第三話 折れなかったもの
午後に入って、風が変わった。
雨粒が横から叩きつけるようになり、歩道に水の筋ができている。ビルの隙間を抜ける風が、思った以上に強い。
駅を出たところで、足を止めた。
傘を開いた瞬間、突風が吹いた。思わず力を入れて柄を握る。周囲では、何本かの傘が一斉に裏返った。骨がきしむ音や、誰かの小さな舌打ちが混じる。
だが、自分の傘は踏みとどまった。
布は一瞬大きく膨らんだが、すぐに元の形に戻る。手元に伝わる反動はあったが、不安定さはなかった。
少しだけ、驚いた。これほどの風に耐えるとは思っていなかったからだ。
歩き出すと、自然と歩幅が整う。
風の向きを読み、傘の角度を微調整する。濡れないようにする、というより、状況に合わせて使いこなす感覚に近い。
次の訪問先は、長く付き合いのある取引先だった。
成果は思うように出ていない。それでも、約束だけは守ってきた相手だ。
応接室で向かい合った担当者は、少し疲れた表情をしていた。
景気の話、社内の事情、慎重にならざるを得ない理由。話の内容は予想通りだった。
「今日は、来てくれただけで助かります」
その一言が、意外なほど胸に残った。
結果を出せなかったことよりも、足を運んだこと自体が評価された気がした。
ビルを出ると、風はさらに強まっていた。
雨粒が視界を遮り、街の輪郭が揺れる。傘を差し直し、少しだけ深く息を吸う。
この仕事を、続ける意味は何だろうか。
頭の中で、何度も繰り返してきた問いだった。
給料のためか。生活のためか。惰性か。それとも、ほかに理由があるのか。
ふと、辞表のことを思い出す。
まだ書いてはいないが、頭の中では何度も形にしてきた。出すか、出さないか。
その分岐点に、自分は立っている。
交差点で立ち止まる。
信号待ちの間、風に煽られながら傘を支える。骨は鳴らない。柄はぶれない。
ただ、静かに役割を果たしている。
父も、こういう日を何度も経験していたのだろうか。
強い風の中で、傘を差し、仕事へ向かう。その途中で、何を考えていたのか。
父は、仕事が好きだったわけではないかもしれない。
それでも、折れずに続けていた。少なくとも、自分の目にはそう映っていた。
歩き出す。
風に逆らわず、角度を変えながら進む。無理に正面から受け止めない。
それでも、進む方向だけは変えない。
そのとき、はっきりとした感覚があった。続けることは、耐えることと同じではない。折れなかったのは、強かったからではない。
状況に合わせて、形を保ったからだ。
傘を少し低く構え、次の駅へ向かう。
答えはまだ出ていない。
だが、少なくとも今日は、折れずに進めている。
その事実だけを、胸に置いたまま。




