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同一世界

「処分寸前」で買い取った仔馬が、帝国競馬の歴史を変えるまで

作者: 星村 流星
掲載日:2026/03/19

泥の臭いがした。


アルテミシア・フォン・クロヴィスは、馬房の扉を押し開けた瞬間、鼻孔をつく獣臭と腐葉土の湿気を一息で分類し、視線を走らせた。

荒れた厩舎。

手入れの行き届いていない蹄鉄。

調教師の手首に巻かれた古い包帯。


——没落しかけた牧場の典型だ、と彼女は手帳の余白に走り書いた。


婚約者のハインリッヒ・フォン・ゾネンベルク侯爵が所有するこの牧場を「定期視察」と称して訪れる義務を、アルテミシアはすでに三回こなしていた。

毎回、競走成績と骨格評価の不一致について口頭で指摘したが、記録を取る者はいなかった。

今回も同様だろうと思っていた。


しかし、馬房の奥で、状況は少し違った。


四本のロープで縛り上げられた鹿毛の仔馬が、泥の中で暴れていた。


「去勢の準備が整っておりまして」

厩務員が言った。

「気性が荒すぎて手に負えません。先週も調教師二名に怪我を」


アルテミシアは返事をしなかった。

代わりに、三秒かけた。


一秒目——全体のシルエット。

肩の高さと腰高の比率。

四肢の長さと体幹の太さ。

鹿毛の毛艶は粗いが、それは栄養管理の問題だ。

骨格そのものは、違う。

前肢のつなぎの角度が、記録に残るあの名馬——「ヴァルカン・ロード」の古い写真と酷似している。


二秒目——筋肉量の分布。

臀部から大腿にかけての筋肉の盛り上がり方が異常だ。

この月齢の仔馬にしては発達しすぎている。

推定筋繊維密度、成馬換算で上位一パーセント以内。


三秒目——目。

ロープを咬み切ろうとしながら、仔馬の目がアルテミシアを見た。

虹彩の色が薄い。

網膜に既に何かある——そう直感したが、それは後で計算する事項だ。

今この瞬間に優先すべき演算は一つだ。


彼女は手帳を開き、羽根ペンを走らせた。


*体高推定値・現時点(月齢換算補正済):157cm超。*

*成馬時推定163〜165cm。*

*肩甲骨傾斜角・推定52度。*

*後躯筋肉量偏差値・+2.8σ。*

*繋の弾性係数・最適域内。*

*交配価値:最大級。*

*処分コスト:ゼロ許容。*


「いくらですか」とアルテミシアは言った。


厩務員が目を丸くした。

「——は?」


「この仔馬の売却価格を聞いています。去勢するくらいなら値がつかないでしょう。では金貨十枚で買い取ります。今すぐ」


「お嬢様、この馬は問題馬で——」


「問題馬の定義を教えてください。人間の扱いが悪いことを指していますか、それとも馬自身に生理的欠陥がありますか」

アルテミシアは顔を上げずに続けた。

「骨格に欠陥はありません。気性は調教の問題です。そちらが処分するというなら、その前に私が引き取ります」


交渉は十二分で終わった。


ロープを解かれた仔馬は、それでも暴れた。

アルテミシアの外套の袖を咬もうとして失敗し、蹄で地面を叩いた。

彼女はその様子を手帳に記録した。


*攻撃性の発露は恐怖由来。*

*従属拒否ではなく防衛反応。*

*矯正可能。*


仔馬に「イグニス」という名前をつけたのは、馬車に乗り込んでからしばらく後のことだった。


「炎」を意味するその名は、感傷からではない。

毛色と気質の特徴をデータベースと照合した結果、識別符号として最も誤認が少ない文字列が、偶然その単語だったというだけのことだ。


   * * *


帝都から馬車で半日の距離にある自領の牧場に移送したイグニスを、アルテミシアはまず三ヶ月間、走らせなかった。


栄養管理の再設計。

蹄の矯正。

そして、調教師の選定。


彼女が起用したのは、帝都の競馬界では無名に近い老調教師——エルスト・フィンケルだった。

主流派からは「格がない」と言われるが、アルテミシアにとって格は計算式に入らない変数だ。

フィンケルの過去十年間の調教成績を分析した結果、気性難の馬を矯正した成功率が帝国内で最も高かった。

それが採用理由の全てだ。


フィンケルはイグニスを見て、一言だけ言った。

「この馬、目が悪くなりますよ」


「わかっています」とアルテミシアは答えた。

「だからこそ、今のうちに走らせます」


デビューは翌年の春。


イグニスは初戦を、二番手以下に十馬身差をつけて勝った。

タイムは従来のコースレコードより〇・四秒速かった。

アルテミシアは手帳にその数値を記録し、次のページには既に次走の斤量と距離の計算が記されていた。


三戦、五戦、七戦——イグニスは勝ち続けた。


帝都の社交界が騒ぎ始めたのは五戦目の後だった。

しかし婚約者のハインリッヒと、彼を取り巻く主流派の貴族たちは、冷笑を崩さなかった。


「血統書を見たことがあるか? ヴァルカン・ロードの直系でもなく、インペリアル・クラウンの傍系でもない。箔がなさすぎる」

ハインリッヒは晩餐会でアルテミシアの隣に言った。

「アルテミシア、君も少々熱が入りすぎているのでは?」


「熱は入っていません」と彼女は言った。

「計算しているだけです」


主流派が用意した答えが、「シルヴァーランス」だった。


帝国最高の血統を持つ黒鹿毛の牡馬。

父は現役リーディングサイアー、母系にはインペリアル・クラウンを三本持つ。

六戦全勝、うち三戦でレコード更新。

帝都の新聞は「完璧な帝王馬」と書いた。


対決の舞台は帝国クラシック最終戦、「皇帝杯」。

距離二四〇〇メートル。

斤量はイグニスに三キログラムの加増が課された。


アルテミシアはスタンドの最上段に座り、手帳に最終計算を記した。


*イグニス対シルヴァーランス。*

*距離適性:イグニス優位(スタミナ偏差値比較)。*

*斤量影響値:三キロ増=タイム換算+〇・一八秒。*

*シルヴァーランスの過去最速タイムとの差:〇・七二秒。*

*理論値では〇・五四秒の優位性が残る。*

*ただし視力低下による集中力散逸リスクは不確定数として残留。*


スタートから、イグニスは後方に控えた。


四コーナーを回った瞬間——主流派の観客が総立ちになった。

シルヴァーランスが先頭で直線に入り、先行していたからだ。


しかし。


残り三〇〇メートル。

イグニスの脚が、切り替わった。


アルテミシアは双眼鏡を使わなかった。

肉眼で十分だった。


鹿毛の体が、まるで別の生き物に変わるように加速した。

内側の筋肉が弾けるように伸びる、あの推進力——それは彼女が三秒で見抜いた「偏差値+2.8σの後躯」が、ついに本領を発揮した瞬間だった。


最終タイム:従来の世界最高記録より〇・九三秒更新。

シルヴァーランスとの着差は七馬身。


アルテミシアは手帳に数値を記録し、ページを閉じた。

演算は終わった。


   * * *


それから八ヶ月後。


イグニスの両目は、光を失いつつあった。


「網膜変性症の一種です」と獣医は言った。

「進行を止める手段はありません。遅くとも来年の春には、ほぼ全盲になるかと」


アルテミシアは診断書を受け取り、所定の項目を手帳に転記した。

確認事項は二つだった。


*①痛みを伴うか。*

*②繁殖能力への影響はあるか。*


答えはどちらも「否」だった。


知らせはすぐに広まった。


ハインリッヒが正式な書簡を送ってきたのは、診断から二週間後のことだ。

文面は長かったが、要旨は二点に集約された。


*婚約の解消。*

*およびイグニスの処分の要求。*


「盲目の遺伝子を名門の血統図に持ち込む気か」と書かれていた。

「帝国競馬の未来のために、貴女が適切な判断をされることを望む」


アルテミシアは書簡を読み終えると、それを書類棚の「対応済」フォルダに収めた。

翌朝、彼女は婚約解消の承諾書に署名し、使者に渡した。


所要時間は四分。

そのうち三分は、文書の書式が規定に合致しているかどうかを確認する作業に使われた。


彼女の手帳には、すでに二年前から、ある計算が記されていた。


*イグニスの競走記録(世界最高値)が遺伝する確率:父系遺伝力係数〇・六三。*

*スタミナ指数の遺伝率:推定〇・五〇〜〇・五八(同系配合一次補正済)。*

*視力障害の遺伝的独立性:網膜変性症は単一遺伝子疾患である証拠なし——すなわち、血統価値とは無相関の可能性が高い。*

*結論:種牡馬としての繁殖価値は競走実績に比例して最大級。*

*引退後は自牧場にて繁殖供用。*


盲目は欠陥ではなく、ただの付帯条件だ。

計算式には何ら支障がない。


イグニスが自領の牧場に移送された日、アルテミシアは厩舎の扉の前に立った。

視力をほぼ失ったイグニスは、音と気配だけで彼女の接近を察知し、耳を動かした。

暴れなかった。

ただ、鼻を寄せてきた。


アルテミシアは手帳を持ったまま、もう一方の手でその鼻梁に触れた。


一秒だけ、そうした。


それで十分だった。


   * * *


最初の産駒が走ったのは、イグニスが種牡馬入りして三年後のことだった。


「イグニスの仔」という事実だけで、帝都の競馬界は冷笑した。

「盲目の馬の産駒など」と。


しかし初年度産駒の一頭が春のクラシックを勝ち、翌年には別の産駒が秋の大典賞でレコードを更新したとき、笑い声は徐々に止まった。


アルテミシアは配合の設計を一頭一頭、手帳の別冊に記録していた。

どの繁殖牝馬のどの能力を補完するために、イグニスのどの遺伝素因を引き出すか——それは感性ではなく、累積データの関数だった。


帝国クラシック三冠を初めて独占したのは、イグニス産駒の黄金世代と呼ばれる四年目の産駒たちだった。


そのとき、かつてイグニスを「血統に箔がない」と嘲笑した者たちに何が起きたか。


ハインリッヒ・フォン・ゾネンベルクは、シルヴァーランスの後継馬への過剰投資が裏目に出て、牧場経営に行き詰まった。

シルヴァーランス産駒は確かに優秀だったが、距離適性の幅が狭く、中長距離への対応力においてイグニス産駒と比較にならなかった。

銀行からの融資が止まり、牧場は五年後に競売にかけられた。


アルテミシアはその競売に参加しなかった。

興味がなかったからではない——購入する必要がなかったからだ。

彼女の牧場は既に帝国最大の繁殖牧場として機能しており、追加の土地は計算上、過剰な拡大になる。


イグニスは盲目のまま、牧場の一角に設えられた特別な放牧地で暮らした。

視力を失った彼は、それでも他の馬が近づくと首を上げて威厳を保った。

産駒たちが遠征から帰牧するたびに、その蹄音を聞き分けるように耳を傾けた——少なくともアルテミシアにはそう見えた。

しかし彼女はそれを手帳に感想として記すことはなく、ただ「視覚代償による聴覚優位化、異常なし」と記録した。


通算十六回の首位種牡馬リーディングサイアー

これは記録だった。

帝国競馬史上、それ以前にも以後にも(少なくともその時代には)存在しない数値だった。


イグニスが死んだのは、種牡馬入りから二十三年後の晩秋のことだ。

アルテミシアは手帳に日付と時刻を記録し、その下に短く記した。


*演算、完了。*


彼の骨格標本は、翌年、帝都の王立馬産博物館に「奇跡の証明」として収蔵された。

肩甲骨の傾斜角五二度、後躯筋付着点の配置——それは教科書の挿絵となり、次世代の馬産家たちが「理想の骨格」と学ぶ標本になった。


アルテミシアは博物館の開幕式に招待されたが、出席しなかった。

既に次の計算書を書き始めていたからだ。


   * * *


時は流れる。


一〇〇年以上の歳月が積み重なり、帝国競馬の地図は塗り替えられていた。


イグニスの血は広まった——広まりすぎた。

その子は勝ち、孫は勝ち、曾孫もまた勝った。

代を重ねるたびに「イグニス系」は帝国クラシックを独占し、血統表の中心に彼の名が燦然と輝くことが当然の風景となった。

後世の馬産家たちはいつしか彼を神格化し、「聖者」と「炎の守護者」を掛け合わせた尊称で呼ぶようになった。


「セント・シメオン(公式名:ホーリーサイモン)」。


その名を血統表に見つけるだけで、投資家は財布を開いた。

セリ会場でその名が読み上げられれば、値は跳ね上がった。

理由は問われなかった。

問う必要がなかったからだ——一〇〇年以上の実績が、全ての問いを論駁していた。


しかし帝国競馬は、今、別の問題に直面していた。


セント・シメオン系が帝国クラシック出走馬全体の六十三パーセントを占めるに至り、血統学者たちは静かに警鐘を鳴らし始めた。

「血の閉塞」——高度な近親交配の累積により、遺伝的多様性が失われつつある。

免疫能の低下。

骨密度分布の偏り。

表現型の均一化。


偉大すぎた遺産が、今、帝国競馬の天井になろうとしていた。


そしてある春の朝、帝都のオークション会場の隅に、一人の若い令嬢が立っていた。


「ステラ・フォン・ヴァレンシア」。


彼女は黒いノートを手に持ち、出品馬の骨格を、三秒かけて見ていた。

隣には別の令嬢——「フローリア・エルヴァンシア」がいた。


「セント・シメオンの血を持たない馬を、わざわざ落札するの?」とフローリアが言った。

「みんな笑うわよ」


「笑う人間のデータは計算式に入れない」とステラは答えた。


「そういう貴女こそ、セント・シメオンの血には興味なさそうね」

フローリアが言った。

「ええ、お宝は誰も見ていない時にこそ価値があるのだもの」


彼女たちのノートには、既に計算が記されていた。


アルテミシアが一人の荒れた仔馬を「三秒で評価した」あの朝から、一〇〇年以上の時が経っていた。


帝国競馬の血統地図は、セント・シメオンという偉大な名の下に完成されたように見える。

しかしそれはまだ、完成ではなかった。


新しい計算書のページが、今、開かれようとしている。

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