ひと悶着
そこからは歩くたびに男たちの話し声がより鮮明に聞こえ、待機部屋の前まで来たときは何を話してるのかが完璧に理解できた。男たちの声がやたらと響くのと待機部屋と通路を隔てているのが薄っぺらい黒色の布だけだから当然ではあるが。
「……ってことでぶん殴ってやったわけよ」
「アハハ、そりゃいいですねぇ」
「そうだろう、ガハハハハ」
「違えねぇ! ウハハハハ」
何とも徳の無い、乱暴な会話が展開されていたので俺は黒い布をくぐるのを躊躇した。そういえば小学生の頃は、こういう他人の空間に入るのが苦手で職員室などに用があるときもなかなか入れずに廊下を行ったり来たりしたものだが、それがどうやら再発したようだ。この一枚の黒い布がまるでベルリンの壁のように感じられる。ドイツなんて行った事も無いのに。
「どしたの?」
「いや、ちょっと……ここで待ってようかなって」
俺は意味も無く、腕を組み替えたり天井を見たりした。このまま時間を潰して試合開始を待とう。
「もう、なに冗談言ってんの。さあ入った入った!」
ティアが俺の背中を両手で押した。さっき背中を叩かれた時から大方、察しはついていたがティアはかなり力が強い。動かざること山の如しと言わんばかりに身体に力を込めていたのに、一押しであえなくバランスを崩されて頭から黒い布に突っ込んでしまった。
……黒い布の感触が消えた。もうこれ、部屋の中だなとうっすら目を開けると、さっき列に並んでいた筋骨隆々の鎖男を筆頭に、目つきの鋭い十数人の男たちが部屋の至る所から黙ってこちらを睨んでいたので、俺はまた目を閉じた。ヘビに睨まれたカエルってこの事だよな。
「ちょっとヤマ。入り口で止まらないでよ」
ティアの声が左耳から聞こえたので、俺は左を向いて目を開けた。もう試合開始までティアか壁でも見ておこう。こういう人たちって目があっただけで因縁つけてくるタイプだろうし。
「ほら、あの奥が武器が放置されてる小部屋。じゃあ私フィールド見に行ってくるね」
はい!? いやいやいや! 置いてかないでくれよ!
部屋から出て行こうとするティアの肩を慌ててつかむと、彼女が身体をびくりと震わせて「うぅん」と喘ぐような声を出したので、俺は息を呑み、全身が硬直した。
「……もう、大丈夫だって。また戻るから」
そう言うとティアは頬を赤らめながら石のようになった俺の右腕をそっとどけて、出て行った。
……置いていかれた。このならず者達のど真ん中に。ちらりと後ろを確認すると、まだ全員が自分を睨んでいることがわかり、俺はすぐに壁へ目線を合わせた。部屋に入ったときと一切変わらないアウェー感だ。いやむしろ目の鋭さは増してる気がする。何でこの部屋、俺が入ってからこんなに殺気立ってるんだろう。
「なんだ、このクズゴミ野郎は……」
「全く……見せつけてくれるぜぇ」
「なんだあのヒモの付いた服は……舐めてやがるのか」
背後から低くうなるような声が次々に聞こえてきた。これはえらいことになったぞ。何でこんなに恨まれてるのか分からんが、ここに居るのは危険だ。そうだ、さっさと武器を持ってティアを追いかけよう。
俺は一瞬の振り返りで武器置き場の場所を再確認し、存在感を出来るだけ消しながらそこへ歩いていった。誰かの横を通るたびに親の仇を見るような目で睨まれ、舌打ちされたりしたが全て見えない聞こえないふりで顔を背け続けた。
よし。もうすぐそこだ……
「おう、待てえ」
ドスの聞いた声と同時に、急に目の前に鎖を巻いた巨体が現れた。見上げるとあの上半身鎖男が歯をむき出しながら俺を見下ろしているではないか。そのあまりのでかさにより小部屋への道が完全に閉ざされ、後ろに下がろうにも顔をニヤつかせた二人組が行く手を塞いでいる。俺は完全に囲まれていた。
「てめぇ……なんなんじゃい」
鎖男が太い指で差してきたので、俺は心臓が止まりそうになった。なんなんじゃいってなんなんだ。こっちが聞きたいぐらいだよ。
「お前はあの娘っ子の……なんじゃい」
娘っ子ってティアの事か? なら……
「……顔見知りです」
「ほう……」
鎖男が頷き首をゴキゴキ鳴らすと、丸太のような右腕をゆっくりと回しはじめた。俺がそれに呆気を取られていると、後ろの二人組が急に俺の腕を掴んできた。アッと思ったときには俺の体は既に拘束されていて、ただ立っていることしか出来ない。鎖男を見ると今度は指の関節を鳴らしている。
「ひひひ、ざまあみろだ」
「ブチかましてやれぇ!」
周りの人間が、この場を囃し立てるように騒ぎ鎖男がニヤリと笑った。そうか、俺をぶん殴るつもりだ。あの拳で殴られたらひとたまりも無いぞ。数十年意識が戻らないか、それとも永遠に……
「ちょっ……案内人! 案内人さーん!」
大声で案内人を呼ぶが返事が無い。いったいどうした事だ。
「ぐひひ、恐怖で気が狂ったか」
「案内人だぁ? ボスが案内するぜ、地獄へな!」
俺を押さえつける二人組が交互に言った。どうもこの二人は鎖男の子分らしい……いや、そんなことどうでもいいよ! こうなったら瞬間移動だ。もう闘技場なんか知らん。さあ指を鳴らして……
顔から一気に血の気が退いた。後ろの二人組が律儀にも、俺の指すら拘束していたのだ。
「ぐはは、覚悟は出来たか!」
鎖男が拳を上げて今にも殴りかからんと振りかぶり、俺は明確な死の予感がした。走馬灯だって見えた。
「くたばりやがれぇ――!!」
鎖男が叫び、トラックのように巨大な拳がアクセル全開で突っ込んできた。
死ぬ! と咄嗟に目を閉じる。
「やめろ!」
強烈な突風が俺の髪を揺らした。やばい、体が風を切るように吹っ飛ん――でない、地面に足が付いてるぞ。まさか殴られてない? あの状況で殴られてないってあるか? それに、誰かがやめろって……様々なことを考えつつゆっくり目を開くと鎖男の巨大な拳があと数ミリというところで止まっていた。
「離してやれ」
気品のある声の方向に顔を向けると、あの時、列の先頭に立っていた鎧騎士が槍を鎖男の首筋に当てていた。鎖男は黙って鎧騎士を睨んでいたが、子分の二人組は怖気づいたのか俺を離した。
「戦いならば戦場でやるのだな」
鎧騎士が静かに呟いた。すると鎖男が俺を殴ろうとした右手で自分の首筋に当てられた槍の柄を掴んだ。一触即発かと部屋の空気が一気に張り詰める。
「……チッ。ああ、わかったわい」
鎖男が槍から手を離すのを見て何故かホッとしている自分が居た。
「というわけじゃ、ヒモ野郎。あとは戦場で……な」
そうして、鎖男と子分たちが部屋を出て行くと周りの人間も鎧騎士が居るせいか、何やらバツが悪そうに部屋を出て行ったり俺から露骨に目を逸らしてそれぞれで話し出した。すると鎧騎士も奥の小部屋に行ってしまった。
「ふう……」
俺はようやく一息ついた。それにしても何でこんなことになったんだ。そりゃ、こういう連中が嫌うようなナヨナヨした態度を取ってしまっただろうが、それだけのはずだ。まさか入るときにはノックが必要なんてことはあるまい。
「厄介なやつに目を付けられたな」
突然、案内人の声がした。
「あっ、何だよあんた今さら出てきて。俺、死ぬところだったんだぞ」
「ふん、何を言うんだ。黙ってろと言ったのはお前だろ」
「うっ……」
そりゃあまあそうだけども、そういうのってケースバイケースなんじゃないのか。
「でも俺なんであんなに恨まれたんだろうな。 ノックしなかったからか?」
「なに? お前分からないのか? あの鎖男、あの女とお前の関係を聞いてきただろうが」
「ああ、ティアだろ。それが?」
「いやだからあの女、小部屋の存在を知ってるってことは闘技場に出るのが初めてじゃないんだよ。それで鎖男も他の連中も多分初めてじゃない。そして闘技場にああいう顔の女が来るのは滅多に無くて……」
「そうか。レディーファーストでティアを先に部屋に入れりゃ良かったのか」
「……もういいよ、バカ」
その後、案内人が呆れたように黙ってしまったので俺はこの問題を一旦保留し、騎士に助けてくれたお礼を言い、そして武器を調達するためにも奥の小部屋へと入った。
戦うのは次の次かな……