情念②
行き遭い神に出遭ったのは、その帰り道だった。頂上近くの一番険しい坂を降り、ようやく少し平坦な道に出たところだった。踏み固められてできた獣道のような山道を塞ぐように、そいつはうずくまっていた。こちらに背を向けており、痩せさらばえたほとんど骨格だけの灰色の体に襤褸を纏って、背を丸めている。瑞貴たちにはまだ気付いていないようだった。美弦は素早く、袖の中で印を結ぶ。
「瑞貴、身を低くして動かずにいるんだ」
言われた通りに身を隠しながら、瑞貴は以前、行き遭い神に遭遇した時のことを思い出していた。夏、神社の祭りの翌日に、管狐のタカネとフウロを連れて一人で山を歩いている時だった。山道をゆらゆらと歩いてくる行き遭い神をいち早く見つけて草叢に身を隠したが、気付かれそうになったところを祀の化身である蛍に助けられたのだ。前回は行き遭い神が歩いていたのでやり過ごせばよかったが、行く手を塞がれては、回り道をするか、いなくなるまで待つか、退治するかしかない。美弦は、風呂敷包みから小さな巾着を取り出し、行き遭い神を睨みつけて退治する構えだ。
「念のため、これを口に含んでおくといい」
美弦から渡されたのは糒だった。行き遭い神の一部はひだる神とも言われ、行き逢ったものを者を飢餓状態にさせるということは、瑞貴も知っている。瑞貴が糒を口に入れている間に、美弦は巾着から取り出したものを握りしめ、低い声で唱え始める。
「払え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸い給え」
同じ詞を三回繰り返し、美弦は手の中のものを行き遭い神に投げつけた。糸に通された白い勾玉のようなもの。投げた瞬間に、行き遭い神は首をもたげ、こちらを振り返った。
空洞の眼窩。虚ろなその奥の底知れない闇。襤褸にくるまれている痩せ細って形骸化した体躯。飛んできたものに顔を背けたその肩の辺りに、勾玉のようなものが命中した。行き遭い神は、祀の化身の蛍が閃光を放った時と同様に、身をのけぞらせる。表情もなく声も持たない傀儡のような体が傾き、地面に倒れ込む寸前に、行き遭い神は空気に溶けるように消えていった。妖魔がうずくまっていた場所に、美弦の投げた勾玉と水色の何かが落ちている。美弦はそこに駆け寄ると、その二つを拾い上げた。
「祓ったんですか?」
「退散させただけで、消滅させたわけじゃないよ」
答えながら、美弦は拾ったものをしげしげと眺めている。瑞貴も立ち上がり、近寄って美弦の背後から、手の中を覗き込む。
「あ、投げたのは勾玉じゃないんですね」
糸を通した白いものは、大きな動物の牙のようだった。
「うん。これは狼の牙だよ。狼は、この山の神の遣いだからね」
しかし、美弦が気にしていたのは、もう一つ落ちていた水色のものの方だった。古惚けて薄汚れたそれは、小さな子供用の靴だ。柔らかな布地でできた小さな靴を片手に持って、美弦は前後や表裏に返して見ていたが、踵の付近に目を留める。
「瑞貴、これ」
美弦が振り返り、瑞貴の方へと靴の踵を向けて見せた。そこには手書きの文字で『みずき』と記されている。
「えっ」
瑞貴は驚いて靴を手に取った。そしてそれを間近に見た瞬間、ある記憶が蘇ってきた。
「僕、これに見覚えがあります」
以前、これと同じ靴が、自宅の母の遺影の前に置かれていた。いつしかそれはどこかにしまわれたようで、最後に見たのは小学生くらいの頃だったので、すっかり忘れていた。この靴は、家にあったあの靴の片割れだろう。
「これ、たぶん、僕のです」
それがなぜ、今ここにあるのかは分からなかったが、瑞貴はそう確信した。美弦も顎に手を当てて首を傾げながら頷いている。
「あの行き遭い神が持っていたのか。あの妖魔は、宝珠の力に引き寄せられて来たのかな……?」
「僕は、夏にもこの山で、あの行き遭い神に遭ったんです」
「えっ、その時はどうやって逃れたんだい?」
「祀様が助けてくれました。……そう、ぬらりひょんさんが言ってたんです」
「そうか……」
祀の名が出たことで、美弦は妙に納得した顔をした。小さな水色の靴を掌に載せていた瑞貴は、顔を上げて言う。
「この靴、僕が持っててもいいですか?」
「ああ。もともと瑞貴のものだし、特に悪い気を放っている様子はないから、大丈夫だろう」
瑞貴は靴に付いている新しい土埃を軽く払う。煤けた靴はそれ以上綺麗にはならなかったが、瑞貴はそのまま背負っていたリュックサックの中にしまった。
空は先刻よりさらに暗くなり、雨が降り出しそうだ。行き遭い神が消え去った獣道を通過して、二人は下山を急いだ。
秩父での二泊三日は、美弦と宝珠に関する資料を整理して過ごした。美弦の言っていた祀の手記の他にも、それ以前の宝珠が書き遺したものや、宝珠の補佐の覡巫が記録したと思しきものまで、内容は多岐にわたっていた。
「パソコンとかでデータ管理した方がいいんだけどね。さすがに僕一人じゃそこまで手が回らなかった」
「これ、民保協の二人に見せてもいいですか?」
「そうだな。民保協の本部はともかく、六花さんと蒼さんだけなら問題ないんじゃないかな」
「わかりました」
膨大な資料を前にして、瑞貴は気が遠くなりそうだった。一部には美弦の現代語訳が付いているが、ほとんどの資料は古い言葉で書かれている。この資料の山の中から人魔相殺に関する情報を引き出すなんて、雲をつかむような話に思えた。
瀬尾稲荷の雪絵にも話を聞いて、三日後に瑞貴は東京に戻った。資料はまず、祀のものとその前の代の宝珠の遺したものを、家に送ってもらうことにした。それだけでも途方もない量であり、古文や漢文を含めて古典の得意でない瑞貴は暗澹たる気持ちで家路についた。
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