災難は空から舞い降りる
奥野 香苗という少女は、おおむねクラスにおいて、菩薩めいたポジションを得ている少女である。
野球部の粗忽な男子Aいわく、
「なんか、しゃべり方とかすっごい丁寧な感じだよなー。いっつもにこにこしてるし、優しいし、親切だし、怒ったとことか見たことねぇわ」
いつも賑やか極まりない放送部女子Oいわく、
「とりあえず、いい子ってのは確か。人の悪口言わない子だよね。ああいうのって女子だと意外に難しいしさ。どこにでもいそうだけど、実はなかなかいないタイプ」
取っつきにくいと名高い化研部男子Bいわく、
「とろくさいように見えて話の理論立てが簡潔だ。無駄がないというのはいいことだと思う。それでいて控えめな性格というのは評価されるべき点だろう」
他の連中も大差ない。
――つまり、奥野は、おおむねの人間に好印象を与える人物だということだ。
さて、状況を整理しよう。
まずは落ち着くことが肝要だ。このあいだの俺はちょっと焦りすぎていた。
頑張れ俺。
あわてるな俺。
勘違いは結構痛いぞ?
『わたし、井島君のこと――』
よし、心の中で耳塞ぐのはやめような俺。
まずはこの「井島君」だ。
当たり前だが、一己も同じく「井島君」だ。だからもしかしたら、これは一己のことを差していたのかもしれない。
よし、この調子だ。なんか頬が染まってたり目が熱っぽかったりしてたのはきっと俺の気のせいだ。
ともあれ。
実は奥野も一己のことが好きで、俺に仲渡しを頼もうとしてたのなら、これ以上のものはない。万々歳だ。諸手を上げて協力してやらんでもない。
問題は――そう、問題なのは。
俺の自意識過剰な早とちりが、大当たりだった場合だ。
後からよくよく考えてみると、あの目はどうも、一己に向けられているのを何度も見た覚えのある目だった気がする。
考えるのも怖いが――恋する乙女の目というやつだ。
自分に向けられた覚えなんざないから、すぐには気付かなかった。
……確かめたら終わりだ。
いや、多分勘違いだけどな! 俺の自意識が過剰反応起こしてるだけだろうがな!
だがしかし、万が一ってこともある。
そしてその万一が起きてしまったら、俺は正直、とんでもなく、困るのだ。
だって相手は、一己の惚れた女なのだから。
そりゃまあこの年になるまであいつにはさんざん迷惑をかけられてきたが、それでもたった一人の片割れだ。
ボケが過ぎる気がしないでもないが、根っこのところはいい奴だ。恋愛沙汰なんてどうでもいいことで面倒なことになるのは、ぶっちゃけてしまえば、ごめんこうむる。
そして俺は決意した。
クラス替えまで一ヶ月。
――とにかく、逃げきるしかない。
「ったくよぉー、本当にムカつくぜ一己の奴! 羨ましいかって言われたら微妙に羨ましくねえけど! なんっかムカつくんだよ!」
「なら代わってやれよ。命がいくつあっても足りね……っとしまった急に尿意が!」
「は? おいニキ!?」
――はたと目が合えば、速攻で教室から抜け出し。
「ちょっと井島弟! 掃除だっつの、どこ行くのさ!」
「兄貴が助けを求めているんだ!」
「はあ!? キャラ違うしってオイコラ、逃げんな―――!」
――授業が終わるや否や、ダッシュで部活に向かい。
「あー? 何だ井島、ここんとこ遅刻ギリギリだと思ってりゃ、とうとう遅刻か」
「いや先生、これはやむにやまれぬ事情が!」
――遅刻寸前まで学校への到着を遅らせ。
消極的だと言うなかれ。
それっくらいしか本気で思いつかないんだからむしろ同情して欲しい。
そんなこんなで一週間が経つ頃には、俺は精も根も尽き果てて、ぐったりと机に突っ伏していた。
(……このまま、くさったしたいになりてぇ……)
もはや脳が溶けている。
部室代わりの情報処理室はゲーム研究会と数学研究部の共用だからそれなりの人数がたむろしていたが、ぐったりして内心でくだを巻いている俺のことなんて誰も気にした様子はない。
ありがたいんだかありがたくないんだか、微妙だ。
二人しかいない部活仲間については、単に薄情なだけのような気もする。
「っしゃ勝ったァ! みたかマイコー!」
そのうちの一人、尾崎が握りこぶしで雄叫びを上げた。
ネット経由で対戦していたアメリカ人にとうとう勝利を収めたらしい。ホラ見ろそれ見ろと隣の男をつつくが、もう一人の部員である鈴木は全く興味がなさそうにソリティアをやっていた。
「俺、パズル興味ねーし。ニキに言えよ」
「えー? だってあいつ今死体じゃん。つまんねー」
前言撤回。なりたいもなにも、俺は既に死体だったらしい。
無念なことに反論する気力も涌いてこない。引き続き、べったりと頬をパソコンデスクに押し付けて脱力していると、廊下から顧問の声が聞こえてきた。
「あれ? どうしたのこんなとこで。まさかとは思うけど入部希望?」
「あ、いえ、えっと……」
聞き覚えのあるものやわらかな声に、俺は勢いよく身を起こした。
「あの……井島君、いますか?」
「あー、弟君の方ね。はいはい。
おーいニキくーん。お客さん――って、アレ?」
顧問が、きょとんとした声を上げる。
――ここが一階で助かった。
扉が開けられる寸前、かろうじて窓から脱出した俺は、校舎の壁に張り付きながら冷や汗を拭った。
頭上から漏れ聞こえる顧問と奥野の声を聞きながら、俺はこそこそと移動していく。
すると、唐突にきょとんとした声を投げかけられて、思わず身を竦めた。
「あれ、二巳?」
げっ、と顔を上げれば、そもそもの元凶がのんびり口調でうなずいた。
「……ああ、なるほど。逃亡ちゅ――」
(だああああ!)
一己にダッシュでタックルをかけ、そのまま引きずるようにその場を離れる。
校舎の角を曲がって死角に入り、ほっと息をついた俺は、双子の兄を窒息死させかけていることにようやく気付いた。
「うわ! すまん!」
「ゲホ……うん、死ぬかと思った」
それにしちゃ第一声が呑気だなオイ。
とっさに内心で突っ込んだが、声に出せる元気が残っていない。体力まで使い果たしてその場にしゃがみ込んだ俺を見て、一己が不思議そうに訊ねた。
「二巳、どうした?」
「へっ」
「今の……うーん、なんていうんだろうな。せまり来る敵から必死に逃げてるって感じだった」
「は!? ち、違うっての! 逃げてない、逃げてないからな!」
「そうか、違うのか」
あっさり納得された。
なんだか余計に疲れた気になって、俺はぐしゃぐしゃと髪を掻き回した。
ああちくしょう、あいかわらずボヘーとしやがってこの野郎。
俺が誰のために苦労してると思ってんだ。俺か。俺自身のためか。
とにもかくにも、なんだか無性に殴りたい。
衝動に耐え切ってどうにか背を向け、止められないのをいいことに歩き始めたときだった。
ゴッ、という鈍い音が耳に届いた。
(……ん?)
耳を済ませば、聞こえてくるのは何かが空気を切る音だ。まるで、何か大きなものが落ちてくるような――
振り返って、俺は目を疑った。
岩のようなコンクリートが落下してきた。ずたずたに破壊された渡り廊下が、一己めがけて襲いかかる。
逃げろと叫ぶ暇もなく、けたたましい轟音が上がった。
衝撃によろめいて、俺はぶさまに尻餅をついた。
「な……」
次々と響いた重苦しい音があっというまに収まり、静寂が訪れる。コンクリートの残骸から、土煙のような粉塵が辺りを漂う。
何が起きたのか分からない。
頭が働かない。
地面についた自分の手が、小刻みに震えているのが分かった。
――一己は。
あの真下にいたはずの、あいつは。
「……一己……! おい……嘘だろ!? 返事しろ一己ッ!」
血の気が引いていく。いくらあいつがトラブル慣れしていたって、こんなものに巻きこまれて無事でいられるはずがない。
がくがくと震える足を叱咤して、俺はよろめきながら立ち上がった。
信じられなかった。信じたくなかった。
あまりに動揺していたせいで、あいかわらずの――むしろ変わらなさ過ぎる暢気な返事が聞こえてきたときには、安心を通り越して、トドメをさしてやりたい気分になったのだが。
「おーい、こっち」
瓦礫の向こうに、ひらひらと振られる手が覗いていた。
思わず膝が砕けた。俺の心配を今すぐ利子つけて返せ、この野郎。
「くそ、怪我とかしてねえだろーな……。……って」
瓦礫の山を迂回して、俺はその場に固まった。
――校舎の壁に背中をぶつけた一己が、小さな子供を抱えていたからだ。
「……何だ、ソレ」
「うん、なんか落ちてきた」
のへのへと一己が答えたとき、一己いわく落下物が、あわてた様子で身を起こした。
「……もうしわけありません! おけがは……!?」
舌ったらずな高い声が、えらくカタい言葉で問いかける。
その女の子の顔を見て、俺は猛烈な勢いで嫌な予感にかられた。
(か……かわいい……ッ!)
果てしなく絶望に近い気分で使う形容詞じゃない気がひしひしするが、ふざけてはいない。
真剣である。
真剣に、頭痛を覚えてよろめいた。
肩までのまっすぐな髪はやわらかそうな栗色で、どんぐりみたいな大きな目はどこか聡明な光を宿している。
子供ならではの丸みを帯びたほっぺたは、つまんでみたくなるようなきめ細かさだ。
ただひとつ、明らかにおかしいのは――服装が、なんというのか明らかに普通の人間が着るようなものじゃなかった。
ぶっちゃけた話が、時代劇に出てくる忍者の格好だ。
……ただのコスプレならいいが、そうでなかったら。
非日常のレベルが、ホップステップのあと棒高跳びっつーくらいの勢いで跳ねあがる。
俺がじりじりと後ずさる中、一己が砂を払いながら身を起こした。
「うん、平気。そっちは大丈夫?」
「あ……は、はい。ええと……だいじょうぶです。もうしわけありません」
「いいよ、謝んなくて。お互い怪我なくて、ラッキーだったね」
その子はともかくお前はラッキーとかいう問題じゃない。
すごく今さらだが、なんで落下してきた人間を受けとめて無傷なんだ。普通は下にいる人間の方がダメージでかいはずだぞ。
「じゃ、気をつけて。帰り方わかる?」
「――って帰してどうするこのバカ!」
とっさに突っ込んでしまい、ハッと気付いて頭を抱えた。
くそ。関わるまいと思ってたのに!
一己はきょとんと首を傾げ、ああ、とうなずいて手を打った。
「そうか。いちおう保健室だな」
「警察だろ! あれ見ろ、校舎破壊されてんだぞ!」
元は渡り廊下な瓦礫の山を指差して叫んだ。
――が、感覚が麻痺してやがるのか、一己の顔にはさっぱり緊迫感というものが見当たらない。
きょとんと首を傾げられ、本格的に殺意が涌いた。
「なんで?」
「なんでもクソもあるか、明らかにどう考えても関係者だろうが! 事情聴取でシラ切り通す自信ねぇぞ俺は!!」
「うん、大丈夫。俺がやるし」
「アホかッ! 嘘がばれたらこっちが犯人扱いされるわああああ!!」
その妙な自信はどこから来るのか首を締めて問い詰めたい。たぶん慣れだとか答えるんだろうがこのバカは。
ああ、泥沼だ。
誰か俺を止めてくれ。常識どおりに行動してしまえば否応無しにこの非日常に関わりつづけてしまうというのに!
「あ……あの、もうしわけありません」
俺が内心でものすごい葛藤にさいなまれているところに、全力で関係者な女の子が、おずおずと手を挙げた。
「けいさつなら、もんだいありません。みたままを話していただいてだいじょうぶです」
「は?」
「わたくしは、鈴切小梢ともうします。そうなのったとおつたえくだされば……」
いよいよようこそ、非日常の扉。
何がどうなってお前の名前で話が収まるんだ。どう考えても警察官僚の娘とかそういう世俗的な話じゃなさげな辺りが、痛い。痛すぎる。
「それでは、しつれいいたします」
軽やかな動きで身を起こした女の子は、ぺこりと可愛らしい一礼を残してその場から消えた。
――極めつけだった。
文字どおりに、消えたのだ。
思わず天を仰いだ俺は、うっかり破壊された渡り廊下を視界に入れてしまって頭を抱えた。
一己がしみじみとうなずいた。
「礼儀正しい子だったな」
「……感想がおかしい……ッ!」
いいかげん、息切れしながら突っ込む。
誰が通報したのか、パトカーのサイレンが遠く聞こえていた。




