宮田くん家の猫
ミケに出会ったのは僕が小学校1年の時。場所は河川敷の公園だった。僕は宮田くんとキャッチボールをしていて、ミケの存在には気づかなかった。僕らは無邪気にキャッチボールをしていたが、僕の投げたボールが大きく逸れてしまい、草むらの中に入りこんでしまった。
「ごめーん」
「いいよー」
僕と宮田くんは草むらの中に入ってボールを捜した。ボールは見つからなかった。だがダンボールを発見した。それがミケとの出会いだった。
「宮田くん、これ、猫が入ってるよ」
僕は中を見つめて顔をしかめた。子猫が5匹入っていたが、ほとんどが死んでいた。ただ一匹だけ、三毛猫の子猫が力なく「ミャオ」と鳴いていた。
「こいつだけ生きてるね」
宮田くんはミケを抱き上げた。まだほんの小さい子猫だ。かろうじて目が開いているが、目やにがびっしりついている。
「元気ないね」
僕はミケを覗きこんで言った。ミケは力なく鳴いていて、今にも死んでしまいそうに見えた。
「お医者さんのところに持っていこうよ」
「そうだね」
僕と宮田くんは野球帽の中にミケを入れて、急いで近くの動物病院まで走った。動物病院の先生はミケを掃除したり、何かミルクを飲ませて注射したりしていた。先生は治療を終えると僕らに尋ねた。
「この猫は君たちの家の猫かい?」
僕らは揃って首を振った。
「川に捨てられてました」
「そうか……君たちが飼うのかな?」
僕の家はマンションだ。猫を飼うことはできない。でも宮田くんの家は一軒屋で猫を飼うことはできる。宮田くんは何かを考えるように黙った後、お医者さんに告げた。
「家で飼います。お父さんとお母さんを説得してみます」
僕らはミケを連れて宮田くんの家を目指した。ミケは少し元気になっていたが、まだ走り出せそうになかった。野球帽にミケを入れて僕たちは走った。宮田くんは家に着くとミケを取り出し両親に懇願した。
「お父さん、お母さん、猫飼ってもいい?」
宮田くんの両親はあまり良い顔をしなかった。僕らは必死に頼みこんで絶対世話するから、という条件で飼ってもらうことを許された。
「よかったなぁ」
宮田くんは自分の部屋にミケを連れていった。ミケは歩くのも辛そうでしゃがみこんだまま動かない。僕はミケを撫でながら宮田くんに言った。
「名前を決めないとね」
「うん。僕、ミケ、って名前がいい。僕と毛利くんが見つけたし、それにこいつ三毛猫だし」
僕の名前は毛利という名前だ。僕はすぐ頷いた。
「可愛い名前だね。いいんじゃないかな」
「だよね、えへへ、ミケずっと一緒な。ずっと家で暮らそうな」
ミケはそうして名前がつけられ、宮田くんの家の猫になった。
「ねぇ、せっかくだから写真を撮ろうよ。今日がミケの誕生日だ」
「そうだね。お父さんにカメラ借りてくる」
僕と宮田くんとミケは一緒に写真を取った。5月4日、それがミケの誕生日になった。僕は時々宮田くんの家に遊びに行ってはミケと遊んだ。
ミケは段々元気になってきたが、1年もするうちに体が小刻みに震えるようになった。そしてある時、横向きに倒れると、ピクピクと痙攣し始めて体はカチコチに固まってしまった。宮田くんは急いで動物病院に連れて行ったらしい。そしてショックなことを言われたそうだ。
「脳に異常があって、体を動かすことがもうできない。猫として生活するのはもう無理だ。体はもう一生動かない。安楽死させてあげたほうがいい」
宮田くんはそう言われたらしい。僕はその話を宮田くんの部屋で聞いた。ミケは座布団の上で寝かせられ、タオルを欠けられて体を硬直させてピクピクと痙攣していた。
「ど、どうするの、殺しちゃうの」
宮田くんは泣きながら首を振った。
「殺すのは嫌だ。だってまだ、ミケ生きてるもん。ミケと約束した。ずっと一緒だって約束した」
僕はミケを見つめて撫でてやった。口は半開きで目もうつろで体も動かない。
「もうミケは動けないの? 手術とかで治らないの?」
宮田くんは泣きながら頷いた。
「もう治らないって。あと1年も生きられないし、楽に殺してあげたほうがミケのためだって言われた」
僕も涙が溢れそうになった。まだミケは生きてるのに。殺しちゃうなんて可哀相だ。でもミケは走ることも自分で動くこともできない。食事も排泄も自分でできない。医者の言うことも正しいのだろう。
後から聞いた話だが、宮田くんの両親もミケを安楽死させてあげるべきだ、と宮田くんを説得したらしい。世話も大変だし、別の猫を飼いたければ飼えばいい、と言ったそうだ。だが宮田くんは首を縦に振らなかった。宮田くんはミケと約束したから、お願いだから殺さないで、って泣いて頼んだらしい。
僕は宮田くんの家に遊びに行き、よくミケを撫でてやった。ミケはゴロゴロ喉を鳴らすこともできないし、撫でても何の反応もないので、喜んでいるかどうかもわからない。宮田くんはなるべくミケが過ごし易く、人目につく場所にミケを置き、ミケが排泄するたびにミケの下に引かれたシートを交換して、丁寧に体を拭いてやった。
「猫ってさ、綺麗好きって言うでしょ。きっとミケも綺麗なほうが嬉しいと思うんだ」
宮田くんはよく丁寧にミケを抱き上げ、綺麗に拭いてあげていた。ミケは動くことができないから、すぐ埃が積もってしまう。宮田くんは小まめに拭いてはブラッシングしていた。
「ご飯はどうしてるの?」
宮田くんは自慢気に大きなスポイトを取り出した。
「これを切って改造したんだ。固形物は噛めないから、砕いた飲み込み易いものを上げてるんだ。奥まで入れれば飲んでくれるんだよ」
そう言って宮田くんは実際にご飯を食べさせた。ミケは吐き出すこともあったが、喉の奥にものが入るとごくんと飲みこんだ。
「哺乳瓶も買ってもらったんだ。お水もミルクもこれで飲んでくれるんだよ」
宮田くんは嬉しそうにミケの世話をしていたが、僕はなんだか切なくてたまらなかった。ミケはピクピク痙攣することしかできないし、あと1年ぐらいしか生きられない。とても可哀相で宮田くんもミケのことも見てられなかった。
「やっぱり、安楽死させてあげたら?」
僕は何度かそう言ったが、宮田くんは頑固に首を横に振った。
「ミケ生きてる。それにミケと約束したから。ずっと一緒だって、なぁミケ」
宮田くんはそう言ってミケを撫でてあげた。ミケはピクピク痙攣するだけだった。
やがて1年がたって、僕も宮田くんも小学2年生になり、ミケは1歳になった。5月4日のミケの誕生日の日。僕と宮田くんは一緒に写真をとった。ミケはあまり大きくならず、やっぱり動けないままだった。それでも宮田くんは嬉しそうに言った。
「きっとあの先生ヤブなんだよ。ミケ、1歳になった記念だから、今日はちょっと高いご飯だよ」
宮田くんは誕生日記念のご飯をスポイトであげていた。それから数ヵ月後、宮田くんは転校することになった。
「なんだかお父さんの転勤で遠くに行くんだって。今度はマンションらしいよ」
僕は宮田くんと別れることも寂しかったし、ミケのことも気になった。
「ミケはどうするの?」
「もちろん連れてくよ」
「マンションだけど大丈夫なの?」
「ミケは鳴かないし、動けないから平気だって」
そうして宮田くんたちは転校していくことになった。宮田くんが引越す日に僕は見送りにいった。そして、きっとこれがミケに会える最後の時だと思った。
「ミケ、元気でね」
ミケはピクピク痙攣しているだけで、何の反応も示さなかった。でも宮田くんが嬉しそうに言った。
「あはは、ミケ喜んでるよ」
「そうなの?」
「うん。ちょっとこのヒゲが震える時は、嬉しいって合図なんだ」
ミケはダンボールに入って、宮田くんの膝の上に乗って、遠くに行ってしまった。宮田くん、ミケ、さようなら。元気でね。僕は泣きながら宮田くんたちを見送った。
それから宮田くんから年賀状が来ることもあったが、ミケのことは特に書かれていなかった。僕もミケは元気? って何度も書こうと思ったが書けなかった。ミケは長生きできないのだ。もう死んでしまってるかもしれない。僕はミケが死んでいることを確かめるのが怖かった。そしてやがてミケのことは記憶の彼方に消え去った。
中学2年生の時、宮田くんが転校して戻ってきた。宮田くんはすっかり背が伸びており、子供の頃の面影は少ししか残ってない。同じ中学で同じクラスになり、僕は宮田くんと仲良く遊んだ。宮田くんの性格は昔のままで、僕らはすぐに親友に戻った。
ある日宮田くんの家に遊びに行くことになった。小さい頃はよく遊びに行っていた家だ。家に入ると懐かしい気持ちになった。宮田くんのお父さんとお母さんも大きくなった僕を歓迎してくれた。そして宮田くんは自分の部屋に案内しながら僕に尋ねた。
「ミケに会えるよ。覚えてる? 一緒に拾った猫」
僕は驚いて宮田くんを見つめた。ミケのことは完全に忘れていた。とっくの昔に死んでしまったと思っていた。
「ミケ、まだ生きてるの?」
「ああ、もちろんさ」
宮田くんが部屋に上がると、窓際にミケの姿があった。僕は一瞬涙が出そうになった。ミケはあの頃のままだった。窓際のシートの上でピクピク体を震わせて横になって動けないままだった。
「ミケ、ただいま」
宮田くんは布巾でミケを拭いてやり、ミケに優しく囁きかけた。
「ミケ覚えてるかい、毛利くんだよ。ミケを拾ってくれた人だよ」
僕はミケを見つめた。少し体が大きくなっているように感じる。でもミケは相変わらずうつろな瞳のままで、体をピクピク痙攣させるだけだった。
「ミケ、ちょっと大きくなったね」
僕は撫でてやりながらミケを見つめた。まだ生きてたんだ。僕はそのことが驚きだった。世話がすごく大変なのに。宮田くんはこの6年間、ずっとミケを世話し続けたんだ。
「ねぇ、見てよ。ミケの写真もあるんだ。誕生日ごとに毎年撮ったし、行事の時には必ずミケも一緒に撮ったんだ」
宮田くんは「ミケ」と書かれたアルバムを取り出した。そこには小さい頃の宮田くんと宮田くんの家族、そして中央にはミケの姿があった。宮田くんたちは大きくなったり、色々な服装だけど、ミケは何も変わらない。ピンと手足を伸ばして固まって寝転がったままだ。
「これが誕生日でしょ。これがクリスマス、正月の写真もあるんだ」
宮田くんたちの家族の真ん中には必ずミケがいた。家族の一員としてかけがえのない存在のように、ミケはそこにいた。毎年の誕生日や、全ての行事の中にミケはいた。
「ミケだ……ミケ、よかった……よかったね……」
僕は写真を見ながら泣き出してしまった。きっとミケは宮田くんに拾われるためにあそこにいたんだ。猫にとって、そしてミケにとって、何が幸せなのか僕ら人間にはわからない。でもこの写真の中の家族の一員として映っているミケは、なんだか幸せそうに見えた。そんな気がした。
「なんだよ、何泣いてんだよ。あはは。おかしなやつだな」
「うん、あはは……そうだね」
僕はミケを見つめた。ミケはピクピク震えながらヒゲを動かしていた。僕はそっとその体を撫でてやった。
(おしまい)
ご拝読いただきありがとうございます。
何かひとつでも心に残るものがあれば幸いです。