第一話 雨の朝、薄い傘から始まる
目が覚めた瞬間、雨の音がしているとわかった。
強く叩くわけでもなく、やめる気配もない、曖昧な降り方だった。
窓の外は白く滲み、空と建物の境目がぼやけている。
こういう日は、時計を見る前から一日の重さが想像できてしまう。
今日は商談が一件入っている。
特別に大きな案件ではない。だが、うまくいかなければ、次が遠のく。
そういう、説明しづらい重さを持った仕事だった。
身支度を整え、鞄を肩にかける。玄関で一瞬立ち止まり、傘立ちを見る。
長傘はそこにあるが、無意識のまま手は伸びなかった。代わりに、鞄の内側を探る。指先が、薄い感触に触れた。折りたたみ傘。
いつ買ったのか、はっきりとは覚えていない。
急な雨に備えて、何となく手に取ったものだった。
値段も、色も、特別な理由はなかった。ただ、驚くほど薄く、鞄の隙間に収まった。それだけが記憶に残っている。
改札を抜け、駅前に出る。
雨は相変わらず、地面を静かに濡らしていた。傘を開く。開閉は滑らかで、引っかかる感じがない。布が張る音が、妙に小さかった。
歩き出すと、スーツの肩や足元が少しずつ湿っていく。
それでも、濡れているという実感は薄い。傘が役割を果たしている。ただそれだけのことが、今日は少しだけありがたく感じられた。
仕事を始めて、もう十年近くになる。
入社した頃は、雨の日でも外に出ることが苦ではなかった。むしろ、動いている実感があった。今は違う。外回りは日常で、成果は数字で測られる。
やっても、やらなくても、天気は変わらない。
電車に揺られながら、ふと考える。
この仕事を、いつまで続けるのだろうか。辞めたいわけではない。
ただ、続ける理由を、最近うまく言葉にできなくなっていた。
乗り換え駅で降りる。
ホームに立つ人々の傘は、色も形もばらばらだ。大きなもの、小さなもの、風に煽られて裏返りそうなもの。誰もがそれぞれの事情を抱え、今日をやり過ごそうとしている。
雨の向こうに、父の姿が一瞬浮かんだ。
子どもの頃、こんな朝が何度もあった。父は黙って傘を差し、玄関を出ていった。
仕事の話をする人ではなかった。ただ、毎日同じ時間に家を出て、同じように帰ってきた。
父がどんな傘を使っていたのか、はっきりとは覚えていない。
だが、壊れて困っているところを見た記憶もない。目立たないが、必要なときにきちんと役に立つ。そんな道具だった気がする。
オフィスビルの前で立ち止まり、傘をたたむ。
布はすぐにまとまり、鞄に戻すのに時間はかからなかった。手間がかからない。
それだけで、少し気持ちが軽くなる。
エントランスのガラスに、自分の姿が映る。
特別な覚悟も、明確な目標もない。ただ、今日も仕事に向かっている。
それでいいのかどうか、答えは出ていない。
それでも、ここまで来てしまった。
雨はまだ降っている。だが、少なくとも、濡れずにここまで歩いてこられた。
エレベーターの扉が閉まる直前、ふと、鞄の中の傘の存在を思い出す。
薄くて、軽くて、主張はない。
それでも、必要なときには、ちゃんと守ってくれる。
——今日は、それで十分だ。
そう思いながら、静かに息を整えた。




