第8章 少佐就任と、静かな覚醒
◆十五年の風
駐屯地の桜並木は、十五年間で何度も色を変えた。
葉桜の頃、花の頃、そして冬を越えた枝の頃。
桐生隼人が三等陸尉として任官してから、
気づけば随分と時間が過ぎていた。
その間に、数え切れないほどの訓練と派遣があった。
土砂災害、洪水、火災。
山岳での捜索。
雪の夜の救助もあった。
隼人は、何度も前へ出た。
足が止まらなくなったのは、7章の頃の話だ。
生きて部下を守る――
その考え方が、いつしか隼人の軸になった。
任官から数年、三尉としての基礎を固め、
その後、
二等陸尉(中尉) に昇任。
隊の副長として、後進の指導にも携わった。
さらに数年後、
一等陸尉(大尉) に昇進し、
小隊長として災害派遣の最前線に立つことも増えた。
厳しい場面もあったが、
隼人が死んだ隊員は一人もいない。
それが評価されたのだろう。
彼の膝に積み重なった時間は、
確かに幹部としての成熟を形作っていった。
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◆時が流れても変わらないもの
しかし――
変わらないものもあった。
眠りに落ちた瞬間、遠くから呼ぶ声。
森の匂い。
湿った土の感触。
風が運ぶ、危険の粒。
隼人は十数年間、夢の世界で何度も目覚めた。
あちら側では、時間がゆっくり流れているようだった。
スカウトとして群れを守り、
危険を避け、
安全な道を選び続けた。
小さな事件はあっても、
大きな戦闘はなかった。
むしろ、群れは安定していた。
(……こっちも向こうも、少しずつ成長してるんだろうな)
そう思えた。
あちら側では「導く者」の片鱗を見せ、
こちら側では隊員を導く指揮官になった。
異世界と現実の経験が、
ゆっくりと隼人の中で溶け合っていった。
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◆少佐候補
ある春の日――
二十代で任官した隼人は、もう三十代半ばとなっていた。
「桐生一尉、最近の評価は聞いたか」
連隊長からそう言われたのは、
訓練評価のフィードバックのときだった。
「……いえ、まだです」
「お前は“危険を読む”のが上手い。
ただ危険を避けるのではなく、
危険を踏まえたうえで生かす判断 ができる幹部だ」
隼人は無意識に背筋を伸ばした。
「……身に余るお言葉です」
「身に余るかどうかは、これから決まる」
連隊長は控えめに笑い、
そのあとで少しだけ言葉を落とした。
「桐生一尉。
そろそろ“上”が見えてきている」
その意味を、隼人はすぐには理解できなかった。
(……少佐。
ついに、そこまで来たのか)
中隊や小隊の枠を越え、
もっと広い視野でものを見る立場。
現場だけではない。
作戦、部隊、防衛、そして市民の未来を考える階級。
その重さに、胸がひりついた。
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◆問い直される「前へ出る理由」
週末のブリーフィングルーム。
かつて三尉だった頃に説教を受けた、あの部屋。
向かいに座るのは、昔と同じ中隊長――
いや、今はもう一階級上がり、連隊の幹部になっている。
「桐生。
お前は今でも“前へ出る理由”を忘れていないか?」
静かな声だった。
隼人は頷く。
「忘れていません。
前へ出るのは、感情でも規律でもなく……」
「責任、だろう?」
「はい。“生きて守るための責任”です」
中隊長は深く頷いた。
「その答えを持っている幹部は、そう多くはない。
……お前は、上に向いている」
言葉は優しいが、圧は重かった。
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◆夢の断片と、群れの静かな日々
隼人が三尉から少尉へ、
少尉から中尉へ、
中尉から大尉へ。
現実で昇進を重ねる間、
夢のハヤトも、少しずつ変わっていた。
群れの“意見”を聞くようになった。
幼体の恐怖を感じ取れるようになった。
小さな移動、小さな判断。
その積み重ねが、群れの生活を確かに安定させていた。
派手な戦闘はなかった。
むしろ、静かだった。
でも――
これこそが“導く者の働き”だった。
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◆辞令と、跳ね上がる鼓動
そして、その日は訪れた。
「桐生一尉、司令部へ」
呼び出された先は、小さな会議室。
机の向こうで、連隊長が辞令書を持っていた。
「桐生隼人一等陸尉」
「はい」
「お前を――」
一拍、置かれた。
「三等陸佐に任ずる」
少佐。
その文字が、隼人の意識に静かに落ちた。
(……ついに、この階級か)
十五年間積み重ねた経験が、
一本の線になって胸に流れ込む。
救った命。
守れなかった命。
判断の重さ。
死の痛み。
生き残る意味。
「……ありがとうございます」
その言葉がかすれるほど、
胸の奥が熱かった。
「ここからが本番だ」
と連隊長は言った。
「“導く者”は、いつだって孤独だ」
その言葉を聞いた瞬間――
隼人の脳裏に、森のハヤトが浮かんだ。
導く者。
シャーマン。
その言葉が、静かに響き合った。
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◆眠りにつく前の、予感
夜。
辞令書を机に置き、
隼人は制服の襟に触れた。
(三佐……少佐)
その響きは重い。
だが、不思議と怖くはなかった。
(向こうでも……なにかが変わるだろうな)
そんな予感が、自然と湧いていた。
灯りを消し、目を閉じる。
耳鳴りが、遠くで始まる。
部屋の闇が、土の匂いに変わる。
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◆シャーマンの覚醒
視界が反転し、
隼人――いや、ハヤトは、
森の巣の前に立っていた。
風の色が違う。
音の深さが違う。
世界の解像度が一段上がったようだった。
そして、初めてだった。
仲間の心の揺れが“聞こえる”感覚。
幼体の浅い眠り。
成体の警戒。
巣の奥で満ちる安心。
(……これは)
ハヤトは思わず立ち尽くした。
体の奥で、なにかが開く音がした。
風が道を示している。
森のざわめきが、危険の位置を教えてくる。
未来の気配が、
胸の奥に揺らぎとして降りてくる。
——ハヤト。
——みち、しめす。
群れのリーダーが言った。
——シャーマ。
幼体も口にした。
——シャーマ。
——まもるもの。
その言葉が、胸に深く落ちた。
(……俺は、こっちでも“少佐”になったのか)
そんな感覚だった。
導く者。
判断する者。
生かす者。
世界が二つあっても、役目は同じだった。
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◆二つの世界の、同じ階級
朝の匂いのする部屋で目を覚ますと、
時計は5時を指していた。
外はまだ薄暗い。
隼人は窓を開け、冷たい空気を吸い込んだ。
(三佐……シャーマン……)
二つの肩書が、自然に胸に入ってきた。
恐怖はある。
責任も増えた。
道が広がりすぎて、迷うこともあるだろう。
だが――
前へ出る理由は、もう揺らがなかった。
(生きて守る。
それだけだ)
風がそっと、声を運んできた気がした。
——まもれ。
——いきろ。
——みちを、しめせ。
隼人は、窓の向こうに向かって小さく呟いた。
「了解した。
今日から、桐生少佐だ」
そして、
森のシャーマンでもあった。




