チンポの人 :約4500文字
とある夜。仕事を終えた一人の男が帰り道をとぼとぼと歩いていた。
全身に一日の疲労が滲み、肩はずんと落ちている。ネクタイはだらしなく首にぶら下がり、ワイシャツの襟元にもくたびれたような皺が寄っていた。顔はうつむき気味で、時おり小さなため息をこぼしながら、男は街灯の白っぽい光が途切れ途切れに落ちる道路を進んでいた。
もう夜も更けていた。辺りの住宅はすっかり寝静まり、明かりの消えた窓が暗闇に並んでいる。昼間は車や自転車が行き交う道路も、今は人影もまったくない。どこかの庭から虫の鳴き声がかすかに耳に届き、その音がかえって夜の静けさを際立たせていた。
しかし、ふいに背後からばたばたと、この静寂には不釣り合いな足音が響いた。
何事かと思い、男がちらりと後ろを振り返った、その瞬間だった。
「あのー」
「え、はい……」
男はぴたりと足を止めた。背後から眼鏡をかけた男が、少し腰をかがめて声をかけてきたのだ。男と同じくワイシャツにスラックス姿で、いかにも会社帰りといった風貌だった。急いで走ってきたらしく息は少し上がっていたが、苦しそうな様子はなく、むしろその顔には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
知り合いでもなければ話しかけられる理由も思い当たらず、男はわずかに身構えた。
「チンポ、の人ですよね……?」
「……はい?」
聞き間違い――それ以外に考えられない――と思い、男は思わず耳を近づけた。
しかし、眼鏡の男は手のひらでこちらを示しながら、もう一度はっきりと言った。
「いや、チンポの人ですよね?」
「いやー、あの、ちょっと意味がよく……」
男は苦笑しながら小首をかしげた。
「いや、チンポの人でしょう! 毎週火曜日に、うちの前の道路でチンポを出しているじゃないですか!」
「えっ」
「ほら、あのー、えーっと、植え込みがバラの木の家の隣ですよ。ほら、赤と黄色を混ぜたような色のバラが咲いているところです」
「……あー、オレンジの!」
「そうそう! 怪我をして何日か経ったあとに出てくる体液みたいな薄いオレンジ色の!」
「おー! ……いや、でも、あの、その」
男は頷きかけたが、すぐに言葉を詰まらせた。
「毎回、防犯カメラに映っているんですよ」
「えっ、カメラ……」
男は思わず目を見開いた。
「でも、ないと思ったんだけどな……いや、その……」
「ああ、わかりにくい場所に設置してますからね。でも、ばっちり映ってますよ」
眼鏡の男はにやりと笑い、男の肩に手を置いて軽く揺すった。
「それはその……すみませんでした!」
男は勢いよく頭を下げた。
終わりだ。もうすべて終わりだ。逮捕、報道、会社はクビ。家族や友人にも知られる。そんな不穏な言葉が頭の中を目まぐるしく駆け巡り、膝が小刻みに震え始めた。もはや誤魔化すという選択肢は浮かびようもなかった。
「その……決して露出魔とか、そういうつもりではなくてですね。必ず誰も見ていないときを見計らって、ほんの少し……ほんの少しだけ出していたんです……。ちょうどあそこは一本道で見通しもよくて、曲がり角から急に人が出てくるようなこともなく、安全だろうと思い……。近くの家の窓もちゃんと確認してから……」
男は頭を下げたまま途切れ途切れに言った。
何か言わなければならない。けれども何も思いつかず、気づけば説明めいた言葉を口にしていた。ただ、正直に話すことをどこか楽に感じていた。
「たぶん、仕事のストレスなんでしょうね……。ちょっと事情があって最近こちらに引っ越してきたばかりで、どうにも新しい環境に慣れなくて……。なんというか、人間という器からはみ出してみたいな、なんて……そんな気持ちに駆られてしまい……その……」
男はおそるおそる顔を上げ、眼鏡の男の様子を窺った。
すると、眼鏡の男はなぜか不思議そうに小首をかしげていた。だが、やがて何かに気づいたように「あっ」と声を上げた。
「ああ、全然いいんですよ!」
「え、全然いい……?」
「はい。毎週楽しみにしているんですから!」
「は!?」
「もう月曜日になるとわくわくしちゃって。妻にも『明日はチンポの人の日だな』なんて話して、二人で笑っているんですよ」
「奥さんにも見せているんですか!?」
「ええ、もちろんですよ。息子も難しい年頃なのかなあ。少し前までは会話もめっきり減っていたんですけど、最近は『お父さん、昨日のチンポの人見た?』なんて向こうから話しかけてくるようになって、おかげさまで、親子のいい会話のきっかけになっているんですよ」
「息子さんにも!?」
「もちろんですよお! いやー、まさかあのチンポの人にこうして生で会えるなんて感激だなあ」
眼鏡の男はそう言うと、男の足元から額まで舐めるように視線を往復させた。「ほー」と感嘆めいた吐息まで漏らしている。とても演技には見えなかった。
「いや……あの、どうしてですか?」
男は困惑しながら訊ねた。
「え? ああ、もちろん、最初はぎょっとしましたよ。この人、うちの前でいったい何やってんだって。ええ、腹も立ちました」
「あ、ああ、そうですよね。すみません……」
「でも、だんだん楽しみになってきましてね」
「いや、なんでですか」
「妻なんて最初は『人間のクズ』なんて言っていたんですけど、僕が熱心に魅力を語っているうちに、もうすっかりファンになりましてねえ」
「だからなんでですか」
「カメラも思い切って高いやつに買い替えたんですよ。夜間でもばっちりチンポが映るように」
「だから、なんで!?」
男はよろめくように一歩後ずさり、額を押さえた。話がまったく理解できない。さっきまでは警察に捕まることへの恐怖で頭がいっぱいだったが、今はそれとはまったく別種の言いようのない畏怖が、身体の内側からじわじわと広がっていた。
「ふふふふふ……いやあ、見てるとかわいいんですよねえ」
「ただのおじさんですよ、こっちは」
「周りをきょろきょろ見て、『誰もいないかな?』『本当にいないかな?』『いないな……やっぱり、もう一回見とこっ』って確認の動きをするじゃないですか! あれがいいんですよねえ、くうぅ」
「してますかね……まあ、してるかも……」
「それからほら、ベルトを外すときに、『あー、ちょっと食べすぎちゃったなあ』みたいな素振りを見せるじゃないですか。あれ、妻のお気に入りなんですよ」
「なんか恥ずかしいな……」
「ズボンと下着を同時に下ろすところなんか、もう最高! あの手際の良さといったら! 息子なんか毎回大興奮ですよ」
「ちょっと楽しみ方がわからないな……」
「いやあ、すごいなあ。生のチンポの人だあ。生チンポ」
「生チンポはやめましょう」
「動きも初期の頃と比べてだいぶ洗練されてますよね。やっぱり自宅で練習とかしているんですか?」
「するわけないでしょ。なんですか、チンポを出す練習って」
「おおー! 解釈どおり!」
「それは知りませんけど、夜ですから静かにしてくださいよ……。近所の人が起きちゃいますよ……」
「え、ま、まさか、こ、ここでも?」
「出しませんよ。出すわけないでしょ」
「ええー。いや、でもよかったー! やっぱりそうでなくちゃ!」
「どういう感情なんですか」
「そういうわけなんで、一緒に写真いいですか?」
「いや、駄目ですよ!」
眼鏡の男がうれしそうにスマートフォンを取り出し、肩を組んできたので、男は慌ててその腕を振り払った。
「えー、写真NGですか?」
「ええ、まあ……すみませんけど、それだけは勘弁してください……」
「じゃあ、チンポだけでも……」
「もっと駄目でしょ」
「えー、それも駄目なんですか。本当はちょっと出しているところを一緒に撮りたかったのに」
「絶対に駄目ですよ……。ただの証拠写真じゃないですか」
「じゃあ、せめてサインだけでもいいですか? 家族が喜ぶんで。『チンポさんファミリーへ』で、お願いします」
「私の家族みたいになっているじゃないですか」
「よし、それじゃあ、このまま一緒にうちまで来てください」
「絶対、行きませんよ」
「えー、なんでですか。せっかくだから生で見せてくださいよお。妻と息子も叩き起こしますから」
「だからですよ」
「お願いしますよお、ね? ね? ほんの少しだけでいいですから。あ、やっぱり出すなら路上がいいですか? いいですねえ!」
「だから、嫌に決まってるでしょ! もういい加減にしてくださいよ!」
男は思わず声を張り上げた。
「あなたね、さっきからいったいなんなんですか……! 確かに、お宅の前であんなことをしたのは申し訳なく思っています。でもね、こっちは見世物じゃないんですよ! ストレスが溜まって、どうにか解消できないか、何か方法はないか。酒やタバコみたいに身体を壊すものじゃなくて、もっと他に何かないか。そうやって、ずっと悩んでいたんです。職場に馴染めず、家に帰っても他人の家にいるみたいで落ち着かなくて、頭の中は明日の不安でいっぱいで……。そんなある日、無意識のうちにチンポを出していたんです。ええ、チンポと出会ってしまったんですよ!」
男は一気に言い切ると、大きく息を吐いた。明らかに自分が悪いのに、なぜこちらが怒る立場になっているのか自分でもよくわからなかったが、気づけば言葉が口をついて出てしまっていた。
眼鏡の男は何も言わず、ただ無表情でうつむいていた。
先ほどまで浮かべていた笑みも消え、眼鏡のレンズだけが近くの街灯の明かりを受けて、かすかに白く光っていた。
言い過ぎたか――男はそう思った。おかげで幾分か気分は落ち着いたものの、今度は不安が込み上げてきた。相手はどう考えても普通ではないが、そもそもの原因を作ったのはこちらであり、正当な被害者でもある。逆上されて――あるいは正気に戻り――警察に通報されるのではないか。男はそう考え、おそるおそる眼鏡の男の顔を覗き込もうとした。
「……でも、チンポおじさんじゃないですかあ!」
ところが次の瞬間、眼鏡の男はぱっと顔を上げ、満面の笑みを浮かべてそう言った。
「妻なんて、あなたに憧れてペニバンまで買いましたからね」
「は!?」
「時々、着けて出しに行っているらしいですよお。あなたの真似をして。ふふふふふ。息子もね、将来は立派なちんぽになりたいって、よく言っているんですよ」
「いや、往来で何を言っているんですか」
「でも、往来でチンポを出しているじゃないですか」
「いや、ですからそれは――」
男が反論しかけた、そのときだった。
前方から自転車のライトがこちらに近づいてくるのが見えた。
男は慌てて口をつぐみ、反射的に眼鏡の男の腕を引いて道の端へ身を寄せた。
自転車はそのまま二人の横を通り過ぎようとした。
「あ、乳首いじり男だ」「あ、半ケツサイクリストさん」
自転車の男と眼鏡の男の声が、ほぼ同時に重なった。
「……いや、え?」
自転車は何事もなかったようにそのまま走り去っていった。男はしばらくその後ろ姿を目で追っていたが、やがてゆっくりと眼鏡の男へ向き直った。
「乳首いじり男……? 半ケツサイクリスト……?」
男が呆然と呟くと、眼鏡の男はやれやれといった調子で肩をすくめてみせた。




