1話「目覚め」
張り付くような静けさを保っている薄暗い空間の中に、刺激が生まれた。
「ーーー」
そして静寂と共に動きを止めていた"生物"が、その刺激に応じてまるで息を吹きかえしたかのように活動し始める。その生物が産み出す刺激は新たな振動となって空間内を震わせている。
「ーーうぁー」
音はまるで誰かに届いてほしいと足掻くように辺りに反響して、それを生み出していた"彼女"の鼓膜を振動させにいく。
「ーーあ……あふ、わあ?」
僅かに身体を動かした女がその音の鳴る先へと触れたことで、空間に響いていた振動が変化した。女はそれの正体を探るように自身の唇をなでて、それから顎を経由させて喉元まで指を這わせていく。そこを違和感の元凶だと確信したのか、女は自身の声帯を撫でたあと軽く締め付けるように力を入れた。
「え゛っ!ケへ!ケッへ!ケッヘ……ッ!」
喉が圧迫されて咳き込むはめになったのは当然の結果だろう。女は自身の行為に対して生理的な涙を浮かべながら、脳内に与えていた振動の正体が自身の発していた声だということをようやく理解した。
「うぅ」
女が呻きながら上半身をゆっくり起こすと、何かに驚いたように手を払うような動作をする。眉間に皺を寄せながら腕や身体をいぶかしげに観察し、そして肩から落ちた自身の長い黒い髪の毛に驚いて小さく悲鳴をあげた。その後もまるで身体検査をしているかのように自身の身体を探っていく。もしこの状況を見ている存在がいたならば、その奇怪な行動に対して眉をひそめていたことだろう。
そうして確認作業を終えた女は生気の抜けたような顔をした後に、ようやく言語として意味を持つ言葉を発した。
「あー、えーっと、なんだっけ……」
自分の状態を把握しようとしていたらしい女が次に興味をしめしたのは、自身が置かれている環境だった。
天井を大きく見上げたあと、周囲を見渡すのに合わせて上半身を大きく動かしている。その行為を二度、三度と繰り返したところで視点を止めると、表情がだんだんと困惑と驚きの混ざったようなものへと変わっていった。
「あー…………ここは洞窟、かな」
女の言葉通り、そこは石と岩が自然に作り上げた空間――洞窟だった。
陽の当たらない洞窟内にはほのかに発光している透明度の高い結晶を持った鉱物が点在しており、それはまるでこの世界の太陽の代わりとなっているかのように洞窟内を照らしている。女は初めて見るその鉱物のようなものを"結晶石"と定義した。
結晶石の光の届かない岩の影には、女の不安な気持ちを煽り立てようとしているかのように先の見えない闇が潜んでいる。
目覚めた場所で座り込んでいた女はやがて上半身を起こした時と同じようにゆっくりと立ち上がり、ふらふらと周囲の探索を始める。女は歩いているうちにここがとても大きく開けた空間であり、そして閉鎖的な場所であることを理解した。何かに守られているような、閉じ込められているような雰囲気を感じた女はどこか不安そうな様子だった。
ようやくこの空間の中で唯一移動できそうな道を見つけた女はそこへ身体を押し込み始める。道と呼ぶには少し狭すぎる穴だったが、女の身体が通れないほどではない。
それから女は視界に入る「通れそうだ」と判断した道を見つけては這いつくばるようにして進んだり、二足歩行で通れるほどに開けている空間では足場の悪さに不馴れな様子ながらも身をかがめて進んでいった。最初は視界に入ってくるすべてのものに戸惑っていた女だったが、今は段々とこの環境に慣れてきたようだ。
「眩しい。あれは……外かな……」
そう呟く女の視界にあったのは……輝く光の裂け目だった。今までに結晶石が作り出していたほのかに明るい空間とはまるで違う光を見つけた女は、それに吸い寄せられるように通路を這いつくばりながら乗り越えていく。
女がその光に目を細めていると、急に下を向いた斜面に気づかないまま腕から上半身を前へと乗り出してしまった。安定感を失った上半身に下半身もつられてしまい、そのまま全身を滑らせるようにして転がり落ちていく。
「どあぁっ、でっ! だっ! うあっ! ぐぇっ!」
軽薄な行動をしてしまったばかりに身体を思いきり岩の地面に打ち付けて痛みに顔を歪めた女は、自分の浅はかさを悔いているかのように悶絶している。その痛みが収まったであろう時間を置いても、なぜか女はその場から立ち上がろうとはしない。女が立ち上がろうとしない理由は、慣れない強い光のせいで目が開けられないからだ。
女が眉間にしわを寄せながらゆっくりと瞼を開けていくと――そこに広がっていたのは見上げるほどに高く、見渡すほどに広い、そしてとても美しい空間だった。
光る結晶石に照らされた岩の世界。多くの結晶石達が反射しあって、より彩り豊かになった光が洞窟内を照らしている。岩も結晶石も見飽きるほどに見てきたというのに、女にはここがまるで違う空間のように見えていた。
女が痛みを忘れたかのように身体を動かし始めると、結晶石が放つ輝きはその美しさの表情をころころと変えて、それが更に視界を楽しませる。今までに見たことがない美しい光景に圧倒されてしまった女はただただ呆けたような顔をしていた。
ふと我にかえった女は、やっと奇跡のような空間の中を歩み始める。それでも、新しい景色が与えられる度に「おー」「わー」「あぁ」と感嘆詩を返してそれを称賛した。
「ん」
足元にある何かに目をとめた女はしゃがみこみ、その手に拾い上げたものを見つめながらまるで宝物を見つけた子供のように目を輝かせている。女が手にしていたのは欠けてしまった結晶石だった。あるべき場所から離れてしまったというのに、美しい輝きは衰えていない。
結晶石を見ながらふと現実的な目に戻った女は少し考えるような間を置いて、それを隠すようにパンツのポケットに入れる。
「盗んだとか……言われないよね。ライトになるし、生きるために必要でした、って答える。うん」
誰に対してかわからない言い訳を呟いた女は、ポケットの入り口を光らせたままどこか嬉しそうに歩みを再開させる。そして偶然女の視界に入った、洞窟の端にある新たな道を見つけてそこへと向かった。美しい光景を脳に刻み付けるようにしてゆっくりと目的地にたどり着くと、もう一度背後を見て名残惜しそうな顔をする。
「…………うん、行こう」
女は自分の抱いていた気持ちを振り払うように前に向き直って、奇跡の空間に別れを告げる。
岩で作られた坂道を越えていくと、今度は三ツ又になっている分かれ道に出会った。女は道の先を確認しようとしてみるが、ほとんど明かりがない状態の先はそれが登り道なのか行き止まりなのかすら判断することができなかったらしく、それ以上確認することを諦めた。そして何かを閃いたのか「ずっと右に行けばいいんだっけ?」と呟き、その言葉の通りに右へと進む。そこから分岐路のようになっている場所を見つけては「右だ」と言って何かを考えることもなく進み続けていく。そして女はそれをしばらく続けた後に、その閃きがただの浅知恵だったことに気がついた。
「あはは、これは無理だ」
洞窟というのは人が作った迷路とは違う。自然に作られた道には進める道と進めない道や、道なのかどうかすらわからない危険なルートがあるからだ。そもそも出口への道筋が崖の下だった場合にはこの右手式という法則は通用しない。
女は「右」を選ぶ度に困難な道を進んでいることに自身の判断を責める気持ちになっていたのだが、始めてしまったのだから仕方ないとばかりに知らないふりを決めこんでいた。視界にいれた自分が通れそうだと思った道ならば自身の背よりも高い場所をよじ登り、息の苦しくなるような狭い道を通った。そして岩に挟まれた隙間をなんとか通り抜けた先で、女はようやく自分の浅はかな作戦内容を見直す必要があるということに気がついたようで足を止めた。
女が立っている場所は少しだけ空けた空間となっていて、そこから続く道は酷い急斜面だった。急斜面には結晶石が生えていないようで、暗闇がたどり着く先を完全に隠してしまっている。
「お先真っ暗ってこういうことかな……あはは。よし、休憩」
女は今までただ淡々と洞窟内を進み続けていた身体を休めることにしたようでその場に寝転がる。
「はぁ。広すぎる。道も多すぎる。ああもう、なんだろう……どうすればいいのかわからない」
岩しかない空をあおぐ女は、誰もいない空間にむかって呟き始めた。
「崖の高さを測るには…………落として確かめる……か」
体勢を変えないままポケットに入れていた結晶石を取り出すと、それを覗き見るように顔の上へと掲げる。多面体からきらきらと輝く光を宿した石は限りなく透明に近く、反対側にある指まで透けて見えていた。
「無い。絶対無い。別にこんな道、行きたくない。大ケガでもしたら笑えない。黙って歩いているからこんなバカな思考になるんだ…………よし、さっきの道から左に行こう。それともさっきの道だけ左に行くか……いや、どうかなー、それは迷うかー。いや、絶対迷うなー。そもそも、本当に出口があるのかもわからないのに迷路の攻略法なんてやってどうするんだよ。こんな高価そうな石が大量にある洞窟なんて人の手が入ってないに決まってる、たぶん。あー、いやだ、もういやだー。腕痛いし、背中痛いし、しんどい! 痛い! 痛いし、暗いし、疲れた!」
溢れだしたように止まらない言葉が洞窟内に響いていく。女は思いのままに声を出しながら、身体を地面に転ばせてもがいている。まるで子供が駄々をこねているようだ。
「あ」
声と共に女はその行為をピタリと止めた。それに反応するように、耳元につけていたピアスのようなものがほんの少しだけ小さく発光する。
『ASA起動。正常に認識されました』
「お、おおー!」
突然聞こえてきた“感情のない音“に反応して女が体を起こす。先程までの暴れっぷりがまるで嘘だったかのように落ち着きを取り戻していた。期待が込もった感情が女の表情筋をみるみると緩ませていく。
『データが破損しています』
「え?」
『エラーコード送信中。ネットワークエラー。エラーコードを送信できませんでした。通信センターに異常が発生している、もしくはASAに異常が発生している可能性があります』
義務的に言葉を重ねていく音声を真剣な表情で聞いていた女は、それが静かになると呆れの混ざった苦い顔をしながらため息をついた。視界の端には“彼女だけに見える“警告文とその内容の詳細が表示されている。
「あはは、お前も壊れたのか」
しばらく腕を組みながらうーんうーんと唸っていた女だったが、それで事態が好転することはなかったようで「仕方がない」と呟くと耳元へ手をそえるように触れた。
『強制自動修復を行います。修復に伴い破損しているデータは一部破棄されます。現在の設定は初期化され、出荷時の設定に変更されます。認識データは失われません。実行しますか?』
女はその問いに対しての反応を一切返すことがないまま、“彼女にしか聞こえていない音“を待つ。
『修復が完了しました。破損していたデータは破棄されました。』
「うーん、まぁしょうがない……ステータスは消えてる……プリインストールか…………地図は駄目か」
女は視界に広がっているアプリケーションを一つづつ起動させては閉じる行為を繰り返していく。やはり何かを操作しているような様子はなく、瞳だけを少しだけ震わせていた。
「教育プログラム……ね。あはは、洞窟からの脱出方法があれば良いんだけど。でもカメラは結構使えるかも」
女は上半身を起こして辺りを見渡すと、右手に持っていた結晶石に目を止める。それは自身の存在感を主張するように美しい光を放っていた。ふいに女の視界の端に、目の前にある風景を切り取ったような世界が小さく写し出される。それはまるで意思を持っているかのように女の思考に従って視界の中で拡大表示され、女が満足そうに軽く頷くとすぐに消えていった。
「独り言か。無意識のうちに心を安定させようとしてる……すごいな。人間ってよくできてる。そうだな、音楽も心を安定させる効果があるんだっけ」
その言葉に合わせるように女の視界の端に1つのアプリケーションが浮かび上がり、音楽のタイトルを表す文字が並ぶ。一番上に表示された「トロイメライ」というタイトルが拡大されると、音が女の脳内に静かに流れ始めた。
「なるほど」
その感嘆の声を最後にして、洞窟内には再び静寂が訪れた。女の右手にある結晶石の光が安らぎと不安が混ざったような表情を照らしている。女は座ったまま片足を抱いた格好で身体を小さく丸めながら、自身の脳だけを振動させている音楽に耳を傾けていた。
まるで洞窟内に満たされていた静寂を遠ざけようとしているかのような女の行為は、すぐに咎められることになる。女が目覚めてから初めて認識することになる"感情を持った声"によって。
『耳障りだ』
「ひっ!!!」
流れていた曲を遮るように聞こえてきた声に不意を突かれた女は、飛び上がるように立ち上がって少しだけ身を屈める。慌てながらASAの音声を消して辺りを見回しているが周囲に人影はない。頭上には女の身長より少し高い岩の天井があり、地面ももちろん岩だ。人がいるようなところは先程通ってきた幅の細い隙間か、反対側にある急斜面の闇の中しか考えられない。
女はライト代わりにしていた結晶石を握りしめながらもう一度同じ場所を確認する。だが、やはり急斜面の先にその光が届くことはない。
「こんにちは。えっと、すみません……どなたですか?」
女は両方の道を意識しながらも落ち着いた様子で言葉をかける。初めて接触する相手に対してどう振る舞えばいいのかわからなかった女は、知識の中で一番無難だと思った相手の下手に出るような言葉を選択した。
『……己が何者かを知らないというのに、他にそれを問うとはな』
「……その。確かに、皮肉な話ではありますが……もしかしてASAから喋ってますか?」
正体不明の声が発した言葉は相手を見下したような発言だとも思えたが、それに対して女は少し安堵したように疑問の言葉を返した。しかしその安堵の表情も、視界の隅に映った表示を見たことで驚きと困惑の表情へと変わる。
「違う……」
正体不明の声が聞こえた時に女は咄嗟の行動でASAの音声を完全に消してしまっていた。今の状態でASAから通信を含めた全ての音声が聞こえるはずがない、という事実が視界に写し出されている表示から確認できる。
女は額から冷たい汗を流しながら、感じていた違和感の正体を探るためにゆっくりと耳を塞いだ。
「あはは、勘違いでした。あなたは今どちらにいるんですか?」
『なぜそれを問う』
「顔が見えないとちょっと怖いというか、どんな人なのか知りたいというか、ですね」
そう言葉にした女だったが、今はその声の主が近くにいるとは思っていない。ひきつった表情に反して明るい言葉を返してはいるけれども、その声色は表情と同じように怯えを含んでいる。
耳を塞いでいても、そこに生きていると言わんばかりに生々しい音質を持ったまま脳内に響く声。そして女の声だけが洞窟内を反響させているという状態がどういうことなのか。感じていた違和感を確認した女は、それが自身の持っている知識の中には当てはまらない存在だということに気がついてしまった。
しかし、女には足りていないものがある。それを手に入れられないうちは、理解できない状況に流されるしかなかった。
『ふん。弱者の思考というのは卑屈が故か……まぁ良い。つまりは姿形を把握して敵の力量を量りたいというところだろう』
「え?いや、違いますけど。うーん……そうなんですかね?」
敵という強い言葉に対して女は驚きつつも、その一方でいきなり哲学的なことを問われたせいで乱れてしまった思考が言葉のまとまりを失わせている。
『無駄な問答だ。我の存在はお前に有る』
「私の中にいる、ってことですか」
『お前に、だ』
「私に…………寄生的な?」
『貴様のような存在にまさかそのような評価を寄越されるとはな。誇り高きこの身を愚弄しているのか』
「すみません」
会話を重ねるにつれて女の緊迫していた表情は微妙にずれていった。正体不明の声は強い言葉を使っているが、そこに強い感情は感じられない。女にとってその淡々とした声色が酷く不気味であったのだが、同時に今のところはこの存在がいきなり激怒して自身に危害を与えてくる心配はないのかもしれないと冷静に考えてもいた。
「つまり、私があなたで、あなたが私ってことですか。なんでですか?」
『無駄な問答だ。不変的な事……そしてそれを変える力はお前にない』
「……なるほど。あなたは私を知っているんですか」
『どういう意味だ』
「さっきの言葉、私に記憶がないって知っていましたよね」
『理解できんな。お前には知識が残っていないのか』
「あります。知識しかありませんけど」
女は『声』の発した言葉の意味を考えながら目をふせる。立っている体勢のまま眉間をさすったり頭をかいたりして、女は始まったばかりの人生で一番悩んでいた。
「つまり……私は記憶喪失で二重人格、か」
悩んだわりには正気とは思えない答えにたどり着いた女は、もうお手上げだとばかりに何かを諦めたような顔をして底の見えない急斜面に背を向ける。そして一度通ってきた細い道を戻り始めた。
「しかももう一人の自分は、偉そうだし何言ってるかわからない…………状況は悪化するばかりだ」
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