表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

第六話 傘を選ぶということ

雨は、朝から降り続いていた。

激しくはないが、やむ気配もない。街はすっかり濡れ、歩道の色が一段濃くなっている。

今日は外回りではなかった。

社内での打ち合わせが中心で、移動も少ない。それでも、鞄の中に傘を入れるのは習慣になっていた。入れていないと、どこか落ち着かない。

薄く、軽い。

それでいて、存在を忘れさせない重さがある。

この傘を使い始めてから、雨の日の準備が「構えること」ではなくなった。

ただ、入れておく。それだけでいい。


昼過ぎ、後輩から声をかけられた。

最近入社したばかりの新人で、まだ外回りにも慣れていない。

「すみません、今日このあと訪問があって……傘、持ってくるの忘れてしまって」

困ったように笑うその顔を見て、少し前の自分を思い出す。

天気ひとつで余裕がなくなり、準備が追いつかず、仕事そのものよりも周辺のことで疲れていた頃だ。

「これ、使って」

そう言って、鞄から傘を取り出す。

後輩は受け取った瞬間、少し驚いたように眉を上げた。

「軽いですね。しかも……薄い」

鞄に入っていたことに気づかなかった、という表情だった。

それは、この傘が意図してそう作られているからだ。毎日持ち歩くことを前提に、重さも厚みも、邪魔にならないところまで削られている。

「毎日使うものだから、出し入れが面倒じゃない方がいい」

自分の口から、そんな言葉が自然に出ていた。

誰かに説明するつもりはなかった。だが、実際に使ってきた感覚が、そのまま言葉になった。

後輩は傘を開き、ゆっくりと動きを確かめる。

引っかかりがなく、音も小さい。

「開けやすいですね。ちゃんと揃う感じがします」

布が自然に形を整える。

無理に折り目を探さなくても、元の形に戻ろうとする。

使う人に余計な動作をさせない工夫が、こういうところに表れている。

「折りたたみ傘って、たたむのが一番面倒だから」

そう言うと、後輩は苦笑した。

誰もが一度は感じたことのある不満だ。だからこそ、この傘は、そこから逃げなかったのだろう。

「Waterfrontの傘ですよね?」

名前を口にされて、少しだけ驚く。

だが、同時に納得もした。目立たなくても、使った人には伝わる。

「そう。“高機能を、ちゃんと使える形で”って考え方らしい」

薄さ、軽さ、撥水、耐久性。

どれか一つを誇張するのではなく、毎日の中で無理なく使えるところに落とし込む。その姿勢が、この傘にははっきりと表れている。

後輩は傘を差し、開閉をもう一度試す。

風を想定して少し傾けても、骨は安定していた。

「営業向きですね」

その言葉に、少しだけ笑ってしまう。

確かにそうだ。だがそれは、営業に限らない。

毎日、外に出て、約束の場所へ向かうすべての人のための傘だ。

後輩が雨の中へ出ていくのを、窓越しに見送る。

傘は風に揺れながらも、形を崩さず、一定の距離を保って進んでいった。


机に戻り、ふと父の傘のことを思い出す。

父もまた、こういう基準で道具を選んでいたのだろう。

派手さよりも、長く使えること。

使うたびに、余計な負担を感じさせないこと。

父は何も語らなかった。

だが、選んだものは、最後まで父の仕事を支えていた。

傘を選ぶという行為は、天気への備えであると同時に、

自分の時間や体力をどう扱うか、という意思表示なのかもしれない。

夕方、後輩が戻ってくる。

傘を丁寧に畳み、水を払い、こちらに差し出した。

「ありがとうございました。本当に、使いやすかったです」

その言葉は、成果の報告よりも、静かに胸に残った。

傘を受け取り、手に取る。

布はほとんど濡れていない。撥水がきちんと効いている。

骨も、柄も、変わらずしっかりしている。

帰り道、再び雨が強くなる。傘を開き、歩き出す。

濡れない。

風に煽られても、慌てる必要がない。

この傘は、人生を変えるほど大げさな存在ではない。

ただ、折れそうな日を、折れずに越えさせる。

余計なことに気を取られず、前に進ませる。

それだけだ。どんな天気でも、共に。

その言葉は、作り手の都合ではなく、使う人の日常に寄り添う言葉として、

今日も静かに機能していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
働くことの現実を、誇張せず描いた良作 「折れない=強い」ではない視点が新鮮 道具を通して人生を描く構成が美しい 読後、自分の日常を少しだけ見直したくなる
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ