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第四話 父の傘

実家に向かうのは、久しぶりだった。

特別な理由があったわけではない。仕事の予定が一つキャンセルになり、半日ほど時間が空いた。それだけのことだ。

最寄り駅から歩く道は、昔と変わらない。

低い建物、少し狭い歩道、午後の曇った空。雨はすでに上がっていたが、地面にはまだ湿り気が残っている。傘は使わず、鞄の中に入れたままにした。

家の玄関を開けると、ひんやりとした空気が迎えた。

人の気配はない。母は出かけているらしい。靴を脱ぎ、廊下を歩く音が、やけに大きく響く。

居間を通り過ぎ、そのまま奥の部屋へ向かう。

父の使っていた部屋だ。今はほとんど物置のようになっている。必要なものだけが残り、あとは静かに整理されていた。

押し入れを開けると、古い匂いがした。

衣類、書類、工具箱。どれも、使い込まれた痕跡がある。父は物を大切にする人だった。新しいものを好まず、壊れるまで使う。そういう性格だった。

奥の方に、細長い影が見えた。

引き出すと、一本の傘だった。

派手さはない。

黒に近い濃紺で、柄も細い。持ってみると、意外と軽い。だが、ぐらつきはなく、しっかりしている。骨に触れると、丁寧に作られていることが伝わってきた。

父が使っていた傘だ。

いつからあったのか、思い出せない。

少なくとも、自分が子どもの頃から、ずっと同じものだった気がする。

壊れたところを見たことも、買い替えた場面を見たこともない。

傘を広げてみる。

動きは滑らかで、布はまだ張りを保っている。長い年月を経ているはずなのに、役割を失っていない。

父は、仕事の話をほとんどしなかった。

何を考え、何に悩み、どう折り合いをつけていたのか。聞けば答えてくれたのかもしれないが、聞かなかった。いや、聞けなかったのかもしれない。

ただ、毎朝同じ時間に家を出て、雨の日も、風の日も、黙って傘を差して出かけていった。その背中だけが、記憶に残っている。


傘をたたみ、静かに置く。

ふと、自分の鞄の中の傘を思い出した。薄くて、軽くて、目立たない。だが、壊れない。濡れにくく、扱いやすい。

似ている。

時代も、形も違う。

それでも、考え方は同じだ。派手さよりも、毎日使えること。続けられること。誰かに迷惑をかけないこと。

父は、こういう基準で物を選んでいたのだろうか。

それとも、たまたま手に取ったものが、そういう性質を持っていただけなのか。

どちらでもいい気がした。

重要なのは、父がその傘を信頼し、使い続けていたという事実だ。

部屋を出る前に、もう一度振り返る。

そこには、父の言葉は残っていない。だが、選んだものは残っている。


玄関を出ると、空は少し明るくなっていた。

鞄から自分の傘を取り出し、手に持つ。今日は使う予定はないが、その重さを確かめるように握る。

続けるということは、何かを派手に成し遂げることではないのかもしれない。

ただ、折れずに、必要な場所へ向かい続けること。

父の傘と、自分の傘。

その二本が、静かに重なった気がした。

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― 新着の感想 ―
第四話|父の傘 感情を煽らないのに、胸に残る名エピソード。 父は多くを語らなかった。 仕事の意味も、続ける理由も説明しなかった。 だが、 選び、使い続けていた道具が、 その生き方をすべて語ってい…
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