【4】君がわからない
瑠衣が帰って来てからというものの、僕の生活は劇的に変化した。目が覚めると隣に人がいるのも、誰かのために朝食を作るのも、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。毎日がとても充実していて、楽しくて、満ち足りている。ああ、僕はなんて幸せなんだろう。仕事も瑠衣がいない時とでは比べものにならないほどうまくいっている。ミスもぐっと減ったし、何より待っている人がいるという意識が仕事をはかどらせる。ただし、全てが順調……というわけではない。
その一方で瑠衣の枕の染みはどんどん増えていっている。朝の目の腫れも悪化しているし、僕を見る目がなんとも奇妙なのだ。ぼんやりと虚ろに外を眺めているかと思えば、僕をじっとみつめている事もたびたびあった。時には切なく苦しそうに僕をみつめ、またある時には愛おしそうな視線を向けてくる。別に瑠衣に見られたくないわけではない。むしろ時間が許す限りいつまでもみつめあっていたいくらいだ。ただ、瑠衣は僕を見ているようで別なところを見ているような気がしてならないのだ。これが噂に聞く『浮気の兆候』なのだろうか。いやいや、まさか瑠衣に限ってそんなことはないだろう。瞬時に頭に浮かんだ疑念を振り払った。僕らの夫婦仲は円満だし、目立った喧嘩もしていないし、僕に魅力がないというわけでもない。身長も学生の頃陸上をやっていたこともあり、平均より少し高いくらいだ。顔だって俳優のようにとはいかなくとも悪いわけではない。そこには多少の自負がある。特別気が利くというわけでもないけれど、思いやりの精神は人並みに持っているつもりだ。段差があれば瑠衣の手をとるし、雨の日に傘が1本しかなければ瑠衣が濡れないように傾ける。もちろん瑠衣への愛情も人一倍で、瑠衣以外の女性はまるで眼中にない。つまり夫としての偏差値は56くらいだと言えるくらいには自惚れている。威張れるようなほどのものではないけれども。
「千秋、何考えているの? 」
やっぱり瑠衣の声は心地いい。どんな音楽よりもずっとこの声を聴いていたいくらいだ。
「久しぶりに瑠衣と映画にでも行こうと思ってね。
瑠衣が好きな俳優が主演の恋愛映画がやっているみたいだけど行ってみようか」
「いいよ、別に映画なんて見なくても千秋がいればそれで充分。それより私達が初めて会ったときのこと、覚えてる? 」
誘いをやんわりと断られたことに加えて唐突な質問に面食らう。随分と前の話だから必死で記憶の底からエピソードを引っ張り出した。
「……初めて会ったときか……たしか道端だったよね。すれちがった時に瑠衣がつまずいて俺にコーヒーかけちゃってさ。いいって言ったのに新しいシャツとコーヒーをおごってくれたんだよ。今思えば猛アタックだったよね」
そうそう。最初にアプローチを仕掛けてきたのは瑠衣だったんだ。律儀ないい子だと思っていたけれど、実は僕に一目惚れしていたなんて今思えばつい顔がほころんでしまう。それにしてもなぜ急にそんなことを?
……今、僕はとんでもないことを考えた気がする。場合によっては犯罪級の想像だ。もしかすると……瑠衣は、僕の目の前にいるこの女性は、瑠衣ではないのかもしれない。
いや、まだ可能性があるというだけでそうと決まったわけではない。でもこれが本当なら、最近妙に感じていた違和感といい、唐突な質問といい、これでつじつまが合う。もし瑠衣じゃないのなら違和感を感じて当然だし、瑠衣と僕のだいたいの情報は掴めても細かい情報はわからないはず。だからこんな質問をしているとすれば納得がいく。とすれば今現在僕は見知らぬ女性を家に泊めていて、抱きしめたりキスしたりを日常的に行っていることになる。これは浮気になるのだろうか。行為をただ見れば確実に浮気になるだろう。
しかし、僕は瑠衣だと思い込んでいたのだから断じて浮気などではないと信じたい。いや、それ以前に瑠衣と別の女性の区別もできないなんて夫失格だ。夫としての偏差値なんて56どころが0に等しいだろう。どうしよう……ごめんね、瑠衣。
……瑠衣? この女性が瑠衣じゃないとすれば本当の瑠衣は今どこにいるんだ?まさかこの女性が瑠衣を殺して、ばれないように彼女のふりをしているのかもしれない。瑠衣、君はまだ生きているのだろうか。
「ちょっと、千秋ったら聞いてる? 」
「ああ、ごめん。何の話だったっけ? 」
瑠衣は少しムッとしたように眉をひそめた。その姿は瑠衣そのもの。まさか別人だなんて信じられない。そんな顔をしていてもなおかわいいなんて僕の瑠衣だけの特権だからだ。
「だからね、千秋に会ったとき、コーヒーかけちゃったじゃない。そのとき、自分のシャツより先に私の心配をしてくれたでしょ。すごく嬉しかったのを今でも覚えてる」
そうだったのか……って、何でそんなことを知っているんだ? やっぱりこの女性は瑠衣なのか、それとも別人なのか? 一度持ち上がった疑惑はそう簡単には晴れることはない。
「……そうだったっけ。
もう2年も前のことなのにそんなことよく覚えていられるね」
僕は疑うようにして瑠衣……ではないかもしれない女性を見た。
「そんなこと、か。たしかに千秋にとってはそうかもしれない。でもね、私にとってはすごく思い出深い出来事だった。やっぱり千秋もすぐ忘れてしまうんだね。私はずっと忘れられずに覚えているのに」
瑠衣は悲しそうな表情をしている。こんな顔をした彼女を見たことがない。やっぱり君は瑠衣なのだろうか。それとも別人なのだろうか。今の僕にはわからない。君のことがわからない。こんなこと、初めてだ……