【6】これからも君だけを
僕は朦朧とする意識の中であることを思い出した。いきなり倒れた僕に瑠衣が駆け寄る。
「ちょっと、どうしたの? 千秋ったら、そんなことで倒れないでよ。」
僕は瑠衣に助けられながら起き上がった。
「……瑠衣、君は嘘なんてつかない優しい子だと思っていたよ。よりによって何が『猫の幽霊』だ。そんな馬鹿げた嘘を僕が信じるとでも思った? 」
瑠衣は意識をすぐに取り戻した僕に安心してほっと胸を撫でおろす。驚いて目眩がしただけのようだ。僕は最近貧血気味なのでしょっちゅう目眩や立ちくらみを起こすので慣れたものだ。
「本当よ。嘘なんかじゃないもの。私、あなたに嘘なんてついたことある? 」
「無いよ。でもこれは嘘だ。だっておかしな点が多すぎるからね。まず、結婚指輪だ。なぜ僕は君とペアの指輪をはめているのかな? これがなによりの証拠だ。次に本棚のアルバム。あの中には二人の結婚写真がいくつか入っている。数自体は少ないけれど君と夫婦だっていう証明になると思うよ。きっと書き損じた婚姻届も入っているはずだからね。君の付け焼き刃の嘘なんてすぐ見破れるよ」
すると突然、瑠衣が急に泣き出してしまった。
「私だって嘘なんてつきたくなかった。でもしょうがないじゃない。ねえ、『瑠衣』は猫だったのよ。あなたの飼い猫。そう信じてくれない? 」
瑠衣は支離滅裂な言い方をする。
「まずは落ち着いて。僕は瑠衣が猫だったなんて馬鹿げたことを信じるほどおめでたい人間じゃない。ほら、君は一体誰なの? 瑠衣にそっくりな顔をしているけれど別人なんだろう? 最近の整形技術は進歩しているんだな。本当にそっくりだ。ほら、泣き止まないと身体中の水分が流れ出ちゃうよ」
瑠衣は僕からハンカチを受け取って顔を乱暴に拭った。そして鼻を盛大にかんで僕の方へ向き直った。
「いい加減に信じてちょうだい。私は瑠衣。これは本当よ。確かにいきなり『猫』だなんて信じられるわけないわよね。確かに嘘だもの。嘘のつき方なんて知らないんだからしょうがないじゃない。千秋のためになるべく言わないでおきたかったの。でも、もう黙っているわけにはいかないみたいね」
瑠衣は困ったように笑って肩をすくめた。
「ねえ、千秋は覚えている? 半年前の3月26日に何があったのか。私達にとって最も大きな事件があった日よ。すごくいい天気で、冷たい北風が吹いていたでしょ」
「確か異常気象で、春なのに雪が降ったって騒がれていた日じゃなかったっけ。びっくりしたよ。でも、急に凍結した道路でタイヤが滑って事故が多発して大変だったんだよね。」
すごく驚いたから今でも記憶に残っている。
何日も雨が続いて、それが雪に変わり道路が凍結するのに時間はかからなかった。
その日は寒くてとてもじゃないけれど外に出る気がしなかった。
「そう。よく覚えていたわね。まあ当然かも。あんなことがあったんだもの。その日、どうしても雪が積もった桜が見たくって千秋に頼み込んで連れていってもらったの。その帰りにファミレスに寄ってごはん食べたじゃない。そこの駐車場で私、車にはねられてしまったの。あっという間に死んでしまった。
痛みなんてちっとも感じなかったから我ながらいい死に方だったと思う。でも千秋にさよならも言えなかった。それが心残りで幽霊になって会いにきたの。それに千秋は自分のせいだってすごく自分を責めていたから不安だったの、私の後を追って自殺するんじゃないかって。案の定精神を病んじゃって私が行方不明だと思い込んでいるし。記憶の改ざんってやつかしら。でもそれを知ったら千秋、今よりもっと悲しむと思うの。だって千秋は悪いところなんてないのに無意識のうちに自分を責め続けている。これ以上悲しませたらきっと心労で倒れちゃう。それよりも私を飼い猫だったってことにしたらショックが軽減して気持ちが楽になると思ったんだけど、世の中そんなにうまくいかないみたいね」
瑠衣は全部話すことができてすっきりしたのか大きくため息をついた。僕は驚きのあまり声も出ない。
——瑠衣が、死んだ?
「これは本当の話だから信じて。ショックなのはわかるけれど私はもう、死んでいるの」
瑠衣が、死んだ……
「つまり、瑠衣はもうこの世の人間じゃないってこと? もう話したり、触れ合ったりできないってこと? 」
「そうよ。私、死んでいるんだから。でも安心して。
千秋が私がいなくても大丈夫って思えるまでそばにいるつもり。その時がきたら、私は見えなくなるはずよ」
僕はふと思いついた疑問を口にした。
「ってことは、その時まで他人にも瑠衣の姿が見えるの? 」
「いいえ。千秋にしか見えないはずよ。私の姿は鏡にも映らないみたい。たぶん、写真にも。もう私がこの世にいるっていう証拠は残せなくなっちゃった……
こんなことなら生きているうちに写真とかいっぱい撮っておけばよかったね」
瑠衣は泣きそうな顔を無理に歪ませて笑顔を作った。僕の前でそんな無理をする必要はない。そんなものがなくても僕は瑠衣を忘れたりなんてしないのに。
「写真なんて必要ない。君がいない半年間も瑠衣のことを片時も忘れたことはなかった。食事中も、通勤中も、仕事中も、夢に見たこともあったくらいだよ」
瑠衣は苦笑する。どうやら忘れられていないか不安で僕の夢に化けて出てきていたようだ。
「幽霊でもまた君に会えて嬉しいよ。今でもこれからもずっと君だけを愛しているんだから」
「……私もずっと千秋を愛してる」
瑠衣は複雑そうな表情で僕を抱きしめた。