第六話 傘を選ぶということ
雨は、朝から降り続いていた。
激しくはないが、やむ気配もない。街はすっかり濡れ、歩道の色が一段濃くなっている。
今日は外回りではなかった。
社内での打ち合わせが中心で、移動も少ない。それでも、鞄の中に傘を入れるのは習慣になっていた。入れていないと、どこか落ち着かない。
薄く、軽い。
それでいて、存在を忘れさせない重さがある。
この傘を使い始めてから、雨の日の準備が「構えること」ではなくなった。
ただ、入れておく。それだけでいい。
昼過ぎ、後輩から声をかけられた。
最近入社したばかりの新人で、まだ外回りにも慣れていない。
「すみません、今日このあと訪問があって……傘、持ってくるの忘れてしまって」
困ったように笑うその顔を見て、少し前の自分を思い出す。
天気ひとつで余裕がなくなり、準備が追いつかず、仕事そのものよりも周辺のことで疲れていた頃だ。
「これ、使って」
そう言って、鞄から傘を取り出す。
後輩は受け取った瞬間、少し驚いたように眉を上げた。
「軽いですね。しかも……薄い」
鞄に入っていたことに気づかなかった、という表情だった。
それは、この傘が意図してそう作られているからだ。毎日持ち歩くことを前提に、重さも厚みも、邪魔にならないところまで削られている。
「毎日使うものだから、出し入れが面倒じゃない方がいい」
自分の口から、そんな言葉が自然に出ていた。
誰かに説明するつもりはなかった。だが、実際に使ってきた感覚が、そのまま言葉になった。
後輩は傘を開き、ゆっくりと動きを確かめる。
引っかかりがなく、音も小さい。
「開けやすいですね。ちゃんと揃う感じがします」
布が自然に形を整える。
無理に折り目を探さなくても、元の形に戻ろうとする。
使う人に余計な動作をさせない工夫が、こういうところに表れている。
「折りたたみ傘って、たたむのが一番面倒だから」
そう言うと、後輩は苦笑した。
誰もが一度は感じたことのある不満だ。だからこそ、この傘は、そこから逃げなかったのだろう。
「Waterfrontの傘ですよね?」
名前を口にされて、少しだけ驚く。
だが、同時に納得もした。目立たなくても、使った人には伝わる。
「そう。“高機能を、ちゃんと使える形で”って考え方らしい」
薄さ、軽さ、撥水、耐久性。
どれか一つを誇張するのではなく、毎日の中で無理なく使えるところに落とし込む。その姿勢が、この傘にははっきりと表れている。
後輩は傘を差し、開閉をもう一度試す。
風を想定して少し傾けても、骨は安定していた。
「営業向きですね」
その言葉に、少しだけ笑ってしまう。
確かにそうだ。だがそれは、営業に限らない。
毎日、外に出て、約束の場所へ向かうすべての人のための傘だ。
後輩が雨の中へ出ていくのを、窓越しに見送る。
傘は風に揺れながらも、形を崩さず、一定の距離を保って進んでいった。
机に戻り、ふと父の傘のことを思い出す。
父もまた、こういう基準で道具を選んでいたのだろう。
派手さよりも、長く使えること。
使うたびに、余計な負担を感じさせないこと。
父は何も語らなかった。
だが、選んだものは、最後まで父の仕事を支えていた。
傘を選ぶという行為は、天気への備えであると同時に、
自分の時間や体力をどう扱うか、という意思表示なのかもしれない。
夕方、後輩が戻ってくる。
傘を丁寧に畳み、水を払い、こちらに差し出した。
「ありがとうございました。本当に、使いやすかったです」
その言葉は、成果の報告よりも、静かに胸に残った。
傘を受け取り、手に取る。
布はほとんど濡れていない。撥水がきちんと効いている。
骨も、柄も、変わらずしっかりしている。
帰り道、再び雨が強くなる。傘を開き、歩き出す。
濡れない。
風に煽られても、慌てる必要がない。
この傘は、人生を変えるほど大げさな存在ではない。
ただ、折れそうな日を、折れずに越えさせる。
余計なことに気を取られず、前に進ませる。
それだけだ。どんな天気でも、共に。
その言葉は、作り手の都合ではなく、使う人の日常に寄り添う言葉として、
今日も静かに機能していた。




