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大壹 序乃壱  作者: 甘蜜亭 土竜
9/23

一章 倭 襲来 二

 波に揺られ既に何日が経過したのだろうか ? 時には雨が降り波が荒れ死にかけた事もあった…。だが、幸いにも今は穏やかな波である。蘭泓穎らんおうえいは何度も欠伸をした後大きな伸びをした。

 真夏の船室は蒸し風呂の様に温度が上昇する。窓を全て開け放っても其れは殆ど変わらない。心地の良い風が入って来るだけ幾分はマシとは言えるが、其れで船室の温度が画期的に下がる事はないし暑さが無くなるでも無い。

 既に蘭泓穎は上半身剥き出しである。程よい乳房が時折揺れ其処から汗が滴り落ちる。蘭泓穎は窓からヒョッコリ顔を出して見渡す限りの海を見やった。

 初めは心地良かった波の音も今ではただ、ただ煩わしいだけである。其れでも波の音は暑さを忘れさせてくれる便利な音でもある。その音に混じり兵士達の騒ついた声が耳を濁す。何かあったのかと耳を澄ますが波の音が邪魔で良く聞き取れなかった。頭を船室に戻すと船室の扉を見やった。

「外に出て来てはどうか ?」

 落ち着かない蘭泓穎を見やり母である帥升が言った。

「外が騒がしくあります。何かあったのでしょうか。」

「さぁ…。何かあれば報告があろう。」

「そうですね…。」

 と、蘭泓穎は又窓から頭を出した。帥升は蘭泓穎を見やり侍女達を見やる。

 船室の中には六人の侍女がいる。二人は大きな団扇で帥升を扇ぎ、二人は蘭泓穎を扇いでいる。残り二人は扉の両横に立っている。

 既に侍女達は汗だくである。時折水を飲み渇きを癒す。が、蒸し風呂の様な船室の中では癒しに等ならない。だから、侍女達は定期的に交代を繰り返し乍ら何とかやり過ごしていた。勿論帥升とて此の暑さの中にいつ迄も居たい訳では無い。だが、表に出れば強烈な太陽の日差しが肌を焼く。帥升には其れが堪らなく嫌だった。

「其方等…。少し休まれよ。こう暑くては死んでしまうかもしれん。妾も少し外に出るとしよう。」

 侍女達に帥升が言った。日に焼かれるのも嫌だが、この蒸し風呂の様な船室にいるのはもっと嫌だった。

「母様…。外に出られるのですか ?」

 帥升の言葉を聞き蘭泓穎が言った。

「少し気分転換にな。泓穎も外に出てはどうだ ?」

「外は飽きました。見渡す限りの海。海、海…。海以外何も無い。雲の形は変わっても海の形は何も変わりませぬ。」

「好きにすれば良い。だが、余り侍女を酷使するでないぞ。」

 そう言って帥升は椅子から腰を上げた。

 と、その時である。船室の扉が勢いよく開いた。皆が扉の方を見やる。

「帥升様に報告。」

 と、恰幅の良い男が中に入って来た。其れを侍女が慌てて止める。

「陽大将軍…。此処は帥升様の間。断りも無しに入るは失礼ですぞ。」

 と、扉の両横に立つ侍女が腕を陽の前に出した。

「おぉぉぉ。此れは失礼。」

 と、陽は侍女を見やる。

「まぁ、良い。いつもの事…。其れで報告とは何か ?」

「おぅ、其れだ。中々に面白い事が起こっている。」

「面白い ?」

「そうだ。兎に角外に来てくれ。」

 そう言い終わると陽はスタスタともと来た道を戻って行った。

 帥升は何があったのか分からないまま、兎に角陽に言われるがまま外に行く事にした。まぁ、何にせよ外には行くつもりだったのでちょうど良かった。

 船室は船の腹の部分にある。だから、外に出るには部屋を出て狭い廊下を歩いた先にある階段を上らなければならない。

 帥升は部屋を出て狭い廊下をテクテク進む。すると蘭泓穎がパタパタと小走りでやって来た。

「飽きたのではないのか ?」

「何があったのか私も見てみたく思います。」

 そう言いながら衣服を直す。

「どうせ詰まらぬ事であろう。陽は大袈裟な男だからのぅ。」

 と、二人はテクテク進み、トントンと階段を上がって外に出た。外に出ると兵士達が騒ついている。帥升は周りを見渡してみるが陽が言った面白い事が一体何なのか皆目見当がつかない。蘭泓穎もキョロキョロと周りを見やるが特に変わった様子はない。

 だが、確かに兵士達は騒ついている。だから、帥升は周りの船を見渡した。周りで何か異常な事が起こっているのかと思ったからだ。だが、兵士が騒ついている事以外は特に変わった様子は無かった。

「帥升様。何処を見ておられる。私の言う面白い事と言うのはあれだ。」

 と、ヒョッコリ戻って来た陽が言った。陽は此処より少し先にある小島を指差した。帥升はその小島を見やり眉を顰めた。

「母様…。あれは何でしょう ?」

 泓穎が問う。

「黄色い煙…。狼煙か。」

 帥升が言う。

「狼煙 ? 黄色い狼煙。妾は初めて見ましたぞ。」

「しかもだ。あれはその先の島から、そしてその先にある島からも上がっている。」

 更に指を差し陽が言った。

 小島から上がる黄色い狼煙が、高天原から、迂駕耶から立ち登る黄色い狼煙が帥升が乗る船からもしっかりと見えた。

 其れは逆に言えば小島の高見台にいる兵士達にもしっかり確認する事が出来ていると言う事である。船の数は五百隻。内二百隻は航海の途中に沈んでしまった。其れでも三百隻。一つの船に五〇〜六〇の兵士、秦の民が乗船している。つまり一万八千人の人が迂駕耶に向かっているのだ。その圧倒的な数の前に兵士達は恐怖を感じた。

「何なんだ…。あの船の数は…。」

「あ、あぁぁ。まるで島が動いているようだ。」

「しかも、異様な程大きい。あの中にどれだけの兵がいるのか…。」

 兵士達は口々に思うが事を吐き出しあう。思う事を必死に言い合えば現実が変わるかも知れないと思ったのか、其れとも言葉に出して気持ちを落ち着かせ様としたのか真意は分からないが、高見台の兵士達に船の進行を停止させる術が無い事だけは確かである。

 船は目前にまで迫って来ている。其れは高天原の高見台からも既に見える距離である。兵士達は船団を見やり、帥升達は黄粉を見やっている。

「射抜くか ? 先頭の船からなら射抜ける距離だ。」

 陽が言った。

「別に構わぬ。猿が如何に足掻こうと猿は猿であろう。見ておる事しか出来ぬ猿に何が出来ようか。」

「確かに…。なら、放っておくか。」

「妾が射抜こうか ?」

 蘭泓穎が言った。

「姫君がか…。其れも良い。姫君は弓の名手だからな。」

「鳥を射抜けば良いであろう。」

「鳥は飽きました。」

 と、言った蘭泓穎の瞳はとても冷たいものだった。

 氷の様に冷たい瞳、蘭泓穎は時折この様な瞳を見せる。否、蘭泓穎に限った事ではない。倭族とは元々そう言う種族なのだ。だが、厳密に言えば其れも否である。元の元を辿れば温和な種族だったと言えるのだ。

 其の昔…。一万年前と言う遥か昔。倭族と言う言葉さへ無かった時代。天煌国のある場所には様々な集落があり皆が平和に暮らしていた。

 その頃の倭人は他の種族とは違い体が大きく力が強かった。その大きさは他の人の二倍近くはあったそうだ。だが、彼等は優しく支配する事もなく他集落どうしの争いの仲介等をかって出ていた程である。

 だが、時が過ぎ氷河期に入ると、今まで築き上げて来た文明が一気に崩壊し人々は今を生きる事に必死になって行った。僅かな食料を求め人は彷徨った。だが、僅かな食料では多くの人は生きて行けない。

 其処で人が考えた事…。

 其れは倭人を食料として飼育する事だった。

 人の二倍の体を持つ倭人は食料も人の二倍の量を必要とした。だから、食料をまともに手に入れる事が出来ない状況では本来の力を出す事が出来ず、人の襲撃に争う事さへ出来ないまま倭人は家畜にされた。

 こうして倭人は家畜として人に飼育される様になった。この時代は長く氷河期が終わっても尚続いていた。だが、倭人は他の家畜と違い体は大きいが見た目は人である。だから、時代の流れと共に人は倭人を性の対象として弄んだりもした。産まれて来た子供は当然家畜である。

 人は倭人と倭人を交尾させ乍ら人は倭人を弄び子を産ませた。その様な事が続き倭人の体は時と共に人と変わらぬ大きさになって行った。今の倭人の体格はこの時代に形作られた。

 この様に家畜とされて来た倭人が如何にして神の一族になったのか ? 其れは一人の青年が自分の置かれている境遇に怒りを感じ暴動を起こした事に始まる。体が小さくなったと言っても倭人は倭人である。その力は強く秘めた怒りは凄まじかった。

 奴隷としてでは無く、家畜として飼育されて来たのだ。彼等にとって其れは決して許せるものでは無かったはずである。優しさが消え去った倭人はただただ残酷な種族でしかなかった。

 つまり、温和で真根の優しい倭人を残酷な種族に変貌させたのは人なのである。其れから数年の時を経て人は完全に倭人の奴隷となったのだ。

 其の統治は長く三千年、否、五千年とも言われているが真実を知る者など何処にもおらず。既に倭人が家畜であった歴史を知る者もいない。

 だが私は知っている。

 長き統治は倭人を堕落させ自分達の益を増やす事にただ時間を費やし始めた。次の王位を巡り倭人は争い其れに伴い国は衰えた。其れは王が死ぬ度に起こり、度重なる戦で倭人の数が急速に減り始めた。

 盲目であったのだ。周りが見えずそれ故反乱の兆しに気づけなかった。気付いた時には遅かったのだ。各地で奴隷が反乱を起こし倭人は振り回される事になる。その反乱はやがて一つの大きな勢力となり倭人に襲いかかって来た。

 長い戦いの末、倭人は統治を放棄した。即ち自分達の過ちを認めたのだ。人を奴隷とせず人としての地位を人に返還したのだ。その事に人は喜び歓喜した。そして此処に初めて人が建てた王朝が誕生した。其れが夏王朝である。

 そして、統治を放棄した倭人は神として存在する事で、一切の権限を持たぬ代わりに王が多額の税を倭人に支払った。だから、当初帥升が政の話に乗り気でなかったのは君臨すれど統治せずだったからである。

 だが、倭人が常に戦いに備えていたのも確かである。統治せずと言っても君臨している以上人がいつ反乱を起こすかは分からない。君臨に甘えていては滅ぼされてしまうのは火を見るより明らかなのだ。だから、神として君臨する以上倭人は常にその力を維持し続けなければいけなかったのだ。

 其れに今の倭人は太古の倭人と違い温和ではない。自分達の非を認めたからと言って残酷な部分が消え去ったでもない。其れは人の血が混じる事でそうなったのかも知れないが、現在の倭人はどの種族よりも残酷である。

 長きに渡り戦から離れていたとは言えその強さは計り知れず。一度牙を剥けば獰猛なライオンだと言えた。

 蘭泓穎の冷たい眼差しが黄粉を見やっている。だが、其れは蘭泓穎だけでは無い。倭族の兵も秦の兵も民も其れを見やっている。

 その中に民に紛れた別子の三子が二人。油芽果ゆめか薙刀なぎなである。

「黄粉じゃか…。」

 油芽果が言った。

「じゃよ。」

「此れだけの数を見よっても赤粉は上げよらんのじゃな。」

「呑気じゃ…。じゃぁ言いよっても仕方無いんかも知れんのぅ。」

「じゃな…。」

 と、油芽果は並走する船の更に向こう側を走る船を見やる。

「物資運搬船はあれじゃ。」

 其の船を指差し油芽果が言う。

「おぅ…。」

「此処からピョンピョンピョンと飛んで行かねばいけん。じゃから、我等は此処から走って…。」

 と、油芽果は船の左端に行く。そして全速力で右端に移動した。

「ピョンじゃ。」

「ピョンじゃか。」

「其処から手すりを蹴って更にピョンじゃ。」

「ピョンじゃか…。」

 と、薙刀は並走する船を見やる。

「ちと、離れ過ぎてはおらんか ?」

 薙刀が言った。薙刀の言う様にピョンで行ける程近くを走ってはいない。

「じゃよ。じゃぁ言いよっても我等はその先の船に行かねばいけんのじゃぞ。」

「じゃから、我があの船に乗ろう言うたんじゃ。」

 と、薙刀は並走する船を指す。

「そんな事言いよっても遅いぞ。」

「じゃよ…。」

「何にしよってもじゃ…。ー薙刀は何歩駆けれよるんじゃ ?」

「我は二歩じゃ。」

「二歩じゃか…。」

「油芽果は何歩じゃ ?」

「我は二歩と半じゃ。」

「じゃかぁ…」

 と、二人は船と船の距離を目視で計る。正確に測らずとも確実に無理な距離である事は確かだ。

「手すりからピョンで天津を二歩駆けよる。」

 油芽果は頭の中で想像する。が、何度想像しても届かない。

「困りよった。」

「じゃよ…。」

 と、二人はボーッと船を見やる。そんな事をしている間に船団は刻一刻と高天原に近づいて行く。

「そうじゃ、あれじゃ。鉤爪じゃ。」

 思いついたかの様に油芽果が言った。鉤爪とは別子の三子が壁を登る時に使用する銅製の爪である。分かりやすく言うと忍者が腕に付けている例のあれである。が、この当時の鉤爪は腕に取り付けるタイプの物では無く手に持つタイプのやつである。

「鉤爪じゃか ?」

「じゃよ。あれに紐を括り付けて投げよったら、手すりに引っかかりよる。」

「成る程じゃ。引っかかりよったら、紐をつたって登れよる。」

「じゃよ。」

「流石油芽果じゃ。天才じゃか。」

「じゃろ。」

 と、油芽果は笑みを浮かべ空を見やった。

「さて、天に帰る準備じゃ。」

「じゃな…。後は皆にまかせよる。」

 と、二人は船倉に続く階段に向かう。

 帥升が乗船している船には帥升と蘭泓穎の船室があるが、他の船には船室は無く船室がある場所は荷物や物資等を仕舞う倉庫となっている。油芽果達が目指す物資運搬船は兵士や民の荷物等は無く文字通り物資のみを運んでいる船である。

 二人は階段を降り狭い通路を通り船倉にたどり着く。

 心なしか扉が重い。

「勝てるんかのぅ…。」

 油芽果が言った。

「大丈夫じゃ…。」

「我は心配じゃぞ。」

「何を言うておる。その為に我等がおるんじゃ。其れに卑国には鬼がいよる。」

「き…。」

 と、油芽果はクスクス笑った。

「そうじゃった。卑国にはがいよる。」

「じゃよ。しかも最強の鬼じゃ。」

「じゃな。ー良し。開戦の合図を上げに行こうぞ。」

 と、油芽果は扉を開け中に入った。

 中に入ると二人は自分達の道具箱から赤の紬を取り出し、着ている衣服を脱ぎ捨てた。

「どうせなら、化粧もしたいのぅ。」

 薙刀が残念そうに言った。

「毛も剃りたいぞ。」

「ほんまじゃぁ…。じゃぁ、言いよっても時間がないしのぅ。」

「じゃよ。紬を着て最後の任務が出来よる。それだけで幸せじゃぁ。」

 紬を着ながら油芽果が言う。

「じゃな、三子の娘として死ねよる。」

 そう言い乍ら薙刀は結っていた髪を解き一つでに結び直す。二人は紬を着ると最後に帯を強くしめポンと腹を叩いた。

「さて、鉤爪じゃ。」

 と、二人は道具箱箱から鉤爪を取り出し手頃な紐を見つけ鉤爪に縛り付けた。念の為直ぐに取れてしまわないか数回強く引っ張って確認する。グッ、グッと引っ張っても外れる様子はない。

「良し。薙刀、合口は ?」

「持っておる。」

「赤粉は ?」

「持っておる。」

 と、袖を振り回す。

「出発じゃ。」

 と、二人は元来た道を進み甲板に出る。甲板に出ると秦の民が油芽果達を不思議な目で見やった。

鍑羽ふうはうその衣はなに ?」

 秦の娘が薙刀に問うた。薙刀はスッと空を見やり。”空に帰るのよ”と答える。

「空に ? 項凛こうりんも空に ?」

「そう。私達は帰らなければならないの。天高く舞あの空の彼方へ。」

 と、油芽果が言うと其れを聞いていた秦の民はこぞって哀れみの目で二人を見やった。

「可哀想に…。暑さで狂ってしまいよったぞ。」

「仕方無い。こう暑くてはおかしくもなるさ。」

「まったくだ…。黙って天に行かせてやろう。」

 と、口々にこの様な言葉が飛び交う。

「これこれこれこれこれ…。私達は正常だ。そんな事より少しそこを

空けて貰えませぬか。」

 と、自分達が助走をつける場所を民が占有していたので空ける様に薙刀は言った。民達は気の触れた娘の言う事だと素直に場所を空けてやった。

「さて、行きよる前のおさらいじゃ。ー我等は此処からあっちに向かって走りよる。」

 と、油芽果はテクテクと歩き乍らおさらいをする。

「そして、此処じゃ。此処でピョンじゃ。」

 と、手すりに向かってジャンプする場所を指差す。

「良いか。間違わんように、我が掛け声を掛けよる。ひぃ、ふぅ、みよこでピョンじゃ。」

「みよこでピョンじゃな。」

「じゃよ。其れで手すりに着地からの更にピョンからの天津を二歩駆けよるからの鉤爪じゃ。」

「了解じゃ。此れは史上稀に見る完璧な作戦じゃ。必ず成功しよる。」

「じゃよ。」

 と、油芽果は定位置に戻って来ると秦の民を見やり。

「私達は今より天に帰る。見よ。天女の舞を !」

 と、大きな声で言った。民達は何をするのかと興味深々で二人を見やる。

「良いか。」

「良い。」

「シャァァァ !」

 と、二人は全速力で走り出した。みるみる内に手すりが目前に迫る。

「ひぃ」

 油芽果が号令を掛ける。

「ふぅ」

「みぃ」

 で、二人は前方に飛び上がり、手すりに着地と同時に更に高く前方に飛んだ。

「ジャンゴ !」

 と、天高く飛び跳ねた娘は天津を駆ける。そして、その姿は秦の民達の目には天女そのものに見えたに違いない。例え二歩しか駆ける事が出来なくても、その二歩を駆ける事が出来る人等秦にはいないからだ。

 天津を二歩駆けた二人は鉤爪を手すりに向かって投げる。完璧であった。此れで鉤爪が手すりに引っ掛かれば見事乗り移りは成功である。

 が、残念な事に鉤爪は手すりには届かなかった。紐が短かすぎたのだ。油芽果達がチョイスした紐の長さは自分の丈程の紐である。対し油芽果達が鉤爪を投げた場所は其の場所から更に十歩程駆けねば届かぬ場所である。つまり、届く届かないとか言う問題以前の話と言う事なのだ。

「しもうたぁぁ ! 短かすぎよったぁ !」

 と、二人は叫び乍海に落ちた。

 ポチャン…。

 何とも悲しい音が鳴る。

 油芽果達を見やっていた民達は、”娘がおちよったぁ !”と、慌てて手すりの所に駆け寄り海を見やる。

 油芽果達が余りにも見事に空を駆けたので、秦の民達はその一瞬本当に天に帰るのかと思ったのだが、落ち方が余りにも無様だったのでついつい心配になってしまった。が、其れは取り越し苦労だったと直ぐに分かる。二人が海面に顔を出したからだ。

「ブハァァァ…。死ぬか思いよったぞ。」

「まったくじゃ…。其れより船は何処じゃ ?」

 と、薙刀は周りを見やる。既に船は油芽果達を置き去りにしてポッポ〜と先に進んでいる。

「大変じゃぁ ! 置き去りじゃぁ。」

 薙刀が叫ぶ。

「いけん、いけん。泳ぐんじゃ !」

 と、油芽果達は長い袖を腕に巻きつけ泳ぎ出した。だが、泳げど泳げど追いつけない。だが、追い付かなければ任務は失敗に終わる。此れは非常にまずい…。

「駄目じゃ。追いつけよらん。作戦変更じゃ。」

「変更…。どうするんじゃ ?」

「このまま直接あの船に行きよる。」

 と、油芽果は物資運搬船に進路を変更する。だが、当然の如く追いつくはずはない。目前の船に追いつけないのだ、更に向こうの船に等追いつける筈がない。だが、油芽果達は必死に泳ぐ。

「いけん…。このままではどんどん離されていきよる。」

「じゃよ…。」

「そ、そうじゃ。鉤爪じゃ。鉤爪を投げよって船に引っ掛けよるんじゃ。」

 と、油芽果は鉤爪を投げる。が、ほぼ目前で鉤爪は海に落ちた。

「駄目じゃ…。紐が短かすぎるぞ。」

「じゃぁ、あれじゃ。紐を持たずに投げればええんじゃ。」

「それじゃ…。薙刀其方も天才じゃか。」

「じゃろ。」

「其れでは行きよる。ひぃ、ふぅ、みぃ、ジャンゴ !」

 と、二人は鉤爪を船に向かって投げた。 

 今度は確かに遠く迄飛んだ。だが、残念な事に船には届かなかった。

「駄目じゃ。もう少し近づかねば届きよらんぞ。」

「じゃな。」

 と、二人はまた必死に泳ぎ始めた。

 と、今度は先程迄とは違い船との距離が縮まって行っているのが分かる。此れは風が止んだのだ。秦が建造した船は帆船である。だから風が止むと動きが止まる。

「油芽果…。船が止まりよった。」

「おうじゃ。今のうちに近づくんじゃ。」

 と、二人は更に泳ぐ。泳いで泳いでかなり船との距離が縮まると、油芽果と薙刀は鉤爪を投げる準備を始めた。が、問題の鉤爪が無かった。

「鉤爪はどこじゃ ?」

 と、油芽果は薙刀を見やると、既に薙刀が油芽果を見やっていた。

「我の鉤爪もありよらん。」

「なんと…。何処で無くしよったんじゃ…。」

 と、二人は暫し考える。

 此処で二人は初めて鉤爪を海に投げ捨ててしまった事実に気づいた。

「やってしまいよったぞ。」

「まったくじゃ。此れは大失敗じゃ。」

「兎に角船が動く前に着かねばじゃ。」

 と、二人は又必死に泳ぎ始めた。ジャバジャバと水をかき船に向かって泳ぐ。

 ジャバジャバ

 ジャバジャバと二人は必死に泳ぐ。すると其れを見つけた兵士が慌てて声を掛けた。

「おーい。何をしている。落ちたのか !」

 船の上から兵士が叫ぶ。油芽果と薙刀は顔を見合わせ、よっしゃぁとばかりに大きく手を振った。

「じゃ、じゃ、落ちた。助けて。」

「おぅ、今紐を投げる。其れに捕まれ。」

 と、兵士は紐を縛り付けた丸太を海に放り投げた。其れを聞いていた周りの兵士達が何事かと集まってくる。

「どうしたんだ ?」

「女が海に落ちたらしい。」

「海に。この穏やかな波ででか ?」

「あぁぁ、見てみろ。」

 と、言うと皆が海を見やる。其処には丸太に向かって必死に泳ぐ女が二人。

「鈍臭い女だ。ーあれ…鍑羽と項凛じゃないか。」

「なんだ、知り合いか ?」

「知り合い ? 何を言っている。項凛は項雲大将軍の娘だぞ。」

「なんだって ! 其れは大変だ。直ぐに引き上げろ。」

 と、兵士達は丸太にしがみついた二人を慌てて引き上げてやった。紆余曲折色々あったが何とか二人は無事物資運搬船に乗り込む事が出来た。

「まったく…。大丈夫か ?」

 と、兵士達が口々に言葉を掛けて来たが、溺れていたと言う事に焦点が向いていたからか二人が着ている紬に違和感を抱く者はいなかった。

「だ、大丈夫じゃ…。」

 息を切らせながら油芽果が言った。二人は甲板にへたり込み既に力尽きている。

「まったく、項雲大将軍の娘だからと言って余り無茶はしないでくれ。」

「反省します。」

 と、言いながら薙刀は重い腰を上げた。

「もう少し休んではどうだ。」

「そうしたいのですが、衣の水を絞りたく思います。」

 と、油芽果も腰を上げる。

「そうか…。」

 と、兵士達は二人を見やる。

「衣服を脱いで絞りますので、其処の船倉を少しお借りしても宜しいか ?」

 と、薙刀が言うと項雲大将軍の娘の頼みならと兵士達は簡単に承諾した。

 二人は息を整え乍ら船倉に向かう。トントンと階段をおり、狭い通路をテクテク歩く。そして扉を開け中に入ると鍵を閉めた。

 船倉の中には油の入った大量の壺、小麦粉が詰められた麻の袋、大豆、酒等の物資が所狭しと置かれていた。二人は先ず船倉の窓を全て閉めた。

「薙刀…。赤粉はありよるか ?」

「全部海に流れて行きよった。」

「我もじゃ。困りよった。」

「じゃな…。」

 と、薙刀は小麦粉の入った麻袋を一つ一つ見やりながら、その中の一つを抜き取った。

「何しよるんじゃ ?」

「こんな事もあろうかと此処にしこたま赤粉を入れよったんじゃ。」

 と、薙刀は合口で袋を破くと中から大量の赤粉を取り出し油芽果に見せた。

「やりよる…。矢張り其方は天才じゃ。」

「じゃろ。其れで此れを何処にまきよるんじゃ。」

「油壺の周りで良い。油に火がつきよったら後は勝手に登って行きよる。」

「了解じゃ。」

 と、二人は赤粉を油壺の周りに撒くと、今度は小麦粉の入った麻袋を合口で次々と破りはじめ、其れを空中に撒いた。

 撒いて、

 撒いて

 撒きまくった。

 やがて船倉の空気は白く濁り油芽果、薙刀、お互いの姿が見えなくなる程になった。

「ちと、やりすぎではないか ?」

 薙刀が言う。

「何を言うておる。開戦の合図じゃ。派手な方が良いに決まっておる。」

 と、油芽果が言った所に扉を叩く音が響く。一向に船倉から出てこない二人を心配した兵士が様子を見に来たのだ。

「おい、大丈夫か ?」

 兵士が問うが二人は答えない。

「さて、覚悟は良いか。」

 油芽果が問う。

「聞くでない。我等は三子ぞ。」

「おい、聞いてるのか ?」

 と、兵士は扉を開けようとするが鍵が掛かっているので開かない。

「見事じゃ。薙刀。ー其れでは行きよる。」

 と、油芽果は火打ち石を握る。

「ひぃ」

「おい、返事をしろ。」

 と、兵士は無理矢理扉を開けようとする。

「ふぅ」

「おい…。」 

「みよこぉ !」


 そして…。


 ドン !


 大爆音と共に船倉が木っ端微塵に吹き飛んだ。其れと同時に燃えたぎった炎が物資運搬船を瞬く間に飲み込み、飛び散った炎は周囲の船をもその餌食とした。

 黒く立ち登る煙は赤粉と混じり真っ赤な狼煙となって天に登って行く。其の爆音は凄まじく皆が其の方向を見やった。

「な、なんだ。」

 突然の爆音に陽の心臓は止まりそうになった。蘭泓穎は少しチビってしまった。帥升は内心心臓がバクバクしていたが其れを表に出さぬ様必死に努めた。

「ふ、船が燃えてる。」

 燃え盛る船を見やり蘭泓穎が言った。

「一体何が…。」

「や、八重か…。」

 帥升は強く燃え盛る船を見やる。

 そして…。

 帥升はクスクスと笑い出した。

「母様…。な、何がおかしいのです ?」

「どうやら、我等は舐めておった様だ。」

「そう、みたいだな。」

 と、陽は赤い狼煙を見やる。

「何がです。」

 と、問う蘭泓穎に、”見よ、赤い狼煙が上がっている。”と帥升が指を指す。

「赤い狼煙…。」

「黄色の狼煙が上がり、今赤い狼煙が上がった。そして、それは…。」

 と、帥升は小島、高天原、迂駕耶を見やる。

 小島から上がっていた黄色い狼煙は赤粉と混じり橙になり、やがて真っ赤な狼煙となって天高く登って行く。其れは高天原、迂駕耶に飛び火して行きやがて空を真っ赤な雲で覆い尽くす。

「戦線布告か、其れとも侵略を告げる合図か。何にせよ、戦が始まった。と、言う事だ。」

 小島を見やり陽が言う。

「戦が…。なら、射抜いても構いませんでしょう。」

「当然であろう。我等はその為に此処にいる。殺したいだけ…殺せ。」

 そう言って帥升は燃え盛る船を見やる。

「八重…国か。見事な開戦の合図であった。」

 そう言って帥升は船室に戻って行った。


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