後編
急速に意識が浮上し,身体の感覚が戻ってくる。
しかし,やけに反応が鈍い。
ヒロがゆっくりと瞼を開くと,そこは見覚えのある神殿の天井だった。
そこでようやく,彼は自分が個室のベッドに寝かされていることに気付く。
生きている。
呼吸もできている。
ぼんやりとそう実感すると,視界に彼を覗き込む者が現れた。
「目が覚めたか?」
「ジンさん……」
「おう……お互い,峠は超えたみたいだ。神官達が,全力を尽くしてくれたお陰だ」
既に目覚めていたようで,同じ勇者のジンが安心したように息を吐いた。
ヒロはゆっくりと上体を起こし,辺りを見回す。
神殿内は思ったよりも静まり返っていた。
「あれから,どれだけ経ったんですか?」
「丸四日だな。その間,神殿に魔族が来ることはなかった。幸か不幸か,な」
意味深な言葉を並べるジンを,もう一度見る。
彼の表情は,酷く憔悴していた。
何かがあった訳ではない。
これは二回目の代償。
大量の吐血と治療によって,こうならざるを得なかったのだろう。
「ジンさん……それは」
「酷い顔だろう? Sランク冒険者とは思えない顔さ。もう,引退する頃合いかもな……」
「でも,生きています」
「あぁ。確かに,俺達は今生きている」
恐らく,自分もまともな顔をしていない。
そう思いながらも,ヒロはジンと共に互いの生還を確かめ合った。
そして,もう一人の勇者の安否を問う。
「アイラは……?」
「見に来るか?」
ジンの柔らかい言葉で,ヒロは動き出す。
彼の肩を借りながら,いつもより長い廊下を歩く。
見覚えのある個室に入ると,ベッドに横たわるアイラの姿があった。
「ヒロと同じで,目が覚めたばかりなんだ。今は落ち着いている」
起きていた彼女は,二人に気付いて首だけ動かす。
目の下に僅かなクマがあったが,苦痛を感じている様子はない。
ヒロ達は傍にあった椅子に座って対面する。
病弱そうに見えていたアイラは,触れば崩れそうなほどに儚く見えた。
「す……みません……。ヒロさん,ジンさん……私は……」
「良いんだ,アイラ。今は,ゆっくり休んで」
「そうだな。全員生き残れた。それだけで十分さ」
「……ありがとう,ございます」
「礼ならヒロに言いな。アイラちゃんや都市の皆守ったのは,彼の力だ」
ヒロは話を振られたが,これは自分一人では成し得なかった。
そう理解していたので,小さく首を振る。
「俺も同じだよ。あの時,アイラが結界を張ってくれなかったら,あそこで死んでた。アイラがいてくれて,本当に良かった」
「そう,ですか。私,役に立てたんですね……。約束,守れたんですね……」
「ジンさんも。あの時,真っ先に戦ってくれなかったら,魔族との戦いに集中できなかった。流石,Sランク冒険者です」
「ははは……。後輩にそう言われると,妙に誇らしくなるな」
この場にいる全員がいたからこそ,被害を最小限に出来たのだ。
皆,少しだけはにかんだ。
だが暫くして,ジンが冷静な面持ちで話を切り出す。
「目が覚めたばかりで悪いんだが,二人に言っておきたいことがある。魔族のことだ」
魔族。
その単語に恐怖心すら抱きかねない中,ヒロ達は神妙に臨む。
誰からも拒絶の言葉はなかった。
「さっき俺は,神殿には魔族は来てないと言った。アレは,真実さ。でも,別の場所に既に魔族は出現していたんだ。数は一体。俺達が眠っている間にな」
「え……」
「魔族が……? 一体,何処に……」
自分達が意識を失っている間に,魔族は出没していた。
だが,何故別の場所に現れたのか。
以前から聞いていた魔族の習性を思い出し,ヒロはハッとして顔を上げる。
「気付いたみたいだな」
「魔族は勇者を優先的に狙う。じゃあ,まさか……!」
「二日前,魔族は逃亡したヒューマを追って,ここから離れたカリスト台地付近に出現した。ヒューマの姿も確認されている」
「カリスト台地?」
「……彼の故郷だ」
国都のいざこざから逃げ出したヒューマの情報。
ジンは,そこから言い辛そうに視線を逸らす。
既にハッキリと分かる程に嫌な予感がした。
「問題なのはここからだ。魔族が出現しても,ヒューマは一切戦わなかったらしい。その途中に村があっても,人がいても,逃げ続けた……。そのせいで,魔族が一つの村を滅ぼした……」
「な……!?」
「そ,そんな……!」
「責任を感じる必要はないんだ。代償を受けていた俺達には,どうすることも出来なかった。ただ,勇者が魔族を前に逃亡したという情報が,国内全体に広がりつつある」
誰もが強く握り拳を作った。
「バッシングの標的はヒューマだ。人でなし……人殺し……言いたい放題さ。だから今,彼は危険な状態なんだ。何が起きるか,分からない」
「……魔族は今?」
「カリスト台地で出現し,姿を消し,を繰り返しているらしい。村を滅ぼした後も確認はされているが,今はヒューマと同じで消息を絶っている」
出現した魔族はヒューマを標的にしている。
カリスト台地から動かないということは,彼が存命しているということ。
ヒロは立ち上がった。
死の恐怖に耐えられなかった彼が,今の状況を受け入れている筈がない。
急がなければ,手遅れになるかもしれない。
「行きましょう,ジンさん」
「……ヒロ,良いのか?」
「魔族のせいで,新たな犠牲者が出るかもしれない。今の内に止めないと……!」
「すまない……。こんなことは言いたくなかったんだが……」
「それはジンさんも同じですよ。俺達はもう二回目ですから」
三回目,それは即ち死を意味する。
それでも勇者としての役割を与えられ,魔族が人類を滅ぼそうとしているのなら,選択肢は他にない。
するとアイラも身を乗り出した。
「私も,行きます」
「アイラ!?」
「アイラちゃん……しかし,君は……!」
彼女はまだ一回目。
だが,病弱な身体もあって二回目を乗り切れるか分からない。
それでも撤回することはない。
「分かってます。でも,魔族は勇者を狙います。ここに残っていたら,余計に事態が混乱する……そんな気がするんです……」
勇者達が分散すると,互いにバックアップが出来なくなる。
ならば一ヶ所に纏まっていた方が対処がし易い。
アイラの言うことも一理あった。
故にジンも二人の意思を尊重し頷く。
「ありがとう。二人の協力に感謝する」
数時間後,ヒロ達はカリスト台地へ出発する手筈となった。
特に準備するものは殆どない。
神官達が身の周りの事はしてくれる。
少しの時間でも身体を休めてほしいと言われ,その通りにする。
神に仕える彼らは,ただ三人の勇者達に敬意と罪悪感を織り交ぜるだけだった。
「そうは言ったけど……」
ヒロは厠に赴き,硝子に映った自分の身体を見下ろす。
手足と胴体には包帯が大量に巻かれている。
一部は血が凝固したのか,黒ずんでいるように見える。
包帯を取ったら何があるのか,想像したくはなかった。
「ハ……ハハハ……。ゴホッ,ゴホッ,ゴホッ……! ハァ……ハァ……」
思わず笑うも,笑っただけ咳き込んでしまう。
微かに口の奥で血の味がした。
ヒロは震える両手を持ち上げる。
「死ぬのか……俺は……?」
答えを得られず,そのまま厠を出る。
そして暫く歩いていくと,廊下の途中で膝を屈するアイラがいた。
自室から移動したかったのか。
彼女は胸を抑えて,苦しそうに呼吸を繰り返していた。
「アイラ……! 大丈夫か……!?」
「約束……しましたよね……。絶対に,生き残るって……」
「……!」
「まだ,続いてますよね……? あの約束は……」
一瞬戸惑ったが,彼は取り繕うように頷いた。
「あぁ……まだ死ねないさ……。俺達は……まだ……」
そう,死ねない。
死ぬ筈がない。
ヒロは落ち込みかけた気持ちを奮い立たせた。
例えあと一回の命だったとしても,まだ生き残れる可能性だってあるかもしれない。
諦めてはいけない。
ヒロ達は,ただその望みに縋った。
時が満ち,ヒロ達三人はカリスト台地に急行する。
馬車に揺られながら,彼らは全員俯いたままだった。
表情は傍からは見えない。
全員,国都に赴いた時と同じように素顔を隠していた。
「それで……カリスト台地の状況は……?」
「酷いものさ。ヒューマの逃亡から始まって,一部の人間が暴徒化し始めている。万が一のことも考えて,顔は出さない方が良い」
「俺達が,勇者だからですか」
「……そういうことになるな」
アイラは両手で身体を抱きしめながら,小さく縮まった。
「どうして,私達が責められなくちゃいけないんですか……? 私達が何を……」
「人は勇者にあらず,勇者は人にあらず。そういう言葉を,先代の勇者が遺したって聞いたことがある」
「……」
「もしかしたら,先代も俺達と同じだったのかもしれないな」
先代達に今のような代償はなかった。
だがそれでも,人々とは違う格差に苦しめられていたのだろう。
ジンの言葉には,様々な思いが込められていた。
それから更に二,三時間が経って,三人はカリスト台地へ差し掛かる。
草原の割合が多く,自然豊かな場所だと聞いている。
だが今は魔族の侵略によって,非常に危険な地に変貌している。
ヒロは外の光景を見るため,馬車から顔を覗かせた。
第一の目的はヒューマの保護。
彼が逃亡する限り,魔族はそれを追い続け,被害が一層拡大する。
最後に目撃された場所に行き,その足取りを探ることになる。
だがヒロは,目に映る光景に僅かな変化を見つけた。
「ヒューマの気配が途絶えたのは,あの森だ。あそこに行けば……」
「待って下さい,ジンさん! あれを!」
前方のとある場所を指差し,皆にその変化を伝える。
そこは森から北東に外れた平原だった。
何の変哲もないように見えるが,黒い煙が微かに上がっている。
言われないと気付かない程薄かったが,山火事ではない。
平原の向こう側で何かが燃えている。
「何だ,あの煙は?」
「た,確か,あの方向って村がありましたよね……?」
「アイラちゃん,そうなのか!?」
「は,はい……! 間違いないです……!」
「嫌な予感がする! ジンさん,行きましょう!」
「あぁ! 神官! 俺達をあそこに連れて行ってくれ!」
「畏まりました!」
ただの思い過ごしなら良い。
それでも三人は国都で抱いたもの同じ予感を抱き,その場へ駆けつけた。
黒い煙はどんどん濃くなってくる。
煙の臭いが立ち込め,炎が始める音も聞こえ始める。
そうして三人を乗せる馬車は小さな村に辿り着く。
神官達を置いて村の中へ侵入したヒロ達は目を見開いた。
「な……何だこれは……!」
村には人々の死体が転がっていた。
皆武器を持っていたようだが,殆ど意味はなかったらしい。
ジンが率先して容体を調べるも,生きている者はいない。
周辺の家屋も,殆どが炎に呑まれている。
何者かの襲撃を受けたことは明らかだった。
「まさか,魔族が……!?」
「違う。この状況……魔族がやったとは……」
目の前惨状は,今この瞬間に起きた出来事だ。
そして魔族の気配は感じられない。
一体何があったのか,ヒロには一切分からなかった。
傍にいたアイラの顔色も,どんどん悪くなっていく。
するとその直後,辺りを震わせるような声が響いた。
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!!」
狂った笑い声だった。
三人の身体も思わず硬直し,声のする方向へと視線を向ける。
炎の向こうから現れたのは一人の少年。
その人物に,ヒロは思わず問うた。
「ヒューマ……なのか……?」
「あぁ……あぁ……ヒロ達,じゃないか……。どうしたんだ? こんな場所まで,観光かい?」
返事をしたのは他でもない,あのヒューマだった。
国都で逃亡した頃の面影は何一つない。
痩せこけた表情に,全身を血濡れにしながら笑みを浮かべている。
悪鬼という言葉が相応しい。
「何が,何が起きたんだ! ヒューマ!!」
「何がって,見た通りのままだよ……。僕が殺した……」
「馬鹿なッ! どうしてッ!?」
「どうして……? そんなに聞きたい……?」
頭部を斜めにして,ヒューマは正気の失った目で語る。
「コイツらは,僕を責めた。逃げただけの僕を,責めて責めて責めて,責め続けた。何処に逃げても同じだった。だから僕は家に帰ろうとしたんだ。でも……」
彼は視線を足元に下す。
そこには既に息絶えた民衆の一人がいた。
「家がなかった……コイツらは,僕の家を滅茶苦茶にしたんだ……。それだけじゃない……僕の家族もみんなみんな……殺された……」
「な……!?」
「原型がなかった……どれがお父さんで,どれがお母さんなのか……分からなかった……。最後に,奴らは僕を刺した。そしてこう言ったんだ。戦犯,戦犯,戦犯,戦犯,戦犯」
ヒロ達は気付く。
この村は,ヒューマの故郷なのだと。
そして何故,死に絶えた人々が武器を持っていたのかを,知ってしまう。
ヒューマは,転がっていた死体の一つを踏みつけた。
「女神様の役目を果たさなかった屑。屑は死んだ方が良い。死んで詫びろ。死ね死ね死ね死ね死ね。だから,僕がやったんだ。コイツらが大好きな力で,大好きな女神様の元に送ってあげたんだ。な~の~に~切~っても切~っても,ゴミみたいに増える~~ッッ!! ああああああああああ!!! なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでェェェェ!!!! あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!!!!」
彼は二回目を発動していた。
その力で,敵意と殺意を向けた暴徒を皆殺しにしたのだ。
最早勇者の所業ではない。
怒りや悲しみ,責任に押し潰された少年の人格は,既に崩壊している。
「もう,駄目だ……。間に合わなかったんだ……」
ヒロが冷や汗を流しながら,そう呟く。
彼の言葉に反応したヒューマは視線を合わせる。
どす黒い,あらゆる感情をごちゃ混ぜにした目が迫る。
「なああぁぁ。ヒロ,教えてくれよぉぉ。勇者って何なんだぁぁ? こんな,こんなことをされるのが,こんなことをされても皆の役に立つのが,勇者なのかあああ……?」
誰も何も答えられない。
ヒューマの全身の勇者の力が漲った。
「教えてくれよおおおおおお!!!! ヒロおおおおおお!!!!!」
瞬間,周囲にワイヤーのようなものが展開される。
これがヒューマの力だった。
対象を絡め取り寸断する神の糸。
臆するヒロとアイラを庇うように,ジンが前に踏み出す。
彼が何をしようとしているのか,二人には直ぐに分かった。
「ジンさん……! 駄目だッ……!」
「それは俺のセリフだ! 二人は絶対に力を使うな!」
「でもッ……!」
「これはファイフを取り逃がした俺の責任だ! 味方殺しの業を,お前達に背負わせたくはない!」
ジンはハッキリとそう言った。
だが彼の手が僅かに震えていることに,ヒロは気付いた。
「勇者を止められるのは,勇者だけか……。皮肉なモンだ……」
止める間はなかった。
瞬間,ジンの全身に勇者のスキルが満ち溢れる。
三回目の行使。
彼の手に死の象徴である神器が握られる。
周囲に張り巡らされていた神の糸が,衝撃波によって揺れ動く。
「あぁあが! ががが! あはが,く! くそお! ちぐじょう!! ぢぐ……! ぐえええ! えへへ! へひゃひゃひゃ!!!」
立ちはだかるジンに,ヒューマは狂乱しながら糸を操る。
虚空を舞ったそれらが一つの意志を持って動き出す。
何をするのかと三人全員が警戒するも,次の行動に狼狽える。
糸は周囲に倒れ伏す死体を巻き取り,次々に起き上がらせた。
まるで死人を操るかのように吊り上げていく。
これは言わば,死体の盾。
自分を狂気に追い込んだ者達を,死して尚戦わせようとしているのだろう。
「こんな惨いことをッッ!!」
武器を掲げた死体達を見て,ジンは叫ぶ。
所詮人間の域を出ない操り人形。
勇者の戦いに割って入る程ではないが,牽制するには十分な効果だった。
彼らはジンだけでなく,ヒロ達の元へも群がっていく。
「ヒロさん……!」
「アイラ,離れちゃ駄目だ!」
反射的に護身用の剣を抜いたヒロは,アイラを庇いながら襲い掛かる人形達に抵抗する。
勇者の力がなくとも,元は彼も冒険者。
剣捌きにはある程度の心得があった。
それでも複数の相手は手に余る。
二人の危機を感じたジンは,空へ跳躍する。
地上は既に死の人形で溢れている。
空中から一直線に降下し,ヒューマを打倒しようとした。
だがその身体が空中で静止する。
ヒューマの糸は空にも展開され,ジンの身体を絡めとったのだ。
「グ……!?」
「つか~……ま~えた~……」
ヒューマが右手を掲げて握りしめる。
糸がジンの身体を強烈な力で縛り上げた。
全身が切り刻まれ,血が流れていく。
「これだけの力があって……何故ッ……!」
瞬間,ジンは目を見開いて僅かに動く右手に力を込める。
「飛べッッッ!!! 神器・ハルバート!!!」
彼はその場で神器を投擲した。
ハルバートが風を切りながら,暴走する勇者に迫る。
ヒューマは糸を束ねて複数の障壁を生み出し,鉄壁の防御態勢を整える。
だが決死の覚悟を持って投げられたハルバートによって,次々に破られていく。
「あぁぁぁ……ああああぁ?」
「ヒューマッッッ!!!」
最後の障壁が破られる瞬間,大きな衝撃波が巻き起こった。
全ての糸が切れ,動いていた死体が一斉に地に落ちる。
ヒロ達は立ち込める炎と風の中で,瞼を開いた。
落ちていく大量の糸の向こうに,息を乱すジンと蹲るヒューマがいた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
「ア……ハハ……ハハハ……どうしてなんだよ……? 教えてよ……?」
敗北したヒューマは横たわったまま動かない。
よく見ると,彼の背中にはナイフが深々と刺さっていた。
恐らく暴徒から受けた凶行なのだろう。
勇者の力を発動しようが,どうしようが,既に彼は致命傷に至っていたのだ。
「こんなに辛いなら……苦しいなら……僕は……何のために……」
スキルが解けると共に,ヒューマは息絶えた。
残されたのは,狂気によって蹂躙された村の跡だけだった。
ジンは拳を震わせて,ハルバートを地面に深々と突き刺す。
「馬鹿野郎がッ……! グッ……!? グボアァッ!?」
「ジンさんッ!!」
ジンが大量の血を吐く。
三回目の代償が既に襲いつつあるのだ。
死相の見えていた彼の表情が,どんどん青白くなっていく。
「すぐに神官達を呼んで治療を……! 今ならまだ……!」
「ヒロ……まだ戦いは,終わってないぞ……!」
だがジンはそれを振り払い,空を指差す。
ヒロとアイラは,頭上を見上げて愕然とした。
空間が歪んでいる。
まさか,と思う間もなく,歪みから骸骨の頭部を模した魔族が現れた。
恐らく今までヒューマを追い続けてきた件の魔族なのだろう。
上顎と下顎の歯を打ち鳴らし,天空を黒く染め上げる。
「魔族!? 何でこんなタイミングで……!」
「いや,絶好の機会さ。俺がやる……! まだ,戦える……!」
「もう無理です! そんな状態じゃ,本当に……っ!」
アイラも悲痛な様子で止めようとする。
先程の戦いで消耗してしまい,余力は殆ど残っていない。
三回目はまだ消えてないが,今度戦えば確実に死に至る。
だがジンは口元を緩ませるだけだった。
「勇者とか,そういうのは関係ないのさ。例えどんなに苦しくても,曲げられないモノがある……! 自分の意志を貫く……! それが,俺が今まで冒険者として築き上げてきた俺自身の姿なんだ……!」
地に刺さったハルバートを抜き,魔族に向ける。
「俺はSランク冒険者,ジン! 貴様を倒すッッ!!」
彼は全力を以て,再び空に跳躍する。
衰えを感じさせない勢いだった。
魔族は窪んだ眼孔から赤黒い光を宿し,手中から黒い波動を放つ。
正面からそれを受け切ったジンは,波動を切り裂き切迫する。
だがその直後,彼の全身に黒い紋章が浮かび上がった。
「死の刻印!?」
文献で見たことがあるヒロは思い出す。
対象を数分以内に死に至らしめる回避不可の術式。
解除も出来ない危険種として,封印認定されている筈のスキルだ。
何故魔族がそれを御しているのかは分からない。
それでもジンは,微かに笑った。
「おいおい……随分悠長じゃないか……。もう俺には,そんな時間……残っちゃいないのさ……!」
死を恐れず肉迫するジンに,魔族は多少なりとも驚いたようだった。
抵抗するように鉤爪のような腕を振う。
ただの物理的攻撃だが,その威力は強力無比。
回避し切れなかったジンの左腕が吹き飛ばされる。
だが,彼は止まらなかった。
「オオオオオオオオオオ!!!!!」
稲妻を纏った突進で,周囲一帯に凄まじい雷光を放った。
巨大な雷が落ちたと錯覚するほどの音が震撼する。
まさに必殺の一撃。
アイラを庇いながら,ヒロは眩い光の先を見続けた。
そして暫らくの時間が経ち,光が収縮する。
何も見えなかった白い景色の先に,消滅する魔族と,地に立ったままのジンの姿があった。
まだ,彼は生きている。
三回目を経て,神器が消滅した今,彼はまだ立っている。
そう思い掛け寄るヒロ達だったが,傍に近づいた事で察し,足を止める。
「ジン……さん……」
返答はない。
こちらを振り向く事もない。
そして理解する。
ジンは立ったまま絶命していた。
アイラは膝から崩れ落ち,ヒロも握り拳を振りかざし,地を殴り付けた。
「くそ……! くそっ……くそぉっ……!」
カリスト台地の戦いは終わった。
残す魔族は一体。
勇者は残り二人となった。
●
「最後の魔族が確認されました」
カリスト台地の戦いから数日後。
神殿に戻ったヒロ達は,大神官・ウォースラより新たな情報を告げられる。
八体目の魔族の消息を掴んだとのことだった。
当初は六人いた勇者も,今となってはたった二人。
その間,アイラはヒロの傍を離れようとはせず,彼もそれを拒まなかった。
「魔族が現れる次元の狭間,その向こうに最後の一体が存在します。ソレはこちらの世界に現れることなく,超遠距離攻撃を以てこちら側に干渉するようです」
「その情報は,何処から……?」
「女神様のお告げで……」
「……」
どうやら最後の魔族は,例の狭間から出て来ない臆病な性格らしい。
それでも遠距離攻撃を得意とするらしく,このままでは一方的に地上が蹂躙されるのは目に見えていた。
当然迎撃することになるのだが,狭間の向こうは物理的に向かえる距離ではない。
「どうすれば,良いんですか?」
「我々が結集した力で,転移場をこの広間に出現させます。これで狭間の向こうへ送り届けることが出来ます」
「それって……」
帰って来れるのか,という言葉をアイラは辛うじて呑みこんだ。
しかし大神官も言葉の続きを理解し,ただ頭を下げた。
「申し訳……ありません……。本当ならば,我々も戦いたい……ですが……」
「……分かってます。魔族に通常の攻撃は通用しない。勇者の力じゃないと,奴らは倒せない」
ヒロはやんわりとそう言った。
彼らに罪はない。
ただ自分の役目を全うしようとしているだけだ。
ファイフによって多数の神官を殺されても尚,勇者のために力を貸そうとしている。
八つ当たりをする意味も,その行為を無下する理由もない。
ウォースラは二人を見上げ,感謝の念を滲ませた。
「貴方達の名誉と誇りに,これ以上傷はつけさせません。我々の命に代えても,守り通します」
カリスト台地の惨劇は直ぐに国土に伝わったが,神殿側で新たに結成された広報によって,暴徒の顛末が告げられた。
加えて今まで公表出来なかった,勇者のスキルについても真実が明かされる。
三回行使すれば,必ず死ぬ。
死の代償は過去に渡って存在しなかったため,人々の間に衝撃が走った。
勇者は幾らでも戦ってくれる。
そんな固定観念が,覆された事になる。
だがヒロ達の状況に変わりはなかった。
「最後の戦い,なんですよね?」
「そうだな。これで,これで全部終わる。皆の思いを,無駄にしちゃいけない」
人類を救うために戦う。
それ以外に,出来ることはない。
ヒロだけでなく,アイラにも既に覚悟は出来ているようだった。
「私も行きます。一緒に,戦いましょう」
「一緒に,か……」
「はい。二人で行くなら,怖く,ありません。ありませんからっ」
自分に言い聞かせるようにそう言った。
ヒロは二回目,アイラは一回目。
彼は勿論のこと,彼女も体力面から二回目の代償に耐えられない。
それでも戦わなくてはならない。
人類のために,己の未来を切り開くために。
その後,ヒロの元に来客が訪れる。
彼の母だった。
カリスト台地での一件から,勇者の親族を守るよう護衛が強化されていたのだ。
母は神殿まで丁重に持て成され,実の息子と対面した。
「母さん……」
「ヒロ,随分久しぶりに会った気がするわ。具合は……」
「いや,全然だよ。今は痛みも引いてる」
死相浮かぶヒロを見ても,母は自分の感情を抑え込んでいるようだった。
だからこそ,彼も強がるような言葉を述べる。
何ともない,痛みなんて感じないと振る舞った。
互いの距離感が図れないままだったが,取り留めもない会話を続けた後,母は唐突にこう言った。
「ヒロの大好きだったもの,作るわね」
既に陽が落ちていた。
彼女は息子のために料理を作ってくれた。
毎日,いつもの事のように用意していたお袋の味というもの。
断る理由はない。
調理場を借りて支度をする母を,彼は待ち続けた。
懐かしい匂いがする。
過去の思い出が溢れかえり,かつての食卓が思い出される。
もう遠い昔のような感覚だった。
「……いただきます」
並べられた料理を前に,味わうようにスープを口に含んだ。
だが,直ぐに異変に気づく。
「あれ?」
ヒロはもう一度,スープをすくって食べた。
しかし,やはり何も感じない。
味がしない。
そこで彼は気付く。
自分の味覚が,いつの間にか壊れていた事を。
「あぁ……」
これも勇者による代償だというのか。
もう,過去を懐かしむ事も許されないのか。
直後,母が耐え切れないように彼を抱きしめた。
「ごめんね……ごめんね,ヒロ……!」
「母さん……ごめんなさい……」
ヒロは言葉を溢したが,涙だけは溢さなかった。
もう,それしか出来なかった。
料理を食べ終え,自室に戻ろうとすると,アイラの自室から微かな声が聞こえる。
ノックをして開けてみると,ベッドの上で彼女が啜り泣いていた。
「アイラ?」
「すみません……覗くつもりはなかったんです……。でも……」
どうやら夕食の件を見られてしまったらしい。
情けない姿だっただろう。
何も言えずに近づくと,彼女はポツリポツリと呟き始める。
「両親は,幼い頃に私を残して亡くなりました。殆ど顔も覚えてないけれど,きっと私の事を愛してくれた筈だって,今更思ったんです」
「俺もさ。今まで身近すぎて,気付かなかった事が,今になってとても大切なものだったんだって,分かったよ」
目に見えないものよりも,身近にある大切なもの。
それを奪われない為にも,ここまで繋いでくれた人々の為にも,戦うしかない。
逃げたりはしない。
自分はその宿命を背負った勇者なのだから。
ヒロがそう思っていると,不意にアイラが彼の手を握った。
「まだ,気付ける事が沢山あると思うんです。今も,これからも」
ヒロは痩せ細った彼女の手を見下ろし,何かに気付いたように目を細めた。
「あぁ……そうだな……」
「だから,二人で……一緒に……」
生き延びる。
そう言うよりも先に,アイラはヒロに抱き付いた。
彼女の身体はあまりに細く,そして小さく震えていた。
「安い女だって……思いますか……?」
「そんなこと,絶対にないよ」
それだけ言って,互いに強く抱き合った。
夜に浮かぶ満月が,徐々に欠けていくのが見えた。
●
「転移の準備が完了しました」
深夜。
魔族からの強襲が迫る中,神殿内の広間で神官達が転移の準備を整える。
その場に現れたのは二人の勇者。
世界の命運を握る者達だ。
広間の中心までやって来たヒロは,その場で振り返り,術式を指揮するウォースラに声を掛ける。
「では,お願いします」
「……畏まりました」
辛そうな表情をするウォースラだったが,それ以上は何も言わなかった。
ヒロとアイラは広間の中心に立ち,息を整える。
直後,神官達が力を発揮し,彼らの周りに巨大な魔法陣が展開されていく。
次元の狭間に送り届ける転移術。
これが発動すれば,後は狭間の向こうにいる魔族と戦うだけだ。
魔法陣の光が強まり,アイラはしっかりとヒロの手を握った。
「ヒロさん……絶対に,生き延びましょう」
「分かってる。でも……」
言い淀んだヒロは,少しだけ俯いた。
「アイラ。君は連れて行けない」
「え……?」
途端,彼は手を離し,アイラを魔法陣から突き飛ばした。
「あぁっ!?」
何のことだか分からず,彼女は勢いのまま魔法陣を抜け,床に倒れ伏す。
軽い痛みなど構わずに見上げると,ヒロは視線を逸らしたまま魔法陣の光に呑まれていく。
転移の発動間近故に,魔法陣内の空間固定化が始まっているのだ。
アイラは思わず駆け寄ろうとしたが,固定化による見えない壁に阻まれる。
周りの神官達は心苦しそうにしながらも,力を緩めなかった。
「ヒロさん……? ヒロさん……! ウォースラさん,転移を止めて下さい! このままじゃッ!」
「彼らには話を付けておいた。俺一人で行く」
「な……んで……」
「アイラは防御系の勇者だ。今回の魔族とは相性が悪い」
「そんなことは聞いてませんっ!」
病弱な彼女にしては,とても大きな声だった。
あぁ,そんなに怒る所は始めて見たな。
そう思うヒロは,申し訳なさそうに目を伏せた。
「嘘……嘘ですよね……? だって,一緒に生き延びるって……! 生きるって,言ったじゃないですか……!」
「アイラを死なせたくない」
「何で……そんな勝手な事を……」
「言っても,ついて来るじゃないか」
「当たり前ですっ!」
アイラは壁を叩いた。
無論,今の非力さではどうすることも出来ない。
「私だって貴方を死なせたくないんです! ウォースラさん! お願いします! 止めて下さい! 止めて下さいっ!!」
悲痛な叫びを聞いて,ウォースラは目を逸らしかけながらも,ヒロに問う。
「本当に,よろしいのですか? 勇者の力は,きっと貴方を……」
「ありがとうございます。ウォースラさん,それに神官の皆さん」
するとヒロは確かに笑った。
純粋な笑顔だった。
ウォースラだけでなく,周りの神官達も息を呑む。
「貴方達が全力を尽くしてくれなければ,俺達はここまで生きられなかった。最後に母さんにも会えた。もう,十分なんです」
「っ……!」
「後は,全て託します」
「ヒロ様……! 我々は貴方達の勇士を,決して忘れません……!」
ウォースラは感謝の言葉と共に力を強めた。
転移の魔法陣はもうすぐ完成し,発動する。
ヒロはもう一度,アイラと視線を合わせた。
「アイラ,母さんを頼む。あの人は,寂しがり屋だから」
「やだ……こんなの,いやだ……」
彼女は力なく拳で叩き,遂に膝を屈する。
俯いた所から,涙が零れ落ちる。
「お願い……置いて行かないで……」
微かに聞こえた声と共に,ヒロが目にしていた視界が切り替わる。
光で出来た,長いトンネルを抜けるような光景。
これが転移の力なのだろう。
次の瞬間,彼は次元の狭間にいた。
闇一色ではなく,辺りにプリズム型のモノが散乱する奇妙な空間だった。
恐らく,今まで誰も到達したことのない異空間。
呼吸は出来るが,無重力のように身体が浮いている。
その先に,魔族はいた。
形は巨大な心臓と言うべきか。
確かな鼓動を続けながら,異質な存在感を漂わせている。
対面するヒロは,自身の身体を見下ろした。
間近に迫る死に,呼吸が乱れる。
息が詰まりそうになる。
両手が震える。
彼は懐に仕舞っていた母の手紙を,もう一度握りしめた。
「やっぱり……怖いな……」
それでもジンは,三回目という恐怖の中で戦い抜いた。
己の感情を御し,勇者として魔族を倒した。
やはり彼は,Sランク冒険者に相応しい人だったと理解する。
「でも,これが今の俺に出来ることなら……!」
そこまで考えたヒロは,己の力を解き放つ。
自身の残された命の灯を燃やす。
「聖剣よ! 俺に最後の力を!」
生み出された聖剣を両手で確かに握りしめる。
後退はしない。
ヒロの目には,ヒューマの幻影が映っていた。
彼の意志は強くなかった。
だが人の弱さを,勇者としての有り方を問うたのは確かだ。
ならば進むしかない。
その有り方を正す為にも,後ろへ下がることは許されない。
「切り伏せるッ!」
彼は無重力の中,聖剣が放つ光の渦を利用して突進する。
今持つ全ての力を結集して,敵を打倒せんとする。
するとそれに呼応するように,心臓が鼓動を打つ。
ただそれだけのことで,周囲に衝撃波が発生した。
漂うプリズム状の物体が飛散し,光の粉となって消える。
ヒロは聖剣で薙ぎ払いながら,それらを打ち消していく。
だが次から次へと衝撃波は続き,突撃を遮られる。
「クソッ……!」
カーリーは一回目という中で,魔族を三体も倒した。
先々代勇者の家系は確かに凄まじかった。
あれだけの力があれば,この程度の攻撃は容易に突破できただろうか。
ヒロは全力で衝撃波を切り捨て,再度距離を縮めようと跳躍する。
同時に,魔族の放つ衝撃波が更に強まった。
通常の人間ならば,聞くだけで狂い死ぬ程の威力。
直撃を受けたヒロは,耐え切れずに血を吐いた。
切り込もうとした威力も,自然と弱まる。
「ガハッ!? ガ……ウグ……ッ!」
国都に潜伏したファイフが思い起こされる。
彼は押し付けられた役目を放棄した。
所詮は,女神の選定で与えられた力。
何故自分が戦わなければならない,とファイフは言いたかったのだろう。
それはヒロも同じだった。
有無を言わさず,戦場に出ざるを得なかったことに,怒りがなかった訳ではない。
だが,今のヒロには理由があった。
「俺は……負けない……。認められなくても良い……。どれだけ蔑まれても良い……。それでも俺は……! 負ける訳には,いかないんだッッ!!」
最後に想起したのは母とアイラの姿だった。
大切なものを守る。
この手で守ることが出来る。
それが自分の死を乗り越え,戦うことの出来る唯一の理由だった。
瞬間,ヒロの全身が光り輝く。
手にしていた聖剣が,形を変え七色の光を発する。
三回目を超えた四回目を,彼は無意識の内に発動していたのだ。
今まで誰もなし得なかった,スキルの重ね掛け。
ヒロは全身から噴き出る血を払い,飛び立った。
あらゆる波動を突破し,聖剣を真っすぐに突きあげる。
魔族との距離は,直ぐそこまで迫っていた。
「届けえええええッッッッ!!!」
最期の一撃。
聖剣が魔族に触れた瞬間,強烈な光の渦が巻き起こる。
その渦は狭間一帯を照らし,震撼させた。
次元の狭間だけではない。
人々が住まう全土の夜空に,狭間から零れた聖剣の光が届いた。
温かく包み込む陽光が差し込み,皆が立ち止まり,空を見上げる。
それが勇者の力であることを,誰もが悟り,指を差した。
だがそれも十数秒の猶予だった。
黒い幕が下りるように,宵闇に解けていく。
儚く散る命のように。
光は次第に力を失い,消えていった。
●
半年後,国都大聖堂。
昼下がりの屋内は,硝子から差し込んだ日で満たされ,往来する人々が祈りを捧げていく。
神々への祈祷。
自分への贖罪。
理由は様々だ。
思いを天に届けるため,騒々しさのない静寂が場を満たしている。
そんな屋外で,一人の女性が荷物を運んでいた。
大聖堂内の物資を馬車へ移そうとしたのだろう。
弾みで少しだけバランスを崩す。
「おっとと……」
「あ,手伝いますよ」
「あら,ありがとう。アイラちゃん」
それを支えたのは神官服を着る少女,アイラだった。
かつての死相は消え,病弱だった頃のか弱さも見られない。
健康的な様子で,力仕事を請け負う。
女性はそれを見て,少々申し訳なさそうだった。
「でも,良いのかしら……アイラちゃんにこんなこと……」
「今の私には,勇者の力はありません。普通の人です。それに,称えられるようなことも何も……」
首だけを振って,力を貸す。
現在,アイラは目の前の女性,ヒロの母親と共に暮らしている。
魔族が倒されたことで勇者の力も失われ,一人の少女として生きている。
仕事は,国都大聖堂の監督役に近い。
大聖堂内で行われている行事の経過を見守り,国に報告する役割である。
元々,彼女が仕事をする必要は殆どない。
世界の危機を救った勇者として,王族並みの待遇をされているためだ。
だが彼女にとっては,気休めにもならない。
身体動かしていた方が良い,ということから自ら職を求めた結果,こうなった。
ヒロの母も連れて,である。
だが,それだけでアイラが満たされる筈もない。
馬車に荷物を入れつつ,彼女は呟く。
「結局,私は生き残った……生きることを託されたんです。だから残された者として,出来ることをしたいんです」
「出来ること……?」
「魔族が倒されて,平和は戻りました。でも,また同じように魔族が現れて,あの時と同じことが繰り返されるかもしれません」
確かに魔族との戦いは終わった。
沢山のものを犠牲にして。
結果,神殿側の杜撰さが指摘され,それらを含めた改革が始まりつつある。
しかし,全てが終わった訳ではない。
アイラの瞳には確かな決意があった。
「魔族の正体を突き止めます。この世界ではない,別の次元から来ることは分かっているんです。必ず解明して,二度と争いが起きないようにしたい。そのためにも,私自身が強くならないといけないんです」
「本当に出来るのかしら。魔族の事は,結局何も分からないままだし……。きっと,並大抵のことじゃないわ……」
「それでもです。今は非力でも,必ず」
それを聞いて懐かしむように,ヒロの母は目を細める。
「あの子も言っていたわね。冒険者も辞めた自分は無能かもしれない。でも,そんな自分にも出来ることがあるなら,手を伸ばしてみたいって……」
そう言って,彼女はもう一度アイラを見た。
「アイラちゃんは,あの時から自分は勇者じゃないって責めているけれど,そんなことはないと思うわ」
「え……」
「国都で戦ったことは,皆が見ていたわ。どれだけ苦しくても,人々のために戦ってくれた勇気ある人。あの時の皆にとっては,貴方は確かに勇者だったのよ」
アイラは微かに笑い,頭を下げるのだった。
暫くして荷が運び終わり,一人残った彼女は空を見上げる。
日差しが強い。
光の向こうに,散っていった勇者達の面影が見える。
確かに魔族の正体を突き止めたなら,それは人類にとって大きな進歩となる。
だが,アイラにあった思いはそれだけではない。
ヒロの遺体は,見つからなかった。
次元の狭間は閉じ,誰もそこへ向かうことが出来ず,生死不明とされた。
そう,生死不明。
まだ彼が死んだとは断定されていないのだ。
だからこそ,アイラは再び立ち上がる。
魔族を追えば,必ずそこに辿り着く。
きっとまた会える。
「私,諦めないから」
彼女は青空に向けて手を伸ばす。
「また会えるよね? だって,約束したんだから。生きて帰るって……」
その後,現代の勇者として存命したアイラは,魔族の研究と共に,己への鍛錬を繰り返した。
病を克服し,覚えられるモノは叩き込み,その全てを吸収した。
元々,勇者に選ばれるだけの才能はあったのだろう。
開花した才能から数年後,彼女は過去の勇者に匹敵するだけの力に上り詰める。
女神の加護ではなく,己の力だけでその域に到達した者。
人々は彼女を「神域の者」「生きる英霊」と呼ぶようになった。
そして,その中で語られる過去の勇者達の記録。
決して武勇伝ばかりではない,凄惨な末路も記されたもの。
それでも閉ざされた状況下で,勇敢に戦った者がいる。
勇者の力だけでなく,己の意志で死を乗り越え,人々のために命を落とした者がいる。
それを知る皆は,彼らを懺悔と尊敬の意を以って口にする。
『真の勇者』と。
「おい,誰か倒れてるぞ!」
遠く離れた,人の生活圏から隔絶された森の中。
狩りに出ていた者達が,倒れている一人の青年に気付いた。
獣相手の武装である弓矢を携えつつ,彼らはその青年に近づく。
青年は目を閉じたまま,ゆっくりと呼吸を繰り返している。
眠っているようだった。
すると彼らの内の一人が,心当たりがあるように息を呑む。
「もしかして,人族じゃないか……?」
「馬鹿な! 人族が何故ここに! この森は,俺達エルフだけが踏み入れることを許されている神聖な場所だぞ!」
全員が驚きを隠せない。
彼らはエルフ族。
人族との関わりを持たない,希少な種族だ。
そしてこの森は,人族の侵入を拒む守護がある。
過去何百年,それが破られたことはない。
更に,青年が手にしている剣も異様だった。
見るからに錆び付いた,使い物にならなそうなもの。
刃はボロボロで,木の枝を切ることも出来そうにない。
これだけの武装で,どうやってここまで辿り着いたのか。
「この錆びた剣は一体?」
「さぁ? 男の物ということは確かだろうが,起こして聞いた方が手っ取り早いさ。おい,貴様,起きろ! 一体何処からやって来た!?」
エルフの男達は,無理矢理にでも青年を叩き起こそうとする。
しかしそれを制止する女性の声が上がった。
「お待ちなさいな」
「総長! しかし,この男は人族です! 危険です……!」
「無理に起こせば,私達への警戒心が増すだけ。ここは穏便に事を済ませるべきよ。それに,今はゆっくりと休ませてあげましょう」
総長と呼ばれたエルフの女性は,彼の傍に近寄り,じっくりと見つめた。
「彼は,とても疲れているようだから」
皆が青年の様子を確かめる。
その表情は,とても眠りが深く。
とても安らかで。
とても穏やかだった。




