第五話 続けるという選択
机の上に、白い紙が一枚置かれている。
何も書かれていない。ただのコピー用紙だ。だが、その存在感はやけに重かった。
辞表を書くつもりで、机に向かったのは何度目だろうか。
書き出しの言葉は、頭の中で何度も組み立ててきた。「一身上の都合により」。
便利で、誰も傷つけない言葉だ。そう書いてしまえば、あとは流れに身を任せるだけでいい。
それでも、ペンは動かなかった。
窓の外を見ると、また雨が降り始めている。
夕方の空は低く、雲が街を押さえつけているようだった。仕事を終えた人たちが、足早に駅へ向かっているのが見える。
鞄から傘を取り出し、手に取る。
今日は使っていないが、自然と触れてしまう。薄く、軽い。そのくせ、頼りない感じはしない。
転職の話は、悪くなかった。
条件も悪くない。環境も変わる。今の仕事で感じている閉塞感からは、きっと抜け出せる。そう頭では理解している。
だが、どこか引っかかる。辞める理由は、いくつも挙げられる。
成果が出ない。将来が見えない。疲れた。どれも嘘ではない。だが、それらは「続けない理由」であって、「辞める理由」にはなりきらなかった。
父のことを思い出す。
父がなぜ仕事を続けていたのか、今でもわからない。好きだったのか、誇りを感じていたのか、それとも仕方なく続けていたのか。
けれど、少なくとも父は、途中で放り出さなかった。
雨の日も、風の日も、傘を差して外に出た。自分が見てきたのは、それだけだ。
ペンを置き、立ち上がる。
傘を持って、外に出ることにした。
雨は本降りになっていた。
風は強くない。だが、長く降り続きそうな雨だ。傘を開き、歩き出す。
濡れない。
音も静かだ。視界も安定している。傘がきちんと役割を果たしていることが、歩くたびに伝わってくる。
続ける、というのは、折れないことではないのかもしれない。
無理に耐えることでも、我慢することでもない。
状況に合わせて、形を変えながら、役割を果たし続けること。傘がそうしているように。
辞めない理由は、まだ言葉にできない。
だが、続ける理由なら、少しだけ見えてきた。
自分は、この仕事で、誰かの役に立っている。
大きな成果ではないかもしれない。だが、雨の日に来てくれる人。約束を守る人。
そう思われている事実が、確かにあった。
家に戻り、机に向かう。
白い紙は、まだそこにある。
紙を引き出しにしまい、代わりに別の書類を取り出す。
明日の訪問予定だ。変更はしない。そのまま行く。
傘を畳み、鞄に戻す。
たたむ動作は、驚くほど簡単だった。
続けるという選択は、劇的な決断ではなかった。
ただ、今日も仕事に行く。
それだけだ。
だが、その「それだけ」を、今は自分で選んでいる。




