ひっくり返って死んだ人
「えっ?」
俺はベッドの脇で充電してある携帯の画面を見て反射的に声を漏らした。携帯画面が示す時刻は7時56分。そこから導き出せる答えは1つしか無かった。
「やばい、寝過ごした!」
すぐさま飛び起き服に着替え、リュックを背負い部屋を出る。ああやってしまった。これ以上遅刻すると単位がまずいことになってしまう。
「あ、やっと降りてきた! 雄介あんた、いつまで寝てんのよ! こんな時間に起きて大学間に合うの!?」
「わかんねえ!」
母さんに一言叫んでリビングを走り抜けた俺は、その勢いのまま外に出て車庫に停めてある自転車に飛び乗った。現在時刻は8時ジャスト、電車の出発時間は8時12分。いつもなら駅までは15分から20分かかる。
「何とか間に合ってくれ」
心の中でそう願いつつ自転車を必死に漕ぐ。だがつい先ほどまで寝ていた体に、急にアスリートばりに自転車を漕げと脳が命令しても、そうはならないのが現実だ。大したスピードは出ず結局赤信号に捕まってしまった。最悪だ。急いでる時に限ってこうだ。
「やばいな……」
くそ、これというのも最近買ったゲームが面白すぎるせいだ。あんまり面白いものだからつい夜中までやってしまう。ああ、もし俺があのゲームの主人公ならこんなに自転車を漕がなくて済むのに。スキルの瞬間移動で目的地まで一瞬なんだ。
だがそんな事をいくら考えても仕方ない。ポケットから携帯を取り出し、見ると時刻は8時5分を回っていた。いよいよまずい状況だ。青信号に変わった瞬間とにかく漕ぎまくるしかない。幸いここから下り坂だから上手くいけば間に合う可能性がある。
信号が青に変わった。さあ行くぞとペダルに全体重をかける。その勢いに下り坂の角度が手伝ってなかなかの速さだ。
よし、これならギリギリ電車に乗れるかもしれない。俺は自転車をなおも懸命に漕いだ。いいぞ、もう駅が見えてくる……そーら見えてきた。
「いける!!」
そう思った次の瞬間、自転車の前輪からガキィンだかギャシインとかいう何ともいえない音がすると同時に自転車の前輪だけが前方に吹っ飛んだ。
あっ、とそれに気付いた時には自転車が前のめりに倒れ、アスファルトがゆ〜〜っくりと眼前に迫り始めた。……ああ、これ命が危険な時に脳が凄い早さで動くせいで周りの時間が遅く感じるってやつだな。そうか、この自転車、中学の時からずっと使ってたから遂にガタが来たんだ。
そして俺はアスファルトにおでこから思い切り突っ込んだ。ジュリジュリジュリと肉を削ぐ音が耳に届いて、えげつのない痛みだ。それに頭が酷くクラクラする。地面に伏せながら鼻の辺りから垂れた何かを拭うと手が真っ赤に染まった。
鼻血だ。それに口の中も鉄の味がしっぱなしで目だって頭から流れてくる血でよく見えない。
「おい大丈夫か!」
「バカ動かすな!」
「だれか救急車!」
辺りが騒がしくなってきてますます頭が痛い。どうやら車のドライバーや通行人が集まってきたようだ。そうだ。大学に行かないと。まず体を起こして……よし、何とか立ち上がれた。まるで足元がおぼつかないが、仕方ない。さて……あれ、景色が上の方に行くぞ?
ゴン。と後頭部から鈍い音がした。どうやら後ろにぶっ倒れたらしい……あ、意識が朦朧としてきた。そうか、遂に死ぬか。自転車で急いで走るからこうなるんだ。もっと早く動けるものならこうはならなかった。そう、車やバイクなら……それか或いは……
「瞬間移動……」
俺はそのまま目を閉じた。
さて、地上界で1人の男――山木雄介が脳挫傷で死んだその時、天界ではこれまた1人の男が泉のほとりで声を上げていた。天界に居る男は1人しか居ない。神だ。天使に性別は無いから男となれば神のみである。
「おーい、おーい誰か居ないか?」
上空では無数の天使が忙しそうに飛び交っていたが、そのほとんどがお前が行けよという顔で下を見るばかりで降りようとしない。
「おーいって」
痺れを切らした神が空を見上げて呼びかけた。
「はいはい、神様。ここに居ますよ」
遂に観念した1人の天使が面倒そうに降りてきた。
「これ見てくれよ」
「何だ。また下の世界見てるんですか」
神が指差した泉には地面に血まみれで倒れている山木雄介が映っていた。天使はそれを無表情で眺める。
「ただの死者じゃないですか、別に珍しくもない」
「あー、こいつ1億人目の死者なんだ」
「何言ってるんです。この世界では1億人目なんてとっくの昔に更新してますよ。確か今の死者数は……」
「いや俺が数え始めてから1億人目なんだよ」
天使は少し驚いたような顔で神を見た。
「あれまだ続けてたんですか?」
「そうだよ」
「へえ珍しい。神様もやる時はやるんですねえ」
天使の言葉に神は満更でもないという風に笑った。
「まあな、ところでこの記念すべき死人、どうしようかなぁ」
「どうって後はこっちでやりますよ。生きてた頃の行いを確認して天国行きか地獄行きか決めます」
神がフム、と鼻を鳴らした。
「いつもそれだな。いい加減に飽きてきた」
神がそう言って泉に映る山木雄介をじっと見つめ出したので天使は、また始まったとでも言いたげに小さくため息をついた。
「あっ、そうだ」
そう呟くと神は泉に手を突っ込み、山木雄介の死体から魂を吸い寄せた。魂が活きのいい魚のようにブルブルと暴れる。
「何するつもりですか?」
「いいからいいから」
神は素っ気ない返事をして泉から回れ右すると魂を掴んだままつかつか歩き出した。天使も頭を掻きながらそれを追いかける。
「どこ行くんです?」
「4番世界の泉だよ。そこにこいつを入れるんだ。せっかくの1億人目だから、もうちょい生かしてやろうと思う」
「あの……それはちょっとまずいんじゃないですかね。ある世界に別世界の生物を入れるなんて聞いたことないですし、それに……」
天使は神が今しようとしてる行為がいかにまずいかという話を続けたが神はそれを完全に無視して歩き続け、やがて4番世界の泉のほとりに立った。
「あのですね神様。それにここは地球の人間が簡単に生きていける世界じゃ無い……」
天使の言葉は届かなかった。既に神は山木雄介の魂を4番世界の泉に落としてしまっていたのだ。
「あーあ……知りませんよ」
神に落とされた山木雄介の魂は少し泉を泳いだ後に下へ潜っていった。天使はそれを目で追っていたがやがて完全に見えなくなったので神に向き直った。
「行っちゃいましたね。でも何でわざわざ4番世界なんです? 生かしたいならここよりよっぽど過ごしやすい世界だってありますよ」
「いや、だってこいつのやってた、えーとあれ何だ。こんな形のピコピコするやつ」
神が人差し指をくるくる楕円形に回転させた。
「ゲームですか?」
「そう、それ。そのゲームの世界と4番世界が凄くよく似てるんだよ。こいつあのゲームが好きだったからきっと喜ぶだろうなと思って」
朗らかに言う神と対照的に、天使は首を傾げた。
「どうですかねえ。私は喜ぶ前に死んでしまうと思いますよ。地球人にとったら4番世界なんか右も左も分からないですし、それにあの人、何のスキルも持ってないんですよ」
「大丈夫だって。案内とスキルを付けとくから。さーて今度は10億人目まで数えてみるか」
一仕事を終え、満足そうに歩き出す神と4番世界の泉を交互に見て天使はまたもため息をついた。
「……せめて仕事もこれの半分くらいのやる気を出してくれればなぁ」
天使が空へ舞い上がり、仕事に戻ると何人かに肩をポンポン叩かれた。そのうちの1人が小さい声でお疲れ様と囁いてきたので天使は力なく笑った。
神と天使が立ち去り、静かになった4番世界の泉。その中を山木雄介の魂はゆっくりと下へ泳いでいった。やがて魂は体を構築し、彼は新たな人生を歩む事になる。本来生きていくはずのない世界で彼はどのように生きていくのだろうか。
ぼちぼち気軽に書いていけたらと思います