第9章 『専守防衛の正義と、越境する葛藤』
◆乾いた風と、越境した迷彩服
風が、砂と熱を運んできた。
滑走路の端に並んだ車両の列。
白い国連マークをつけた装甲車。
遠くでうなる発電機の音。
桐生隼人・三等陸佐は、
輸送機のタラップを降りながら、
顔に当たる空気の違いをはっきりと感じていた。
(湿気がない……空気が軽いようで、重いな)
日本の駐屯地とは、匂いが違う。
土の匂いではなく、乾いた埃と、どこか遠くで燃えた油の匂いが混ざっている。
タラップの下で、現地の連絡将校が手を上げた。
「Welcome, JGSDF unit.
こちらです、桐生佐。」
流暢な日本語ではない。
だが意味は十分伝わる。
隼人は敬礼を返し、部隊に号令をかけた。
「整列。装備確認を済ませてから車両に乗れ。
ここから先は、俺たちの“現場”だ」
返ってくるのは、少し緊張を含んだ声だ。
「了解!」
肩章の重さが、いつもより増した気がした。
(ここは日本じゃない。けど――俺が背負ってるものは同じだ)
専守防衛。
その言葉の意味は、日本を出た瞬間にも消えない。
むしろ、ここ海外でこそ試される。
⸻
◆ブリーフィング:撃てない任務
簡易組立式の建物の中は、外より少しだけ涼しい。
エアコンの音と、プロジェクターのファンの音が重なっていた。
壁には、この地域一帯の地図。
曲がりくねった道路。
避難民キャンプ。
国連施設。
“治安不安定地域”と赤で囲われたゾーン。
「桐生三佐」
隼人の隣に座る情報担当の隊員が、小声で囁いた。
「国内災害のブリーフィングと、雰囲気が違いますね」
「ああ。ここは“人間が人間を撃つ前提”の場所だ」
自分で言いながら、その言葉の苦さを噛みしめる。
前に立っている国連担当官が、英語と簡易な日本語を混ぜて説明を続けていた。
「武装勢力は統一された軍ではなく、複数のグループに分かれています。
彼らの多くは、“撃ち返してこない相手”を好んで狙います。
――残念ながら。」
スライドには、別の国の部隊が攻撃を受けた時の写真が映し出される。
破壊された車両。
黒く焦げた廃墟。
「しかし、日本隊のルールは理解しています。
あなた方は専守防衛、防御行動のみ。
先に撃つことはできない。
――それでも、ここにいる」
担当官の視線が、わずかに敬意を帯びて隼人をかすめた。
(先に撃てない。撃たれてからでないと、反撃できない)
昔から変わらない制約だ。
だが、隼人の中で、その意味は少し違ってきていた。
(“撃てない”から守れないわけじゃない。
“前へ出て守る”手段はいくらでもある)
ホブゴブリンとして巣穴を守ろうとして死んだ記憶。
索敵者として群れを導いた記憶。
シャーマンとして心の揺れを聞いた、まだ新しい記憶。
それらが、砂漠の風と一緒に胸の奥をなぞっていく。
⸻
◆キャンプの夕暮れと、子どもの目
派遣先は、避難民キャンプの一角に隣接した国連の活動基地だった。
コンテナを改造した居住スペース。
テントが並ぶキャンプエリア。
簡易診療所。
給水ポイント。
日が傾くと、キャンプの中に小さな影が増える。
子どもたちだ。
裸足で砂の上を走り回り、
ボロボロのボールを蹴り合い、
日本隊の車両のそばに集まってくる。
「ジャパン! ジャパン!」
まだ若い隊員が、居心地悪そうに笑いながら手を振った。
「……笑ってますね、みんな」
情報担当がぽつりと言う。
「ああ。ここでは“銃を向けてこない大人”は貴重なんだろう」
隼人はそう答えながら、子どもたちの目を見た。
笑っている。
だが、その奥に、どこか擦り切れた影が見えた。
燃える巣穴で泣き叫んでいた幼体たちと、同じ種類の影だ。
キャンプの外側、フェンスの向こうには乾いた大地が広がっている。
その向こうに、武装勢力の影が潜んでいる。
(ここを撃たせるかどうかは、俺たちの動き次第だ)
専守防衛だからと言って、ただフェンスの内側で震えているだけなら――
それは「守る」ではない。
⸻
◆夜の銃声
夜になると、空気の温度がわずかに下がった。
だが、緊張は上がる。
キャンプ周辺の警備は、多国籍部隊との連携で行われていた。
夜間哨戒。
監視カメラ。
暗視装置。
その夜も、隼人はベストを着たまま簡易指揮所のモニターを見ていた。
「桐生三佐、北東区画、発砲音の報告です」
通信兵の声が静寂を破る。
「距離は?」
「およそ一キロ先。国連部隊の巡回ルート近辺とのことです」
別の無線が割り込んでくる。
英語と現地語が混ざった、緊迫した声。
『…Contact! Small arms fire! We are taking shots from unknown…』
モニターの地図上で、小さな点が点滅した。
隊員が隼人を見る。
「三佐……」
(ここから、だ)
隼人は深く息を吸った。
「日本隊、即応態勢。
北東の監視班、音源方向の確認。
ただし、射撃はするな。確認優先だ」
命令は、自然に口をついて出た。
隊員たちが散っていく。
暗視スコープを構え、
モニターのカメラ映像が切り替わる。
砂の上を移動する影。
銃口の光。
火花。
国連部隊が応射し、やがて銃声は遠ざかっていった。
だが――今度は別の方向から、柔らかい発砲音が返ってくる。
「キャンプ東側外周に、音源変化!」
通信兵が叫んだ。
地図上で、明らかに“こちら側へ”近づいてくるマーク。
武装勢力が、今度は“撃ち返しにくい場所”を狙い始めたのだ。
(試している……日本隊がどこまで何をするか)
嫌な確信があった。
⸻
◆撃たせるか、撃たせないか
「三佐!」
東側哨戒線に出ている隊員からの無線が入る。
『目視で武装集団を確認。
トラック二台。
人数……十名前後。
こちらに向かってきます!』
隼人の心臓が、ひとつ強く打った。
(十人。トラック。試し撃ちには多すぎる。
“撃って反応を見る気”だな)
フェンスの向こう側、避難民キャンプのテントが並んでいる。
ここで撃ち合いになれば、まず被弾するのは民間人だ。
隊員の声が震える。
『……三佐。相手は銃を構えてます。
こちらも射撃準備を――』
「まだだ」
隼人は短く言った。
「まだ撃つな。
視認は続けろ。距離と向きを逐次報告だ」
『しかし、このままでは――』
「俺が責任を取る。
だからその一瞬を、落ち着いて見ていろ」
無線の向こうで、息を飲む音がした。
隼人は指揮所の中を見渡した。
「全班、聴け」
静かながら、よく通る声で言う。
「これは専守防衛の任務だ。
先に撃つことは許されない。
だが、撃たれるのを黙って待つ任務でもない」
かつて、自分が聞かされたいくつもの訓示が頭をかすめた。
そして、ゴブリンの巣で、人間に一方的に攻撃された記憶も混ざる。
(撃たれ損の防衛は、防衛じゃない)
胸の奥が熱くなる。
「防衛とは、“撃たせないこと”だ。
前へ出る。だが、引き金は引かない。
敵に『撃てない』と思わせる位置を取る。
――それが、今の俺たちの戦い方だ」
頭の中で、地図が組み上がる。
武装勢力の進行方向。
キャンプの配置。
日本隊の配置。
他国部隊の位置。
(真正面で撃ち合う必要はない。
“撃ったら自分たちが不利になる状況”を見せればいい)
「東側哨戒班、後退するな。
逆に半歩前へ出ろ。
フェンス沿いに陣形を広げて、“壁”になれ。
サーチライトを準備。暗視レーザーは相手の足元だ」
『了解!』
「機関銃班は真ん中を押さえろ。
銃口は下げたまま、いつでも上げられる高さで固定しろ。
『撃つ気になればすぐ撃てる』のを見せるだけでいい」
武装勢力は、まだこちらに向かって歩いている。
銃口は上がったり下がったり、不完全な構えだ。
挑発。
“反応を見るための歩み”。
隼人は、唇の裏側を噛んだ。
(ここで引き下がれば、“押せば下がる相手”になる。
ここで先に撃てば、“ルールを破る部隊”になる。
どっちも、守れない)
胸の奥で、焼け跡の匂いがした気がした。
あの世界で――
ホブゴブリンのハヤトは、前へ出て守ろうとして死んだ。
索敵のハヤトは、前へ出て危険を避けようとした。
(今の俺は、桐生隼人であり、あの“ハヤト”でもある)
「……前へ出るぞ」
小さく呟き、隼人は自分もヘルメットをかぶった。
「臨時指揮所を東側フェンスそばに移す。
俺が前に出る。
お前たちは、俺の背中の位置を見て判断しろ」
周囲の隊員が目を見開いた。
「三佐が出るんですか!?」
「出ない指揮官の命令は軽い。
今回は“出ても撃たない”前進だ。
俺が一番前で撃たないことを示す」
⸻
◆光と影の線引き
夜風が、わずかに冷たかった。
東側フェンスの手前に、日本隊の横一列の影が並ぶ。
ヘルメット。
防弾チョッキ。
銃口を下げた小銃。
その列の少し前に、隼人が立っていた。
フェンスの向こう、数十メートル先に、武装勢力の影。
トラックを後方に止め、銃を構えた男たちがじりじりと歩いてくる。
(距離、約八十。
ここからなら、一気に突っ込んでもおかしくない)
無線が耳元で囁く。
『三佐、サーチライト準備できます』
「撃つな。照らせ」
隼人が合図をすると、待機していたサーチライトが一斉に点いた。
白い光が、夜の砂と武装勢力の姿をあぶり出す。
眩しさに、男たちが目を細め、一瞬動きを止める。
続けて、日本隊の機関銃班の前にもライトが走った。
銃口のシルエット。
ヘルメットの列。
規律正しく立つ兵士のライン。
スマホのライトとは違う、組織的な“光の壁”。
武装勢力の足が止まった。
彼らのリーダーらしき男が、砂の上に唾を吐く。
何か怒鳴っているが、言葉は聞き取れない。
だが――表情は読めた。
(“撃ちにくい相手”だと思ったな)
ここで撃てばどうなるか。
十人足らずの集団が、正面から機関銃と多国籍部隊の視線を浴びる状況。
損得勘定ができる相手なら、躊躇するはずだ。
隼人は、あえて一歩、前へ出た。
銃は構えない。
ただ、背筋を伸ばして立つ。
背後の隊員たちが、小さく息を呑む気配がした。
フェンス越しに、互いの目が合う。
(ここで撃たれたら、俺は死ぬかもしれない。
でも――撃たせないために前へ出るのが、今の“専守防衛”だ)
瞬間、胸の奥に、あの森の匂いが蘇った。
焼け跡。
幼体の泣き声。
群れを導いた夜の風。
異世界のハヤトも、こんな風に群れの前に立っていたのだろう。
武装勢力のリーダーが、苛立ったように手を振った。
トラックのエンジン音が高まり、男たちがじりじりと下がっていく。
完全な撤退ではない。
だが、今夜ここを撃つつもりはなくなったようだった。
「……よし。追うな。
あくまで防衛線はここだ」
隼人は、小さく息を吐いた。
⸻
◆誰も撃たず、誰も撃たれず
指揮所に戻ると、国連担当官が駆け寄ってきた。
「桐生三佐! 今の対応……見ていました。
誰も撃たずに、撃たせなかった。
すばらしい判断です」
隼人は首を振る。
「たまたま、向こうが損得を計算する相手だっただけです。
もっと馬鹿な相手なら、こっちの誰かは死んでました」
「それでも、“撃たせない”という選択をしたのは、あなたです」
担当官の目は真剣だった。
背後で、さっき前線に出ていた隊員たちが、こっそりと囁き合っている。
「少佐、前に出たよな……」
「正直、ビビったけど……あの背中、見てたら、変に落ち着いた」
「撃てって言われても、撃つしかないって覚悟はできてたな」
隼人は、彼らの声に耳を傾けながら、心の中でひとつの言葉を繰り返していた。
(前へ出るのは、感情じゃない。
規律だけでもない。
“生きて守るための責任”だ)
ゴブリンの巣で、守れなかった幼体。
災害現場で、守れた子ども。
焼け跡で拾った金属片。
異世界でシャーマンとして導いた群れ。
全部が、今この瞬間につながっている。
(専守防衛は、“撃たれ損の我慢比べ”じゃない。
撃たせないために前へ出る。
そのための判断と責任を背負うのが、俺たちだ)
胸の奥の熱は、不思議と静かだった。
⸻
◆メールと、ささやかな報告
数日後。
武装勢力は、別の地域で活動を活発化させているとの情報が入った。
このキャンプへの露骨な接近は、あの夜を境にぴたりと止まっていた。
隼人は、簡易執務机の上でノートPCを開いた。
画面には、隊本部への報告メールのフォーム。
キーボードの上で指を組み、言葉を選ぶ。
『専守防衛の理念は、ここ海外でも維持されている。
我々は先に撃つことはない。
だが、防衛とは“撃たれるまで待つこと”ではなく、
“撃たせない位置取りを選び続けること”であると考える。
今回、部隊は前進しつつも発砲せず、
結果としてキャンプおよび住民・隊員に被害はなかった。』
そこまで打ち込んで、少し迷う。
そして、一行だけ、自分のための言葉を付け足した。
『――前へ出るのは、死ぬためではなく、
“生きて守るため”である。』
送信ボタンを押すと、画面が小さく光った。
テントの外では、子どもたちの笑い声が聞こえる。
砂の上を走る足音。
ボールの弾む音。
その向こう側に、まだ危険はある。
武装勢力も、政治の思惑も、簡単には消えない。
それでも今、この瞬間だけは――
誰も撃たず、誰も撃たれていない。
(それでいい。
それを積み重ねていくしかない)
⸻
◆夜のリンク
その夜。
隼人は、コンテナを改造した仮設宿舎のベッドに横になっていた。
外は静かだ。
時折、遠くの犬の吠える声と、ジェネレーターの唸りが聞こえるだけ。
天井は、白い板。
日本の駐屯地と、どこか似ている。
(ここが俺の“今の場所”で、
あっちには“もうひとつの俺”がいる)
目を閉じると、森の匂いが微かに蘇った。
胸の奥に、あのざらついた耳鳴りが生まれる。
——きこえるか。
土を擦るような、低い声。
——ハヤト。
名前を呼ぶ声。
(……来たな)
隼人は抵抗しない。
専守防衛の正義を、ひとつ自分なりに掴んだ今。
あちらの世界でも、きっと何かが動き出す。
——まもれ。
——いきろ。
——みちを、しめせ。
囁きが、心臓の鼓動と同じリズムで重なっていく。
重力が、静かに反転した。
桐生隼人の意識は、再び“ハヤト”としての世界へと、落ちていった。




