動物園に来たかったの?」
「うん。一度、来てみたくて」
世間ずれしておらず立ち居振る舞いも上品で、まさに深窓のお嬢様という雰囲気の小夜だが、意外にも苦労してきたようだ。瑞貴は急に小夜に親近感を抱いた。
「僕の家は父さんしかいないんだ。母は僕が物心つく前に亡くなったから、よく覚えてない。父さんは男手一つで僕を育ててくれたんだよ」
「あら、そうなの」
「小学生の頃から風呂掃除や洗い物したり、ご飯作ったりしてたから、家事は割とできるよ。料理が一番得意だけど」
「へぇ。すごーい。私は料理はあんまりしたことなくて。この前のチョコレートもすごく頑張って作ったんだから。今度、瑞貴くんに何か作ってほしいな」
「そんな、特別なものは作れないけど……」
「特別じゃなくていいの。私はどこのお家でもお世話はしてもらえる環境だったから、そういうことが自分でできるのって憧れるわ」
そんなことで褒められるとは思っていなかったので、瑞貴は急に照れ臭くなる。親を亡くしたという境遇は似ているが、小夜はやはりもともと裕福な家の生まれなのだろう。引き取られていた先も豊かな家だったに違いない。
「今もね、家には家政婦さんが来てくれて、身の回りのことはしてくれるの。お父様は仕事でいらっしゃらないことも多いし夜はお邸に一人のこともあって、淋しいから猫を飼ってもらったのよ」
あの界隈に住んで、家政婦や庭師がいるのだから、やはりお嬢様には違いない。瑞貴は、小夜に告白されるきっかけになった小夜の猫を思い出す。毛艶の良い上品な三毛猫だった。
橋を渡り切ったところで、小夜は突然、ひらりとスキップして瑞貴の正面に回り込む。
「瑞貴くん、私、ソフトクリーム食べたいな」
この寒さの中でソフトクリームとは瑞貴は苦笑したが、小夜の翳りのない瞳を見ると、何も言えなかった。
二人は一つだけソフトクリームを買って、それを食べながら動物園の東園を回り、ゾウやトラやバクを見て、グッズショップに立ち寄った。小夜が一口あげると言ったソフトクリームを、瑞貴が躊躇しながら遠慮がちに齧ると、小夜は小悪魔的に悪戯っぽく微笑んだ。瑞貴はソフトクリームの味はおろか、冷たいかどうかすら感じなかった。グッズショップで、瑞貴はパンダのコインポーチを小夜にプレゼントした。
動物園を出たのは三時半頃で、小夜は駅に行く前に上野公園を散歩したいと言い出した。一日中広い動物園の中を歩いていたのに、見かけによらず体力がある。小夜は赤い手袋を外して、白くて細い左手を瑞貴に向かって差し伸べる。
「瑞貴くん、手、つないで」
瑞貴は面食らい、あたふたしながら自分も手袋を外した。緊張して手汗が滲みそうだったが、触れた小夜の手が氷のように冷たくて、汗も引く心地だ。
「手、冷たいね」
「うん。瑞貴くんの手、あったかい」
宝珠のある右手を、小夜が握っている。緊張しながら、瑞貴は小夜と肩を並べて歩き始めた。公園の中には美術館や博物館が点在しており、小さい子供連れのファミリーは動物園に比べると少ないものの、大人同士のグループやカップル、外国人観光客などが行き交っている。
並木に囲まれた細い散歩道に入ったところで小夜は立ち止まり、瑞貴の手を握る手に力を籠めた。
「瑞貴くん、今日はすごく楽しかった」
「うん。また小夜ちゃんの行きたいところがあったら、一緒に行こう」
「ほんとに?嬉しい」
小夜は少しはにかんだように下を向くと、瑞貴の両手を自分の両手で握って、花のように綻ばせた顔を上げ、瑞貴の顔を見つめる。吸い込まれそうな、きらきらと輝く美しい瞳。
「瑞貴くん、ありがとう」
お礼を言う小夜の表情は、何かを待っているようだった。鈍い瑞貴でもさすがに察したが、瑞貴自身の方にまだ心の準備ができていない。
(えっ……いや、待てよ……。でも……僕の勘違いかもしれないし……)
瑞貴は煮え切らない表情で沈黙したまま逡巡した。そして、小夜の両手を強く握り返す。
「うん。小夜ちゃん。寒くなってくるから帰ろう。家まで送るよ」
早口で瑞貴は言って、小夜の左手を引っ張るようにして駅の方へと向かった。小夜のちょっとつまらなさそうな顔を、瑞貴は見ないようにしていた。
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