Prologue 1「目覚め悪しき」
……朝っぱらから反吐が出るような気分だ。
俺は何度、月奈が消息を絶ったあの時の夢を見れば良いのだろう。
「……ったく、俺は何度人が死ぬ夢を見ればいいんだ」
起き上がってすぐ、深いため息が出てくる。
いったい、何処で俺は道を誤ったのか。
今から百年近く前、葦原と呼ばれるこの国で、帝の帝位継承争いが起こった。
この内乱は葦原全域を支配していた朝廷が二分される大乱となり、朝廷は大幅に弱体化。
旧来の権力を維持できなくなり、朝廷の中央政権としての機能は形だけのものとなってしまった。
そして、葦原は無数の勢力が割拠し、戦乱が頻発する時代──戦国の世へと突入した。
朝廷の名門の一つでありながら、この戦乱によって戦国大名化したのが、俺の実家でもある天田家である。
だが、数年前に勃発した内乱で家は滅ぼされかけた。
俺は元服もしないうちに父や兄、姉を喪い、俺自身も内乱の渦中で左眼に眼帯を着けざるを得ない傷を負った。
これでもかつては「鬼天田」と呼ばれ畏れられた身だが、今ではただの引き篭もり。
それが俺、天田雷吾──改め、
天田慎鷲郎雷忠という、黒髪赤目の男である。
俺が戦国大名という立場にも関わらず、何故引き篭もるに至ったのか。
その全てを語るにはあまりにも長すぎるため、ここでは割愛するが、簡潔に言うのならば戦で心身共にボロボロになった挙句、体調を崩したからだ。
それが故、領地の経営や対外戦争の指揮に支障が出てしまった俺は、その療養のために一年程前から城ではなく、生まれ育った屋敷で最低限の仕事を行いつつ生活をするようになった。
生粋の面倒臭がりである事も相まって、俺はいつの間にか引き篭もり同然の状態になってしまい、今に至っている。
「──ま、阿呆みたいなこと考えてる暇があるならさっさと着替えるか……」
布団から出てすぐに白い肌小袖を脱ぎ、ヨレヨレの黒い着流しに着替えた俺は、枕元に置いてあった愛刀・志剛天賦守を掴んでは腰の茶色い帯に通す。
その後、頭を軽く掻きながら障子を開け、自室から縁側へと出た。
縁側に出ると同時に、庭で作業をしている白髪の老人の姿が目に入ってくる。
御家お抱えの庭師、楓鶹だ。
俺が生まれる前からこの屋敷で働いており、療養のために人との交流を遮断した俺にとっては数少ない話相手でもある。
俺は縁側に置いてあった草履を履き、作業中の楓鶹の所に向かった。
「よう楓鶹、おはよう」
声を掛けると、楓鶹はわざわざ作業を止めて顔をこちらに向け、ペコリと頭を下げる。
「これは若様──いや、殿。おはようございます。尤も、あと半刻もすれば昼時になりますが」
そして、穏やかな表情を浮かべながらそう返してきた。
十数年の付き合いのある俺のことを時折、かつてのように「若様」呼ばわりしてしまうのは彼の悪い癖だ。
「マジで?もうそんな時間なのか」
「丑三つ時まで起きて書物を読み耽るのは、お身体に良くありませぬぞ?」
普段から夜更かしをしがちな俺は、彼の尤もな忠告に苦笑いをせざるを得なくなる。
「はいはい、分かったよ。気をつける」
「そういえば殿。今朝方、宇治月から使者が来られました」
宇治月とは、下崎国の上隣にある越山国に存在する地名の事で、そこにある宇治月城が現在の天田家の本拠である。
「使者?」
その場に腰を下ろした俺の問いに、楓鶹はこくりと頷き。
「ええ。使者の方曰く、曲矢守様と御家老殿が昼頃にこのお屋敷に到着するとかどうとか」
「……マジか」
昔気質で頑固なところのある祖父と、何かと口うるさい家老の事を聞いた瞬間、俺は嫌な予感がした。
二人が来る理由は何となくではあるが、想像できる。
「大概、宇治月に来いって言うんだろうな……ったく」
「でしょうなぁ。未だ療養の身とはいえ、一年程前と比べると間違いなく、殿のお身体は快方へと向かっておりますからなぁ」
「まぁな……」
確かにそうだ。
城からこの小さな屋敷に移った当初は、起きる事すらままならない状態だった。だが今は夜更かしするくらいには元気である。
正直な所、当主としての仕事は何かと面倒臭いものばかりで、やりたくないの一言に尽きる。
心身共にボロボロになり療養していたものだから、ここ一年は最低限の指示を現場の家臣達に飛ばすだけで済んでいたが、そう遠くないうちに城に戻り、本格的に当主としての仕事を再開せねばならなくなるだろう。
政務や軍事に支障が出ない、と判断されるのも時間の問題である。
「面倒臭えな……」
思わず、口癖を漏らす。
「それはやむを得ないでしょうなぁ……。先の戦で輝雷公や雷政公、勝輝公が下崎輝治めの軍勢によって亡き者にされ、他の家督相続者の殆ども今やこの世にはおりませぬ。殿が一番分かっておられる筈ですぞ」
楓鶹は少し悲しそうな顔になりながら死んだ父や兄二人の名を挙げ、そう返してくる。
「……まぁな。親父や兄貴達が死んだ今、俺が天田の長だ。何故こうなっちまったんだか」
くそっ、何かモヤモヤしてきた。
「……ちょっと外の風に当たってくる。爺ちゃん達が来る頃には戻るわ。作業の邪魔して悪かったな、結構仕事あるのに」
「いやいや、しがない庭師のことはお気になさらず。それでは殿下、お気をつけて」
「おう」
楓鶹に見送られ、俺はロクに朝飯も食わずに屋敷から外に出た。
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下崎国那賀本郡音信。
一年程前まで天田家の本拠だった地で、俺、天田慎鷲郎雷忠の出身地である。
この地には、代々御家の拠点となっていた平城・音信城を中心に城下町が広がっている。
城下の郊外には丘や森があり、さらに城下から四半刻程歩けば、海にだって行く事ができる自然豊かな地だ。
なお、御家の本拠が一年程前に宇治月城に移った事もあり、この街にいる家臣はそう多くない。
屋敷から出、少し離れた場所にある丘へと向かう。
やがて丘に着き、適当な場所に座り込んで城下を眺め虚ける事、およそ一刻。
特に何も起こる事なく、ただただ秋風が吹くのみで、陽が頭の真上に登りかけた頃に俺は空腹を覚えた。
「……腹減ったなー。朝何も食ってねーし、そもそも起きるのが遅かったし……。そういや爺ちゃんや政親の奴が来る頃だろうから、そろそろ帰るか」
そう呟いては立ち上がり、着流しについていた砂埃を払った時だった。
「……殿ー!殿ーっ!殿下は何処におられるかーっ!」
「嘘だろー……?」
何処からか、家老・香寺政親の低く落ち着きながらも野太い声が聞こえてきた。
それから程なくして、彼の部下であろう者達の声も微かながら聞こえてくる。
「やっべ……長居し過ぎたな。戻るにしても政親と出会すのは幾ら何でもマズい……」
どうしたものか。
今彼らが何処にいるかはハッキリと分からないが、声が聞こえてくる程近くにいるのは確かだ。ここに留まるのは得策ではないだろう。
「とりあえず、逃げるしかねーな。言い訳は後で考えるか」
政親達の声が聞こえてきた方向とは真逆の方向に俺は駆け、丘を降り、森の方へと逃げ込む。
そして、数多の草木や竹が生茂る竹林の中へと入った。
「とりあえず撒いたか……とはいえ、面倒臭いことになったな……」
腹は減ったし、政親が俺を捜しに来るし、屋敷に帰った所で爺ちゃんから説教を食らうだろうし。
厄介事ばかりだ。
「面倒臭ぇ……」
本日二度目のため息が出てくる。何故この現世は面倒な事ばかりなのか。
そう思いながら竹で構成される森の中をさくさくと進んで行き、やがて森を抜けては音信城下と杣森神社という神社を結ぶ小道に出た。
ここから城下の方に向かい屋敷に戻るのが一番だが、途中で政親達と出会す可能性は十分にある。かと言って、杣森神社の方に向かうのも決して良いとは言えない。
政親達が既に来ていたならともかく、そうでなければ神社に俺を捜しに来るかもしれないからだ。
そうとなれば神社に逃げ込んでもいずれ見つかってしまい、神社の神官・巫女達に迷惑を掛けかねない。
それに──いや、今はそれどころじゃない。
「どうしたものか……」
小道で立ちつくして思案を巡らせていると、神社の方から誰かの足音が聞こえてくる。
足音の方に振り向くと、袴の短い巫女装束を着た、肩に掛かるくらいの長さの髪の少女がこちらに向かって来るのが見えた。
「杣森巫女か……ってあれは真希じゃねーか」
その巫女とは、知己の間柄であった。
巫女の名は杣森真希。年は数えで十五。
杣森神社の宮司・杣森長行の娘で、母は俺の叔母にあたる人だ。即ち、天田家当主の俺にとっては母方の従妹にあたる。
彼女が幼い頃から俺がちょくちょく面倒を見てきたという事もあり、顔を合わせれば世間話だけではなく、それ以外の事も話す仲である。
そんな彼女の実家である杣森神社には、天田の代々の当主が祭神として祀られており、それ故か杣森家とは長年協力関係にある。何代かに一度は婚姻関係を結ぶ程、両家の繋がりは深い。
そういった経緯から天田の家宝も数多く神社に奉納されており、それらの家宝を外敵から守るために「杣森巫女」と呼ばれる武装巫女が長い時を経て形成された。
今この瞬間も、彼女達は神社にて巫女としての職務を行いながら天田家の家宝を守っている。
代々杣森神社の宮司を務めてきた家の者の血と、天田家出身の者の血を半分ずつ引いている彼女も「杣森巫女」と呼ばれる武装巫女の一人である──
それはさておき。
真希も俺に気づいたのか、小走りでこちらに向かって来た。
「従兄様!何故ここに?何かありました?」
「えっと……ちと野暮用でな。そっちはどうしたんだ真希?」
時間を忘れて丘で佇んでいたら、捜しに来た連中の声が聞こえてきたから逃げた、なんて言うに言えない。
「つい先刻、お祖父様やご家老殿が参拝に来られたんですが、ご家老殿がこの脇差をうっかり杣森の敷地内に落として行かれたので、それを届けに」
真希はそう言って、懐から政親の黒い柄の脇差を取り出しては俺に見せてくる。
なんか、嫌な予感が──
「けどちょうど良かったです。従兄様、お屋敷に戻られたらご家老殿にこれを渡して貰えますか?」
……当たっちまった。
「嫌だね」
「なっ、何故ですか⁉︎引き篭もり過ぎて遂に頭がおかしくなったんですか⁉︎」
思わぬ答えが返ってきたのか、真希は慌てだす。
「んな訳ねーだろ。人の事をおかしい呼ばわりするのかこのアマ」
それをすぐさま否定し、言い返す俺。
「それじゃあ何なんですか!お屋敷に帰られる従兄様がご家老殿の脇差を持って行かれたら、わざわざ私が行く必要もないんです!ケチなことを言わずに脇差を持って行って下さいよ!」
「お断りだ!面倒臭い!」
「二言目に面倒臭いと言うのも大概にして下さいっ!それでも従兄様は御家の当主ですか⁉︎」
「今それは関係ねーだろ⁉︎今屋敷に戻ると、何かと面倒な事になるんだよ!」
「はぁ……また何かあったのですか……」
真希はさぞ不満そうな顔を見せながら、ため息を吐いてくる。……くそっ、説明するしかないのか。
俺は深呼吸し、一度は荒ぶった心を落ち着かせる。
「えっとだな……実は──」
そして、彼女に事の顛末を話した。