ep1「あれはくじらだ」
11月の早朝。むつ湾内の川内港より、なにか大きな獣の吐息を思わせるような汽笛が鳴り響いた。
それは目覚めの息吹だった。陸に係留されていた5つの黒い影たちが、もやいを解かれて一斉に海原を滑り始める。
それらの艦影は、もしも近くにあるとすればいささかディティールがかすみ過ぎているし、遠くにあるとすればあまりにシルエットが大きすぎた――――だが正解は後者だ。艦隊を構成する艦はいずれも、一世紀ほど前に建造された<大和型戦艦>をも凌ぐほどの巨躯を持つ。実に300m超を誇る艦体を、冬の凍えるような海面に浮かべているのだ。
「艦隊の総員に通達。第九十八遠洋伐鯨船団、現時刻をもって出港す。我に続け」
計5隻からなる遠洋伐鯨船団が出港する。率いるのは、三胴式の旗艦だ。
しかし、その堂々たる規模に見合わず、港から艦隊を見送ろうとする者はほとんどいない。これも日常の風景に過ぎないからだ。漁港にひっきりなしに運び込まれてくる<くじら>は、今やどの魚介類よりも扱いが多い。最重要の海産資源であり、重要インフラの資源であり、漁業を脅かす最大の脅威でもある<くじら>は、しかしそれゆえに日常に入り込み過ぎていた。
この日はただ一人、10才ほどの男子小学生だけが物珍し気に艦隊を見つめていた。
「これが……ねえちゃんが乗るっていう、<くじら>を獲って来るための<ばつげいかん>なんだ」
一週間前、近所に住む高校生の娘が、伐鯨艦隊に徴集されることになった。
名前は佐藤、下の名前は知らない。彼女とはさほど仲が良かった訳でもなく、二三度、町内会の集まりで話したことがあるくらいだった。しかし、そんな彼女がどこか海の遠くに行ってしまうという事実は、少年の心に妙に引っ掛かり続けた。
憧れだとか、ほんの淡い恋心だとか、そんな風に感情をカテゴライズすることをまだ知らない少年は、それをよく分からない喪失感という形でしか理解できなかった。
「今、なにを思っているんだろう。寂しいのかな」
少年には、伐鯨艦隊に赴くことになった彼女の心は分からない。
彼女は今まさにどこかの艦に乗っているはずだった。姿が見えないのが残念だった。
「あっ」
だが、遠ざかっていく旗艦の甲板上に見覚えのある人影があった。黒髪の長いポニーテールが冷たい潮風になびいている。
少年は思わず手を振っていた。内気な性格の彼らしくもない行動だった。
「気を付けてー!」
果たしてその行動に気付いたのか。甲板上にいた彼女も手を振り返して来た。少年はそれが嬉しくて両手で大きく手を振ってみた。人影が見えなくなるまで、ずっとそうしていた。
それから7年後、やがて高校生になった少年は、彼女と同じ伐鯨船団に徴集されることになった。
季節は回って11月、寒空の早朝。まるで彼女を見送ったあの日の再現のような景色だ。
決定的に違うのは、今度は自分の方が、港から去り行く伐鯨艦の甲板上にいるということ。そして傍らには先輩乗員である佐藤がいるということだ。
すっかり遠ざかって水平線の向こうに沈みつつある街を、2人は見送っていた。
「また出港かー って言っても、伐鯨艦隊に来てからのことはよく思い出せないから実感はないんだけどね。なんだか初めての出港みたいだよ」
「そんなこと言わないでくださいよ、佐藤先輩。俺にとっては本当に初めての出港なんですから」
「新人く……じゃなくって、小林くんはルーキーだものね」
あれから7年間、佐藤の姿は全く変わっていなかった。
あの頃はかなり高いと思っていた彼女の背丈は、今や自分よりも頭一つ小さいくらいだ。実は彼女は小柄な方だった。ここ7年間、<くじら>を追って全国各地の海を回っていた彼女の時間は、すっかり止まっていたかのようだ。
「なんで海に出ると記憶があいまいになるんでしょう」
「それもやっぱり<くじら>のせいだっていう話だよ。艦隊の人たちもそう言ってた」
「そりゃあ何度も<くじら>がいる異海に入る訳ですもんね。あそこは現世とは違う空間だし、時間の流れが違うっていう噂も聞いたことがあります」
「らしいね。でも何年経ってもこの街は変わらないでいてくれて助かるよ。変わらないんだもの。人も街も、全部」
佐藤の視線には、安心感と諦観の色が複雑にまじりあっている。
たしかに佐藤の言う通り、何年経とうがこの街はうんざりするほど変わらなかった。<くじら>の内蔵を炉心に据える電力プラントも、肉の加工工場も、化学プラントも、全ては<くじら>を中心に回っており、地域の産業も働き口も変わる様子は一切ない。
だから彼自身、街を出る時に感じたのは、故郷を離れる寂しさとかではなかった。むしろどういう形であれ、この鬱屈とした場所から抜け出せるというある種の解放感だった。かつての佐藤も同じ心境だったのだろうか、と思う。
「あ、そうだ!食事」
ふと、佐藤が甲板の出入り口に向かい始める。
「異海に入ったら飲食が禁止されちゃうでしょ。だからその前に食べておかなきゃ」
「たしかに規則としてありましたね。異海で飲み食いしたらどうなるんです?」
「戻れなくなる」
「えっ」
佐藤の目に冗談の気配は感じられない。だが、表情はすぐに崩れた。
「っていう噂。にひひ」
「なんだ、脅かさないでくださいよ」
「さ、ここが食堂だよ。もちろん<くじら>肉もあるよ。伐鯨艦だからね」
艦の食事は美味いらしいという噂は聞いていたから、なにを食べようかと小林は思案する。<くじら>の肉はもううんざりするほど食べて来たからいいのだが、やはり魚介系の料理が多く出るのだろうかと考えていた矢先、艦内に注意を促す警報音が鳴り始めた。艦隊司令からの緊急アナウンスだ。
『総員に通達。本艦隊は想定より早く異海に入りつつある。これより一切の飲食は禁止。<くじら>との遭遇に備えて第二戦闘配備。繰り返す第二戦闘配備――――佐藤と小林の両名は速やかに銛撃ち艦への座乗を完了させろ』
「遂に来た……!」
「まあまあ小林くん、あまり緊張しないでね。リラックスだよ」
「ええ、操艦の訓練は受けてきましたから大丈夫です。やれます」
2人は三胴式構造の旗艦内部の通路を走り、それぞれ艦体の左右ブロックへと分かれた。
小林はパイロット用のロッカーで速やかにスーツへの着替えを済ませると、艦の左ブロックへ通じる通路へと向かった。突き当りのハッチは既に整備員が開放してくれており、すぐに乗り込めと合図を送ってきている。
「小林さん、L艦はすぐに発艦可能です!」
「了解!これより座乗します」
ハッチの向こうにあったのは、上下左右を壁で覆われた船の甲板上だった。
ここは旗艦の内部であるにもかかわらず、その中にもう一つ甲板がある格好だ。船の中に船がある。そんな奇妙な甲板上の様子を当たり前のものとして受け止めつつ、小林は座乗用のゴンドラリフトから、甲板上のハッチを通じて単座艦橋へと乗り込む。
シートベルト固定。通信装置のスイッチを入れた。
「L艦より報告。単座艦橋への座乗完了。主機起動よし」
『同じくR艦より報告、こちらも座乗完了。主機起動よし』
コックピットスペースは二~三畳ほどと、密閉空間にしてはそこそこの広さだ。しかし、おびただしい計器類が全面を覆っているために特有の圧迫感があり、艦橋と呼ぶ割には息苦しさが否めない。
小林はマニュアル通りに起動手順をこなしていく。訓練通りの手順だ。やがて一瞬軽い振動が発生した後に、規則的なゆったりとした微振動が伝わるようになって来た。主機の原子炉が稼働状態に入ったのだ。
『艦隊司令より各艦へ。異海への突入は間もなくと考えられる。L艦、R艦はただちに発艦して<くじら>の探索、ならびに迎撃にあたれ』
「了解。係留解除の後に発艦します」
直後、L艦とR艦の艦体は母艦から切り離された。
この光景を外から見ていたなら、三胴式構造であったはずの旗艦がそのまま3つの船に分かれていく様子が見てとれたことだろう。艦の右側ブロックはR艦、左側ブロックはL艦、それぞれ独立した銛撃ち用の艦となって徐々に母艦から離れていく。
それこそが、異海突入用単座型伐鯨艦<いさなぎ級>二隻の姿だ。
分離したことで計7隻の編成となった艦隊。その中でも<くじら>への銛撃ちを担当する2隻だけが、大海原の中に突如として現れた極彩色の霧へ突入しようとしていた。
「これが異海と現世の境界なのか」
モニター越しに初めて異海の境界部を目にした小林は、無意識に指が震えていることに気付いた。
もちろん存在を聞いたことはあったが目にするのは初めてだった。霧の向こうは見通すことが出来ない。しかも辺りの海には生物の気配が全く感じられず、不気味なほどの静けさだ。
『そう、これが日本全体を覆っている境界部だよ。この異海に囲まれたせいで全ての海は閉ざされた。空も宇宙も霧に覆われて行けなくなった。そして同じ時期に<くじら>が現れるようになった。私たちが生まれた辺りの話だね』
佐藤の語る通りだった。
約20年前、日本は突如として異海と呼ばれる領域に囲まれることによって、完全に孤立した。まるで海の向こうにある世界の全てが消え去ってしまったかのようだった。今も日本以外の世界が存在しているのか、はたまた日本だけが世界から切り取られてしまったのかは、今や誰にもわからない。
分かっているのは、この異海はもはや現世ではないこと。
そしてこの向こう側に、捕るべき<くじら>が居るということだ。
『編隊を崩さないで。わたしから離れないでね。速力最大!』
「了解!続けて突入します」
白波を立てて進む二隻の<いさなぎ級>は、ほとんど接触しそうなほどの至近距離を保ちつつ、極彩色に光る霧の中へと入り込んで行く。
この霧は神域たる異海と現世を隔てる壁のようなもので、すなわち広い意味での結界だ。ゆえに生者が存在を保ったまま往復することは本来不可能な領域とされてきた。
ただし、魂を運ぶ器たる船があれば話は別だ。古事記におけるヒルコの葦船伝説の例でも示唆されているように、海という異界で魂を運ぶのは船の役割なのだ。それゆえに異海へ赴く<いさなぎ級>は船という形態で設計されている。
二隻はやがて、主観時間にして5分ほどで霧を抜けてみせた。その船体が遂に神域たる異海に足を踏み入れる。そこは反射的にすくんでしまいそうなほどに青く晴れ渡った空と、現実の海では有り得ないほどに青黒い海だけが広がる領域だった。
「異海への侵入を確認。ここが神域ですか。まるであの世みたいだ」
『小林くん、分かっているとは思うけど、ここではたとえ何が現れたとしても――――』
「はい、分かっています。全て<くじら>と認識します」
『そして私たちは人間だよ。わかるね』
この現世ならざる特異空間において、主導権を持つのは人間ではない。
あくまで<くじら>たちの空間なのだ、と小林は訓練中にひたすら教え込まれてきた。言葉が容易に認識を書き換え、さらには実体すら侵蝕する――――異海とはそういう神域本来の性質を帯びた空間なのだと。
青く晴れ渡った空と海面との間を注意深く観察している最中、R艦から通信が入った。
『12時方向!<くじら>一体を発見!』
「そんなところに居るはずは……居た!」
先ほどまで何もなかったはずの海域に、気付けばそれが現れていた。
佐藤がそれを発見したから報告したというよりも、佐藤が発見したからそこに存在が現れたと表現する方がしっくりくるタイミングだった。言語と認識が存在を形作る空間、その意味がほんの少しだけ実感として湧いてくる。
ゆらゆらと蠢く不定形の黒いシルエットは、距離感も動きも把握しづらい。まるで目のピントを合わせようとしても滲む影のように見える。
『白兵戦用意。戦闘速力へ移行。艦を巡航突入形態から伐鯨形態へ遷移開始!』
二隻の<いさなぎ級>は黒い影に向かって速力を上げると、まるでバイクがウィリー走行をするかのように艦首を引き上げ始めた。やがて持ち上げられた艦首は胸部となり、割れた艦尾は背部パーツと脚部に分かれ、最終的に腕が側面から展開される形で、艦体は人型のシルエットへと変化し終えた。
我は人間である。
これはそういう宣言としての変形機構であり、パイロット自身のアイデンティティを人間側に保つために設けられた、ある種の呪術的安全装置とでも言うべきシステムだ。
脚部の裏に設けられた水中翼とハイドロジェットエンジンの推力によって、二隻は50ノット超の速度で海面を滑るように機動する。いよいよ<くじらと>との白兵だった。
佐藤から最終確認のように通信が届く。
『R艦より報告を要請。前方の物体はなんだ?』
「報告。あれは<くじら>だ」
『報告を受領。我々はなんだ?』
「再度報告。我々は人間だ」
これは対<くじら>戦において必須のプロトコルだった。
一度でもそれを<くじら>以外の何かだと認識してしまえば、その時点で相手の形態はいかようにでも変化してしまう。「名は体を表す」という一般的な表現を援用するなら、ここは「名が体を決定する」とでも言うべき空間だった。相手の存在を名によって縛る、基礎的な呪術的プロトコルとしての復唱だ。
この空間において、言葉は人間の武器に他ならない。
『よし、言語による認識固定化プロセスを完了。銛撃ちにかかる。撃ち方始め!』