情念①
十一月の後半の連休に、瑞貴は秩父に向かった。父親の実家である寒月峰神社は、暁父山の山中にあり、瑞貴の自宅からは三時間弱ほどかかる。秩父駅には、いつも従兄の美弦が車で迎えに来てくれていた。
「まぁ、遠いところよく来たわね。上がってちょうだい」
宮司一家が住んでいる離れに着くと、祖母の蔦子が出迎える。千歳は瑞貴が二歳の時に家を出て、祖父の再三の電話にも拘らず、一度も帰省していなかった。瑞貴に宝珠の力が顕現したのを契機に、五月の連休にやむを得ず十四年ぶりに父子で秩父に帰ったのだった。
「あ、瑞貴。おかえり」
伯母である吏は今日は離れにいた。その気さくで朗らかないつもの様子に安心する。
「また千歳は帰って来ないのね。年末年始くらいは帰省するつもりがあるのかしら」
呆れたように言う吏だが、弟に対する愛情があることは瑞貴も知っている。
秩父の家に着くのはいつも昼時になってしまうため、蔦子が昼食を準備してくれている。今日は離れにいる吏や美弦も一緒に食事をした。神職や巫女はプライベートでは装束を身に着けないことになっており、この二人も祖父の晴海も離れにいる時は私服だった。
「瑞貴、午後、山頂まで付き合ってくれるかい」
自ら急須で緑茶を淹れながら美弦が言った。十一月の秩父の山は東京都心よりも肌寒く、美弦は群青色のニットを着ている。禿と言うのがぴったりな髪型は、美弦の柔和な顔立ちによく似合っている。
「山駆けですか?」
「久し振りに来て早々、そんな無茶は言わないよ。今日はのんびり行こう」
山駆けは修験者が山の中で行う修行のひとつで、夏休みに滞在していた時には毎日、美弦と二人で早朝に山頂まで登っていた。陸上部で年に数回、山トレーニングをしている瑞貴にとって、山駆けはそれほど苦痛な修行ではなかったが。
瑞貴と美弦は神社の拝殿に詣でた後、暁父山の山頂へと向かった。山駆けの時には山伏の装束を着るが、今日は美弦はセーターにブルゾン、瑞貴はジャージ姿だった。途中、浄縁沼を通り、沢を渡り、急峻な山道を木の根や岩につかまりながら登る。落ち葉が厚く積もった山道は、ゆっくり登っても汗ばむほどには険しかった。
「わぁ、秋の頂上はまた眺めがいいですね」
夏の鮮烈な緑色とは趣が異なって、少し旬を過ぎたものの黄金色に熟した山々の色は圧巻だ。二人は頂上にある役小角の従者である前鬼と後鬼の像の周りを掃き清めた。二つの像も布で拭きあげると、その表面は滑らかに黒く輝いた。
美弦は徐ろに、背負っていた風呂敷包みから横笛を取り出す。荷物を岩陰に置くと、立ったまま背筋を伸ばし、笛を唇に当てて吹き始めた。高い龍笛の音が奏でる雅楽の旋律は、爽やかな秋の山頂の空気を顫わせる。遠くの山にかかる霧が、笛の音で殊更に幽玄に見えた。瑞貴は何も言わず、傍らでそれを眺めていた。美弦の笛の音は淀みなく響く。
瑞貴にとって、久し振りに聴いた雅楽だった。夏に寒月峰神社で巫女舞を舞って以降、舞の練習はあまりしていない。しかし夏休みにみっちり練習したせいか、音が鳴れば自然と体が動くほどには、身に着いていた。美弦が無心に吹く龍笛の調べに合わせて、瑞貴もいつしか身体を動かし始めた。
静穏な秋の陽光の下、美弦が龍笛を吹き、瑞貴が舞を舞う。二曲を吹き通したところで、美弦は笛から唇を離した。
「ジャージでも、所作が綺麗だと様になるね」
「ありがとうございます」
ブランクがあるので、ぎこちなさや誤魔化した振りもあったが、美弦は満足そうに微笑んでいた。
「瑞貴」
遠くの山を見渡しながら、美弦は改まった口調で呼びかけた。その横顔は、百鬼夜行の夜空に鏑矢を放った時のように凛としている。
「僕は、瑞貴に謝らなきゃいけないことがある」
「謝る……?」
唐突な美弦の言葉に、瑞貴は困惑した。美弦は横笛を片手に持ち、遠くを見つめたままだ。
「瑞貴。僕は、宝珠になりたかったんだ」
「えっ」
「僕はずっと日本の古い信仰に興味があってね。大学では民俗学を専攻してたんだ。神道っていうよりは、山岳信仰とかアニミズムとかが専門だったけどね。母さんが巫女として寒月峰神社に戻ったこともあって、上条家に百五十年ごとに現れる宝珠の言い伝えも以前から知っていた。先代の巫女から百五十年が経っていて、そろそろ次の宝珠が現れる時期だっていうこともね」
美弦の視線は時々、瑞貴に注がれたが、不思議そうに自分を見つめる瑞貴の眼差しにぶつかると、また遠くの山あいへと戻って行った。
「大学卒業までに自分に宝珠の力が顕現しなかったから、諦めて一度は就職した。でも、やっぱり宝珠のことが気になって、寒月峰神社で神職になることにしたんだ」
美弦の独白に瑞貴は言葉を失い、ただ茫然とその横顔を凝視する。舞を舞って汗の滲んだ瑞貴の額を、芳醇な秋の香りのする風が撫でた。
「階位を取って寒月峰神社に入った後、僕はこっそり宝珠についての資料を集め始めた。神社の社務所や離れの蔵にあるものだけじゃなく、郷土史に載ってる民話なんかもね。そして、拝殿の中で僕は祀様の手記を見つけたんだ」
「祀様……先代の」
「うん。そこには祀様の修行の様子や妖魔にまつわる出来事、宝珠の力のことなんかが色々書いてあった。江戸時代後期から明治時代くらいの手記だから、現代語訳が必要で、大学の後輩に手伝ってもらいながら、解読を進めてたんだ」
美弦はゆっくり前鬼と後鬼の像の方へと向き直ると、その前に膝を折る。両膝の上に龍笛を載せ、その上に両手を重ねると頭を垂れた。その姿は、まるで懺悔をするかのようだった。
「瑞貴が宝珠だと分かった時、僕は嫉妬した。どうして僕じゃなかったのかって。宝珠のためにずっと研究してきたことを、渡したくないって思ったんだ」
「美弦さん……」
瑞貴の声が掠れる。まさか、美弦がそんな気持ちでいたとは。瑞貴にしてみても、なぜ自分が宝珠なのかという思いはずっとあった。父親が実家を飛び出し、宝珠のことも神職のことも何も知らない自分になぜ力が顕現したのか。宝珠の力を得た当初はどうしたらいいのか分からず途方に暮れていたし、妖魔に命を狙われて力を恨めしく思うこともあった。今ですらその話を聞いて、やはり美弦の方が宝珠に相応しいのではないかという考えがよぎる。
「百鬼夜行の後も、僕はずっと悶々としてた。宝珠になる望みは失ったけど、意味を見出せないまま、僕は祀様の手記を訳し続けた。手記には『八葉の花』のことも書かれていたよ。そこに、次なる宝珠に求める資質っていう記述があったんだ」
『八葉の花』とは祀が生み出した鼈甲のような花弁から成る花で、宝珠の行いにより錬成される八枚の花弁によって形作られる蕾に宝珠の力を内包させ、宝珠不在の時代にも力を残せるようにする試みだ。祀が錬成した七葉の花弁の一部は散逸し、寒月峰神社の本殿に安置されている花には今、四枚しか花弁がない。
「宝珠に求める資質はいくつかあって、その一つに『道に囚われぬこと』というのがある。僕はこれの意味をずっと考えていた」
美弦は地面に膝をついたまま、前鬼と後鬼の像を振り仰いだ。
「『道』とはつまり、神道のことなのか。そうであれば、物心つく前に神社を離れた瑞貴が宝珠に選ばれたことには納得がいく。じゃ、それは予想されたことだったのか、それとも何かの導きによるものなのか。そもそも、宝珠は次の宝珠を自らの意志で選ぶことができるのか。次々に疑問が湧いてきた」
前鬼と後鬼の像を見上げていた美弦は、そのままの姿勢で急に瑞貴を振り向いた。瑞貴はなぜか身を固くする。一瞬、目の前にいる美弦が、自分の知らないまったくの別人のように見えた。
「つい先日、ぬらりひょんが訪ねてきたんだ。正確には、表参道で待ち伏せされてたんだけどね。ぬらりひょんは百鬼夜行以降も秩父に滞在してたみたいだけど、京都に行く用事ができたから離れると言っていた」
急な話題の転換に、瑞貴は面食らう。しかし、美弦が明るく見慣れた笑顔に戻ったので、少し安堵した。
「ぬらりひょんは言ったんだ。代々、宝珠の傍らには必ずこれを支える覡巫の存在がある。宝珠となる者は依り代であり、覡巫はこれを導く助言者である。美弦殿は瑞貴の先達となり、行く末を照らしてやらねばならんぞ、って」
美弦は立ち上がると、地面に置いていた風呂敷包みを取り、龍笛をしまった。そして、瑞貴のすぐそばまで歩み寄る。
「ぬらりひょんが僕の気持ちを見透かしていたのかどうかは分からない。でも、僕はそれを聞いて天啓を得た気がしたんだ。宝珠は、瑞貴のように素直で打算がなく、すべてを柔軟に受け止められる器であるべきだ。初めから、僕に宝珠の素養はなかったんだ」
美弦の清々しい表情に、瑞貴はどう応えるべきか悩んだ。
「そんな……僕は……打算がないとか、そういうことじゃなくて、ただ、余裕がなかっただけで……」
「いいんだ、瑞貴。ごめん。これは、僕の気持ちの問題だ。もう吹っ切れたんだよ」
そう言って、美弦は子どもをあやすように瑞貴の頭をポンポンと軽く叩いた。瑞貴は泣き出しそうだった。
「宝珠について、僕が研究したすべてを君に伝える。そして僕は、宝珠を支えられる覡巫になれるように頑張るよ」
「美弦さん……」
優しい兄のような従兄の笑顔の裏に葛藤があったことを知って、瑞貴はいたたまれない気持ちだった。
「隠しててすまなかった、瑞貴」
「美弦さん、いえ、あの……僕は、色んな人に助けてもらわないと、宝珠ではいられないんです。だから……」
「謙虚なのは瑞貴の美点だな。でも、もっと自信を持った方がいい。瑞貴はちゃんと、宝珠として選ばれたんだから」
いつもの柔和な笑顔で、美弦は瑞貴の肩に手を載せた。瑞貴は、鼻の奥がツンとして涙が出そうになるのを、どうにか堪えていた。
空は少し曇り、冷たい風が吹いて午後の空気の気温を下げる。二人は前鬼と後鬼の像に手を合わせると、下山を始めた。
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