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【11】君を忘れない




「瑠衣」


 僕が呼ぶと君はすぐに振り返って


「なあに?」


と、優しく尋ねる。そのときの振り向きざまにほのかに香るシャンプーの甘い匂い。柔らかな口調。すぐにでも抱きしめたくなるような愛くるしい表情。いつでもどこでも鮮明に思い出すことができる。瑠衣のかわいい桜色の唇から時々こぼれだす愛の言葉がどれほど僕の心をかき乱したことか。そしてどれほど甘く切ない想いでいっぱいにしたことか。瑠衣の声はどんなときでも穏やかで、心地よく僕の耳に響く。内容がどんなにくだらなくてつまらないものでも僕を優しく包み込むような安心感を与えてくれた。僕らが過ごした甘美で今となっては切ない思い出たちが僕の決心を揺らがせる。離れたくない。瑠衣とずっと一緒にいたい。もっと話したい。瑠衣のことをもっと知りたい。僕を、置いていかないで……



 いやいや、こんなことではいけない。僕はこれからあと半世紀もの間、瑠衣のいない孤独に耐えなくてはいけないのだから。そもそも、今の生活のほうがおかしいのだ。幽霊の妻と同棲し続けるだなんて。異常なのはわかっていた。わかっていても瑠衣との生活は楽しくて快適で充実していて、何より幸せすぎた。瑠衣がいない生活なんてもう考えられない。もうあんな無気力で味気ない生活なんてまっぴらだ。でも、僕はもう決めたのだ。……瑠衣を手放すと。これが正常なのだから。今までがおかしかったのだ。そういくら自分に言い聞かせてもまだ瑠衣と一緒にいたいといい願望が僕の思考にちらついて離れない。でも瑠衣を天国に送り出すと決心したのだ。その決意は固い。……すでに後悔しつつあるけども。




「瑠衣、ちょっとこっち来て」


僕が座っているソファーに瑠衣を誘う。瑠衣は僕の隣に腰を下ろす。そのとき、瑠衣からふわりと何か甘ったるい匂いがした。瑠衣からはいつも甘い匂いがする。それはシャンプーの人工的な匂いだったり、寝る前に塗っている保湿用のハンドクリームの匂いだったり、それらとは別の瑠衣特有の匂いだったりする。その匂いを感じるたびに僕はすごく安心する。これからはもうこの匂いを感じることができないのかと思うと寂しくてたまらない。名残惜しくて瑠衣の背中に顔をうずめた。やわらかくて、温かくて、いい匂い。涙が出てきそうになるのを歯を喰いしばって我慢する。まだ目頭が熱くて泣きそうだ。


「……瑠衣、写真撮ろっか? 」


僕は瑠衣の背中に顔をうずめたまま言う。その体勢のままでも瑠衣が驚いているのがわかる。


「もしかして……忘れてる? 私、いちおう幽霊よ。鏡にも窓ガラスにも映らない。もちろん、カメラにも」


声の調子でもうろたえて困惑しているのがわかる。


「覚えてるよ。忘れるわけないじゃないか。それでも構わないから撮ろう」


瑠衣は僕の言葉にうつむく。


「嫌。私、千秋の重荷になりたくない」


……瑠衣? 瑠衣がそんなにもはっきりと僕の提案を拒絶するなんて初めてのことだ。瑠衣は先を続ける。


「最初は千秋に私のこと、覚えていてほしかった。猫としてでもいいから『瑠衣』っていう千秋のことを誰より愛してる存在がいるってことを覚えていてほしかった。でも今は、覚えていてほしくない。悪い記憶としてでも、いい思い出としてでも千秋の頭の中に残りたくない。千秋はこれから、たくさんの私の知らない人と出会う。すごく愛しくてたまらない人と出会うかもしれない。そのときに私の存在が邪魔をして千秋の選択を迷わせるなんて嫌よ。絶対に嫌。私がいた証拠を少しでも残したくない。お願いだから、そんなこと言わないで」


瑠衣は僕のほうに向き直って懇願する。


「瑠衣、僕は君のことを忘れるつもりはないよ。というか、忘れろって言われても絶対に忘れない。瑠衣をずっと覚えていたい。それに瑠衣以上に大切な人になんて出会えるわけがない。確かに瑠衣は僕のことを考えて幽霊になっても会いに来てくれたんだって写真を見て確認したいんだ。もしかすると僕は残念なことに忘れっぽいから幽霊の瑠衣との思い出を僕の都合のいい妄想だったと思うかもしれない。でもそのときに写真を見たら思い出せるからね」


瑠衣は僕の頼みをきいてもしばらく渋っていたけれど最後には諦めたのか折れてくれた。瑠衣は僕をを見て苦笑する。自分の意見を曲げない僕に呆れているのか、それとも僕の信念を貫き通す姿に惚れ直した照れ笑いなのか。……おそらく、いや絶対前者だろう。




 僕から写真を撮ると言い出したけれど、実は僕はカメラをもっていない。趣味じゃないからというのもあるけれど、僕は写真うつりがとてつもなく悪い。結婚式のときの写真も締まりのないにやけた口元か半開きのまぶたのオンパレードだ。このことで瑠衣にいやというほど笑われた。親戚の子供のほうがよっぽどきりっとしている。このときはさすがの僕もへこんだものだ。とりあえずインスタントのカメラを発見したのでそれで撮影することにする。インスタントカメラは撮った写真の確認ができないのが残念だけれど仕方ないと諦めることにする。



「本当に写らないわよ? 忠告はしたからね。まったくもう、頑固なんだから」


瑠衣は往生際が悪い。直前になってもまだそんなことを言っている。


「いくよ? はい、チーズ」


僕はカメラのシャッターを切る。


「あっ、ちょっと待って。目つぶっちゃった」


瑠衣が顔を赤らめて言う。目をつぶったって幽霊だから写らないと自分で言っていたのに。些細なことでも気を遣うのが乙女心なのだろう。


「じゃあもう1回撮るよ。はい、チーズ」


シャッターを切る僕に瑠衣は言う。


「ちょっと待って。今、カメラ揺れなかった? 」


瑠衣はやるからにはとことんこだわるタイプなのだ。


「じゃあこれで最後ね。いくよ。はい、チーズ」


またシャッターを切る僕に瑠衣は言う。


「今、あくびこらえたから私の顔、絶対変になった。ね、千秋。もう1回だけお願い」


瑠衣にかわいくおねだりされて甘えられたら逆らえるわけがない。また僕はカメラのシャッターを切る。


「あっ、また……」


瑠衣におねだりされるままに写真を撮っていたらあっというまにフィルムを使いはたしてしまった。でもきっとこの写真が瑠衣がいない寂しさをまぎらわせてくれるだろう。僕はこだわりが強くて愛おしいおねだり上手な妻を抱きしめた。 






 君と離れることになっても僕は絶対に瑠衣を忘れないよ。君をずっと愛し続ける。だって君は僕の大切でかわいい宝物なんだから。






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