【5】嘘つきの君
ねえ、瑠衣。君は今、何をして、何を考えて、何を感じてる? 何が好きで、何を愛していて、何を求めてる? 僕にはそれが、わからない。君のことなら何でもわかっていたはずなのに。僕が知っている君は、本当の君ではなかったのだろうか。ずっと僕は君を誤解していたのだろうか。本当に僕は君を愛していたのだろうか。それすらももう、わからない。
日に日に瑠衣の枕の染みは増えていく。それも、どんどん大きくなっていく。瑠衣に聞いたほうがいいのだろうか。それとも、そっとしておいたほうがいいのだろうか。瑠衣は僕をどう思っていたのだろうか。理解者だと思ってくれていたのだろうか。わからないことが多すぎて、頭が破裂しそうだ。僕は耐えきれなくなって、決死の思いで瑠衣に尋ねた。
「君は、誰なの……? 」
瑠衣は僕をじっとみつめた。驚いて、目を大きく見開いて、でもずっと僕を見ていた。——しばらくの沈黙。その静寂を断ち切ったのは、僕だった。
「君が以前の瑠衣とは違うように思えて仕方がないんだ。最初は、ただ漠然とした違和感だったんだ。何かがおかしいとふと思ったらもう止まらなかった。枕に付いた涙の染みも、唐突で不自然な質問も、不可解なことが多すぎる。君は一体誰なんだ? 本当の瑠衣はどこにいるんだ? 目的は? 動機は? 僕には見当もつかない……」
僕の言葉を最後まできいてから彼女は取り乱すことも視線を泳がすこともなく、まっすぐ僕を見据えて重い口を開いた。
「私は……瑠衣よ、あなたの奥さん。でも、千秋の知っている私とは少し違うかもしれないけれどね。ねえ、漠然とした違和感って何? 教えてよ」
「まず、僕の知っている瑠衣はすごく恥ずかしがりで、滅多に『好きだ』『愛してる』なんて言わないんだ。僕からはよく言っていたけれどいつも一方通行だった。おかげで瑠衣の愛を疑うことになっているけどね」
瑠衣は寂しそうに笑った。
「そんなふうに思っていたのね。言葉にしなくても伝わっていると思ってたのに」
「それに瑠衣の両親は何年か前に亡くなっているはずだろう。本当はどこに行っていたんだ?」
「ああ、千秋って観察眼が鋭いのね。その通り、確かに私の両親はもう亡くなっている。でも嘘じゃない。
でもお墓参りに行っていたわけでもない。そのことについては追々話すつもりだから待っててね」
瑠衣は感心したように僕をみた。だてに推理小説を愛読していない。
「あと、枕が涙の染みだらけになっていたのはどうして? 怖い夢でもみたのなら遠慮なんかしないで起こしてくれればいいのに」
「ふふ、悪夢なんてみてないから安心して。ただ、怖かったの。忘れられることがね。誰の記憶にも残らないなんてすごく悲しいことだと思わない? 」
「確かにそうかもね。でもそれだけのことで泣くなんておかしい。何か別の理由があるはずだ」
瑠衣はまるで母親が聞き分けのない子供を諭すような表情をして優しい微笑みをたたえていた。
「瑠衣、何か悩んでいるなら言って。僕にできることならなんだってするから」
「……言えない。だってあなたを苦しめることになるもの」
「構わないよ。それで瑠衣の気持ちが軽くなるのなら」
瑠衣は僕の言葉に驚いたようだけれど、すぐまた微笑んで言った。
「あなたがつらい思いをするなんて嫌よ、言えるわけないでしょ。お願いだからこのことはもう忘れて。また普通の生活に戻ろう」
彼女は困ったように曖昧な微笑を浮かべた。
本当はこんなことを言いたくはなかったけれど、この際仕方がないだろう。
「俺は君を瑠衣だとまだ完全に信じているわけではないよ。もし君が何も言わないのなら警察に電話して見知らぬ女性が自宅に上がり込んでいると通報してもいいんだ。俺だって君を脅したくない。でも君が何も言わないのならそうせざるをえない」
瑠衣は目を丸くして僕をみつめた。僕が瑠衣に向かってこんな冷たくてきつい言い方をしたのは初めてだ。驚くのも当然だろう。
「……本当に後悔しないのね? 」
僕は力強くうなずいた。
「実は私、人間じゃないのよ。——幽霊なの」
僕は驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。そしてすぐ瑠衣の足元を確認する。……よかった、ちゃんとある。
「ふふ……足元をみても無駄よ。触っても生身の人間と全く同じだもの。幽霊っていっても最近はそんなにすぐ見破られる容姿はしてないものらしいから」
瑠衣はまたさもおかしそうに笑いながら続けた。
「ねえ、千秋。あなたには『瑠衣』なんて奥さんがいたかしら?私はね、猫なのよ。あなたのペットだった猫の瑠衣」
一瞬何を言われたのか理解できずに頭が真っ白になった。ゆっくりと彼女の言葉を咀嚼しようやく理解した瞬間、僕は叫んだ。
「嘘だ! 嘘に決まっている!瑠衣が幽霊だなんてだけでも疑わしいのに猫だなんて、そんな、そんなこと、信じられるわけがない! 」
「本当よ。私の前世の行いがよかったから人間の姿になって大好きな千秋に会いに来たんじゃない。あなたは急な交通事故で愛猫を亡くして傷つくあまり、なぜか飼い猫を自分の妻だと信じこんでしまったのよ。違和感を感じるのも当然よね。だって人間じゃないんだもの。所詮猫だってことね。まさかこんなにも早く正体がばれちゃうなんて予想外だったけれど。さすが私のご主人さまね」
あっけらかんと言い放つ瑠衣に僕はショックを受けてへなへなと地面に座りくこんでしまった。
まさか、僕の妻が飼い猫の幽霊だっただなんて誰が想像するだろうか? 僕は消え行く意識の中であることを思い出した。
「……ええっ!?」と思われた方、安心してください。
次回、種明かしです。
物語もついに佳境へと突入します。