錫の身上
お酒の力を借りないと、言えないことってあるでしょう。
本当はね、そういうのって大人として情けないなぁって思うんですけど、自分の力で話したいなぁって思うんですけど。でも、たまには勢いに身を任せるのもいいですよね。せっかくお酒があるところに飲みにきたわけですし。
君は、あまり聞きたくない話かもしれません。聞きたくなかったら、無視して音楽でも聴いておいてください。僕が勝手に話します。
以前、僕が使っているペーパーナイフはどこで買ったのか、と君は聞きましたね。あれね、本当に知らないんです。あれをもらった当時、嬉しくて舞い上がっちゃって、聞くのを忘れたんです。聞いておけばよかったですね。当時付き合っていた、恋人からの贈り物です。
そんな顔をしないでくださいよ。もらった事実は変えられないんですから。とにかく、あれは彼からもらったものです。
十二年くらい前になるのかな。あのナイフは今よりもっとピカピカで若々しくて、それから持ち手には、僕の名前が彫ってあった。ベタですよね。でも、お店に頼んで、名前を彫るという手間をかけてくれたことが嬉しかった。
あのころの僕は、経理課にいました。ペーパーレスはまだ浸透していませんでしたから、今よりももっと封書が多くて。ほら、社員の保険関係の書類とか、どんどん来るんですよ。あれ、みんな締め切りまでに出さないから困るんですよね。懐かしいなぁ。まあそんなわけで、紙に触れる機会が多かったんです。
僕は皮膚が人よりも少し薄いので、しょっちゅう紙で指先を切っていました。紙ってあんなに薄いのに、切れるとすごく痛いじゃないですか。それで、いつも絆創膏が欠かせませんでした。
彼は……ああ、名前は知りたくないでしょうから、「彼」って言いますけど。僕がしょっちゅう絆創膏を巻いているものだから、心配してね。
真面目な人でした。本当に、いやになるくらい冗談が通じない人でしたよ。でもそこが良いところでもありました。彼は指を痛める僕を心配してくれて、「せめて封書を開けるときはこれを使え」って、あのペーパーナイフを贈ってくれたんです。僕の誕生日だったかな。それはあんまり、よく覚えてないんですけど。
彼は僕の同期でした。誠実さを買われてずっと企画課で働いていました。……え? いいえ、今はいませんよ。いませんけど、僕の同期でした。彼は普通の男でした。普通、なんて言ったら今の時代叱られるかもしれませんけど、僕と付き合うまでは、女の人が好きな男でした。
付き合うことになった経緯、聞きたいですか。僕はあまり話したくないんですけど。……ああ、それなら助かります。過去の色恋沙汰なんてね、今となったらむなしいだけですから。単純に恥ずかしいですし。でも、僕は僕なりに一生懸命でしたよ。恥ずかしいな。
話を戻しましょうか。僕は、あのペーパーナイフを大切に使っていました。みんなから「気取ってる」なんてからかわれましたけど、恋に酔っていたので気になりませんでした。
僕と彼のことは、絶対の秘密でした。今なら、もう少しオープンになれるんですかね。社会がそういう方向に変わっているのは良いことです。それでも僕は知られたくないですけど。
とにかく、僕は知られたくなかったので、会社の中では口をきかないようにしていました。どちらかの家で会うようにして、二人での外出もなるべく避けて。
彼は「隠さなくていいと思う」と口では言ってましたけど、本当は怖かったと思います。外を歩くときは自分から離れて歩いていましたしね。そういうものです。それが正しい。でも、口だけでもそう言ってくれる彼が、僕は好きでした。
過去形です。今はもう、終わったことです。
二十八になって、彼からプロポーズされました。古典的に指輪なんか渡されて。それで、家族にも紹介したいと言われました。
嬉しかったですよ、とても。でも同時に、「この人大丈夫なのかな」と不安になりました。だってそうでしょう。同性であることに、あまりにも無頓着すぎる。そもそも入籍なんてできないので、婚約だって形だけのものです。それでも彼は真剣でした。正直言って、その真剣さが怖いと思いました。
恋は楽しいですけど、それは恋が遊びだからです。その先の現実というのは、楽しくないんです。だって、現実ですから。
お酒が入っているので、ちょっとキザな言い方になりましたね。笑ってもいいですよ。
当時の僕は、あまり彼に本音を言えませんでした。だから、指輪も受け取って、家族への挨拶も、いずれ、ということで承諾しました。
怖かったですよ。うまくいくわけがないと分かっていたのに、それを言い出せずに、彼の誠実さを闇雲に信じようとしていたわけですから。
一緒に住もうと言われて、部屋を契約して。その翌月には引っ越す予定でした。僕は流されるままで、言いたいことが言えない人間でした。彼と別れるのが嫌でした。馬鹿ですよね。だから、君みたいな人間に憧れるんです。
二人で暮らすなら、会社に正直に申告しなければいけませんでした。経理をやってたので、余計にごまかせないと感じていました。そして彼も真面目だった。
会社にも報告しよう、と彼は言いました。僕は頷けませんでした。怖かった。怖くて毎晩うなされました。絶対に無理だと思いましたし、無理だと彼にも言いました。指輪を返して、部屋の契約もなしにしたかった。彼は僕が拒否するのに戸惑って、不機嫌になりました。僕たちには現実が見えていなかったんです。
だって、言えますか。男同士で結婚します、なんて。いえ、今なら言えるのかもしれない。……いや、今でも僕は言えませんよ。怖くて言えません。言える人を否定するわけじゃありませんけど。
だって、男女の社内恋愛でも、みんなそういう目で見るでしょう。同じ課の人間が、違う課の人間と結婚するなんて話になったら、「どの人だろう」って探すでしょう。男同士なら尚更ですよ。「どの人と、どの人が」って、無意識のうちに探しますよ。僕だってそうします。そういうね、悪意のない好奇心が僕は怖いんです。
みんなね、自分は偏見がないと思っているんですよ。同じ性を好きになるってことを、理解している人がたくさんいるって僕も知っています。
でも、たとえばですよ。君には妹さんがいましたよね。たとえば、妹さんが結婚する、となったときに「彼には仕事を辞めてもらって、私が働いて家計を支えるの」って言われたら、どうですか。旦那さんが主夫になるって聞いたら。
そうですよね、ちょっとモヤッとするんです。働く女性がいて、主夫という役割があると頭では理解していても、いざ目の前に不慣れなものを突きつけられると、みんな違和感を覚えるんです。それって、ちょっと違うんじゃないかって。
こういうのは、偏見ではないんです。僕もひねくれた考えだと分かってます。固定観念と呼んだ方が正しい。けれど、固定されているから簡単には動かせない。同性同士の関係もそういうものです。いざ目の前に出されると、みんな戸惑う。何度も何度も周囲の人間に違和感を覚えさせてしまうことが、僕には耐えられなかった。
少しきつい言い方をしましたね。君を責めるつもりなんかないんですけど、いやなことを話しました。
ありがとう、僕は大丈夫。君は優しいですね。
それでね、結局彼は、会社に報告したんです。笑うでしょう。僕が知らない間に、佐伯と一緒になります、一緒に住みますって。そう上司に報告していました。
そのあとはもう、めちゃくちゃですよ。本当にめちゃくちゃ。最悪でした。表面上は静かでしたけど、社内での僕たちの立場は大きく変わりました。ただ普通にそこにいるだけなのに、突然有名人になってしまいました。有名人って大変なんだなぁって、初めて知りました。常に周りがざわついている感じで。
直接からかわれるのはまだマシな方でした。悪意が明確に見えますから。怖いのは、理解があるふりをして近寄ってくる人たちです。親切なふりをして、根掘り葉掘り、僕たちのことを聞き出そうとする人たちです。自覚のない悪意が一番たちが悪い。慰めるふりをして、見下して、自分はあいつらよりはマシだって安心したいだけの人がたくさんいました。本当にね、あの時期はどうやって働いていたのか思い出せないくらいです。
彼は体調を崩して、会社を辞めました。辞める前日、僕の部屋に来てずっと泣いていて……僕はどうだったかな、泣かなかった気がする。とりあえず、家族への挨拶を済ませる前で良かった、という話をして。僕は指輪を返して、それで終わりになりました。あのとき、僕の恋はきちんと終わっています。
僕が会社に残ったのは意地でした。見える悪意にも、見えない悪意にも負けたくなかった。何と戦っているのか自分でも分かりませんでしたけど、悔しかったんだと思います。毎日毎日、ちくしょうこの野郎って。そんな風に働いていました。周りへの態度も一律にしました。どう見られようが、どうでもよかった。そして、彼が辞めた翌年からはずっと、総務課にお世話になっています。
ペーパーナイフを捨てなかったのも、これまた意地です。これを捨てたら、負ける気がしてきちんと手入れをしました。何に負けるのかな。ちょっと、自分でも言っててよく分からないんですけど、大切な人を大切にした自分を、捨てたらいけないなと思いました。
彼に未練があるみたいで、君は嫌かもしれませんね。でも、あれは捨てません。捨てられない。僕が僕を守ってきた証ですから。これからもずっと、使います。
また少し、いやなことを言ってもいいですか。
君が僕の隣の席に来たの、どうしてだと思います。偶然じゃないんですよ。もちろん、運命でもない。ちなみに、今のは笑うところです。
嫌がらせですよ、君への。ゲイの隣で一年間過ごしてみろって、そういう嫌がらせ。君も営業課では随分元気だったみたいですからね。
でも、嫌がらせにはならなかった。僕はそれがとても嬉しいです。本当に、嬉しい。
君は忘れたと思いますけど、来たばかりの四月、僕が電話の切り方を注意したのを覚えていますか。……そう、ガチャンって乱暴に切るから。君は元気が良すぎますからね。
僕の言うことなんか、君は聞かないだろうなぁと思っていました。でも、注意した翌日から、君は慎重に受話器を置くようになったでしょう。とても真剣な顔をして、そーっと。僕はあれが、すごくおかしくてね。いえ、馬鹿にするつもりはないんですけど、この子は見かけによらず素直な良い子だなあって。
ペーパーナイフを貸したのは、君が初めてです。
それまでは、誰に頼まれても断っていました。僕だけのものだと思って、誰にも触らせたくなかった。
でも、君の飾らなくて真っ直ぐで、素直なところがとても良くて。それで、この子になら貸していいかなあって、そう思ったんです。
君があのシマウマのペーパーナイフを買ってきたとき、正直ちょっとショックでした。貸す機会が減っちゃうなあ、って。手に取って見るふりをしましたけど、本当はちゃんと見てませんでした。
君に貸して、返ってきたペーパーナイフを触れると、少し温かくなっているのが好きでした。気持ち悪いですかね。すみません。……ええ、そう言ってもらえると助かります。
春からまた、営業課ですね。
しばらく革靴で歩いていなかったでしょうから、練習しておいた方がいいですよ。靴擦れはつらいので。余計なお世話だったかな。
また、こうして飲みに来たいですね。せっかく同じ会社にいるんですから。いやなこともありますけど、たまにはこんな良いこともあります。あのとき、辞めなくてよかった。僕も結構頑張りました。自分でもそう思います。
それにしても、分からないものですね。
君みたいな若くて格好良い子と、お付き合いすることになるなんて。