4 視線の中
私たちは修繕された、微かな硫黄漂う宿舎の門戸を潜り、屋内に入った。
宿に足を進めると、蛍光灯の明るさで少々眼が眩むが直ぐに慣れた。冷房が効いている為、室内は涼気に満ちている。外が林の日陰で暑くないとはいえ、やはり梅雨の生温さはあり、彼女の項からは汗が垂れていた。
眼の前に小さな木製の受付代があり、呼び鈴が置いてある。そこには誰もいないようだ。私は部屋を見渡した。
内装は木造で、冷たい湿り気を含む杉板の香りが漂っていた。床は焼き杉が敷かれ、天井には木造剥き出しの梁が交差し、見せ梁として蛍光灯、大型の扇風機が設置されている。伝統的な日本家屋の雰囲気が伺え、意外にも本格的な内装で私たちは、息を呑んだ。
宿入り口左側上部の木壁には、能に使用される面が飾られていた。
能面の下部には達筆で小面、古皺尉、泥眼、東江、小飛出、牙飛出、顰、と名札と共に7つの能面が飾られている。能面はどれも、眼が落ち窪んでおり、どことなく悲しく哀愁漂う表情をしている。
多少埃が被っていたが、日本家屋の雰囲気と相まって和風独特の空気を醸し出し、昔ながらの温泉宿に相応しい壁飾りとなっている。
能面たちが見据えている北東方向には、木製の簡易的な椅子が三脚丸テーブルの囲っている。その右壁には窓があり、外からの木漏れ日が椅子とテーブルを照らしていた。
私たちは能面に目をやりながら、木製の受付台に歩み寄った。受付には、誰も居ないようで、室内は静寂に包まれている。
私は呼び鈴の摘みを数回叩き鳴らした。呼び鈴は古く傷曇りのある卓上ベルで、室内に甲高く曇った鐘の音が響き渡った。
どこか遠くで林を伐採しているのか、機械音が微かに聞こえるのみだった。
静寂、程なくして受付奥の木製扉が開き、台帳を抱えた腰曲の老婆が現れた。
老婆は私に皺を縮ませ微笑み、挨拶をし台帳に氏名を書けと差し出した。台帳には既に3つの名前が記入されていた。電話予約した私の名前を記入した。
インターネットで宿は検索はできたが、電話での予約対応であったのだ。
老婆は私たちを部屋に案内すると言い、荷物を持とうと受付台から出てきた。腰曲の老婆に荷物など持たせられる訳もなく、私と彼女は自分の荷物を手に取った。
能面たちの視線の中、私たちは老婆の曲背を追ったのである。