井島一己の現況(推測)
「やぁやぁ井島兄、おつとめご苦労! どーだったよ今回の美少女探訪紀は!」
教室に入るなり、拡声器レベルのバカ明るい声が響いた。
野郎どもの殺気の引き金をあっさり引いて、通称「放送部」こと丘芹は上機嫌の極みだ。
一己はまだ半分寝ているような顔で、ああ、とうなずいた。
「……やっぱり、米と味噌汁はいいと思った」
「ほうなるほど。そいつは日本人の魂みたいなもんね――って誰が食事の感想を聞いたか!」
びしりと裏手で一己をどつき飛ばした放送部は、たたらをふんだ一己を斜めに見下ろすと、舌打ちを落とした。
「ちっ、相変わらず話の通じんヤツめ……。ねえ井島弟、どーだったのさ。こいつ何か連れて帰ってきてないの」
「バカ言うな。俺の家が戦場になる」
「えー、なにさ、つまんなーい。セシリア・ロスとかついてくるかもってワクワクしてたのにー」
「誰だよそれ」
ぶうぶう言う放送部にため息を吐いたとき、はにかむような声が答えた。
「アルゼンチンの女優さんなんだって。丘ちゃん、ずーっと言ってたんだよ」
一己が、わずかに肩をこわばらせた。
些細な変化だ。だがしかし、生まれてこのかた十七年一緒にいる俺をごまかせるほど些細じゃない。
「おかえりなさい、井島君。ケガとかない?」
一己を硬直させたクラスメイトは、そう言ってふわりと笑った。
彼女の名前は奥野 香苗。いつもにこにこ穏やかで、朗らかで、誰に対しても態度を変えない希有たる女子だ。
容姿はいかにもおとなしそうで、どちらかといえば地味な方だろう。
もっとも、これは比較対象が真弓やネヴィヤなのが悪い。かわいいことはかわいいけれど、バラの隣に白詰草が咲いてたら、どうにも印象は薄くなる。
つまりはそんな感じの女の子なのだ。――一己が惚れた女の子は。
久しぶりの奥野に感じ入ってでもいるのか、一己はなかなか返事をしない。
奥野が心配そうな顔になって初めて、思い出したようにうなずいた。
「うん。たぶん」
「えっ、たぶんなの?」
「あ、いや。大丈夫」
「そっか。よかったぁ」
ボケた返事をする一己を横目に、俺はため息を吐いた。
……もうちょっと愛想を見せろ、お前は。
そんなだから奥野から「もしかして、わたしのこと苦手なのかな」なんて感想が出てくるのだ。頑張って誤解を解いてやった俺に感謝してほしい。
奥野は笑顔で一己を見上げた。
「帰ってきたって聞いて、ノート全部持ってきたんだ。読めないところがあったら教えてね。……今回はけっこう長かったから、コピー取ろうかなって思ってたんだけど……」
「いや、いいよ。金かかるし。……ありがとう。助かる」
「いいえー。お隣の席ですから」
気にしないでと笑う奥野に、一己がそろりと視線を落とした。
他の奴らが誰も気づかないのは、奥野が誰に対してもこうだからだろう。席が隣の一己だけじゃない。いつだって奥野はよく気が回るし、誰に対しても親切で、だから結構隠れて男どもの人気が高い。
かくいう俺も、いい子だなとは思っている。
わざわざ応援してやるつもりはないが、うまく行けばいいとも思っている。
あんな異常なモテ方をしているくせに、一己が自分から人を好きになったのは、おそらく奥野が初めてだ。
彼女ができれば、こいつの特異体質も多少はどうにかなるかもしれない。
年々異常度を増しているトラブルと手を切れるなら願ったりかなったりだ。というわけで、できればどうにか頑張って欲しい。――もっとも、もしうまくいったらいったで、おそろしい事態になるのは目に見えているのだが。
さすがに真弓やネヴィヤたちも、奥野を相手に全面戦争を仕掛けたりはしないだろう。
きっと自重するだろう。
……もし何かしようとしても、さすがに一己がなんとかするだろう。多分。きっと。
俺が胸のうちで奥野にこっそり謝っていると、騒々しい足音が二つ、廊下から響いてきた。
来たなと思った次の瞬間には、叩きつけんばかりの勢いで扉が開いた。
「ちょっと一己、どういうつもりよ! こいつはともかくあたしを置いてくなんて!」
「聞き捨てならないわね、マユミ! どういう意味なの!?」
「どうもこうもそのまんまの意味……ってネヴィヤ、あんたのクラスは向こうでしょ! とっとと戻りなさいよ!」
「いいじゃない! わたしだってカズキと同じクラスがよかったわよ!」
「現実を見ろ、現実を!」
朝っぱらからいつまでテンションが高いんだ、こいつら。
思わずこめかみを押さえた俺は、奥野がふんわり笑うのを見て眉間に皺を作った。
なにがそんなに微笑ましいか。
「良かった。二人とも、元気になったみたい」
「うーん、やっぱあの二人のバトルがない学校生活って、なんっか張り合いないもんねー」
放送部が横から合いの手を入れる。
そういうもんだろうか。平和でいいななんて感想は出てこないのか。
困惑する俺をよそに、放送部は右手をマイクに見立てて実況を始めた。
「お、珍しく景品がバトルを止めに行きました。
……おおっと二人の矛先が景品・井島(兄)に向かう!
当然です、女の喧嘩に男が出て行けばそうなります!」
「いや、実況しなくていいっつーに」
「さあ日米美少女対決、今回の見所はどこでしょう、解説の井島(弟)さん!」
「誰が解説だ」
言ったとたんに後頭部をはたかれた。
「ったく兄弟そろってノリの悪い……っと、真弓委員長の肘鉄が井島(兄)に炸裂! しかしノーダメージだ! すごいぞ井島(兄)!」
「……俺はときどき、あいつの頑丈さが恐ろしくなる」
くすくすと奥野が笑い声をこぼしたとき、レフェリーが戦いを止めに入った。
レフェリーというか、つまりはまあ、担任だ。
「はいそこまでー。続きはSHRの後にしろ」
面倒くさそうに言った担任(29歳独身)は、景気のいい音を立てて一人ずつ頭を叩いた。一己だけ武器(出席簿)を縦にしたのは――なんだろう、妬みか普通に呆れか。まあ後者だろう。
5組の委員長がふてくされるネヴィヤをなだめながら回収して、ようやく担任が教壇に立つ。
ざわざわと騒がしいクラスを特にたしなめるでもなく、担任は、相変わらずのだるそうな顔で言った。
「あー、俺も今日聞いたんだが……このクラスに専任の副担がつくことになった」
はあ?という間の抜けた誰かの声は、クラス全員の心情を代弁していた。
専任の副担って何だ。しかも今日まで知らなかったって、そんなことがありえるのか。
クラス中の疑念を一身に浴びながら、担任は一貫して面倒くさそうに言った。
「オフェリア先生、どうぞ入ってください」
――ちょっと待て横文字か。
嫌な予感でうめいた俺に構わず、たてつけの悪いはずの教室の扉が、軽やかに開く。
教室がどよめいた。
ブルネットと青い瞳の、とんでもないプロポーションの美人がそこに立っていた。
知的な微笑はそこはかとなく色っぽく、まるで映画女優を場違いな場所に引っ張り出したような気分になる。
「オフェリア・ロスです。専門は生化学よ。どうぞよろしく」
――高校に生化学なんて科目はねぇぞ。
だんだん展開が読めてきて、俺は頭を抱える。
担任が困惑気味に咳払いをした。
「大学の臨時講師を兼ねてるから、授業としてはあまり接点がないかもしれんが……まあ、なんだ、アルゼンチンのえらく有名な化学者だそうだから、興味があるやつは質問に行くといいんじゃないか?」
つーかそれ、基本は大学のほうだろ。
それで条件にこのクラスの副担をつけたんだろ。絶対そうだろ。
でもって、動機も一つなんだろ。
クラスを見渡したオフェリアが、ふと一点で目を止める。
その瞬間、まるでとろけるみたいにその瞳が甘くなった。
ざわっと集まった男子の殺気を一身に受けながら、一己が眠そうな目をしばたく。
まったくもって、予想通りの展開だ。
「……あれ、オフェリア?」
「また逢えて嬉しいわ、カズキ」
――またお前かブルータス!
それは、野郎どもの心がひとつになった瞬間だった。
よくよく考えるとおかしな比喩なんだが、「まさかお前が」→「またお前か」という変遷をたどったらしい常用語だ。まあなんとなく、気分はわかる。
真弓がイスを蹴って立ち上がった。
「っな……なんなの、どういうことよ一己ッ!」
「ああ、なんかアルゼンチンで知り合った人。……にしても、偶然ってすごいな」
「偶然なわけがあるか馬鹿――――!!」
真弓が叫ぶ。
言いたいことは至極もっともだ。
一気に膨れ上がった殺気にまったく構わず、放送部がガッツポーズで声を上げた。
「っし! ロスさん違いだけどよくやった井島兄、ちゃくちゃくと対象年齢が上がってるわね! ソフィア王妃似の老婦人たらしこむ日も近いわ!」
だから誰だそれは。
一気に騒がしくなったクラスにため息を吐きながら、俺は過ぎ去った平和な日々を思ったのだった。
とっちらかるので作中には出していませんが、現時点で他にも
・元華族の正統派箱入りお嬢様
・グラビアアイドル(グラビアなのがいいんですよこの話なら!)
・孤高の天才画家少女
・フィギュアスケーター
あたりがひしめいていると思われます。
今何歳だよ井島兄。どんなスケジュールで攻略してきた。




