第7章 前へ出る理由――怖いからこそ、生きて守る
◆夜の底から
暗闇が静かに沈んでいく。
落ちる、というより、包まれる。
隼人はその感覚に、もう逆らわなかった。
6章の夜――
「前へ出る理由がわからない」という問いを抱えたまま眠りについた直後。
耳鳴り。
ざらついた声。
土の匂い。
リンクの気配だ。
(……また、来たか)
抵抗はなかった。
怖さも、薄れていた。
それよりもむしろ――
“あちらの世界で、何か掴める気がする”
そんな予感が胸を占めていた。
重力が反転し、世界がひっくり返る。
そして隼人は、目を開けた。
⸻
◆小さな巣、目覚めた“新しいハヤト”
湿った空気が鼻を刺す。
土、苔、獣臭、そして少しだけ鉄の匂い。
巣穴だった。
(……また、ゴブリンか)
視界が低い。
手を見ると、小さな緑の手。
鋭い爪。
動きは滑らかで、前よりも軽い。
体格は中型。
前回のホブゴブリンほど大きくない。
けれど――
耳と鼻が、異常に敏感だった。
風の流れの細かな癖。
奥の眠っている幼体の寝息。
巣穴の岩の汗の匂い。
外で鳴く虫の羽音まで手に取るように聞こえる。
(……これ、索敵に特化してる)
そんな言葉が自然と浮かんだ。
巣の奥から、幼体が小さく鳴く。
——……ハヤト。
その濁った声を聞いた瞬間、胸が温かくなった。
(……名前、覚えてくれたのか)
まだ幼い個体。
言葉の意味も曖昧なはずなのに、
「ハヤト」という音だけはなぜか確かに響かせる。
名前は魂の残響。
前回の“死んだホブ”の意志を受け継いでいるようだった。
隼人――いや、ハヤトは幼体の頭にそっと触れた。
「……ハヤト。おれ」
その言葉は、喉で少し濁った音になったが、
幼体は嬉しそうに頷いた。
⸻
◆森へ出る朝
巣穴を出ると、朝の光と森の匂いが一気に押し寄せた。
群れは5体。
幼体2、成体3。
リーダー格のゴブリンが隼人に近づく。
——おまえ。
——みみ、いい。
——はな、いい。
——まえ、いけ。
(索敵役、ってことか……)
指示の意味はわずかな言葉でも理解できる。
ハヤトは頷き、先頭へ出た。
風が頬を撫でる。
その一瞬で、
大量の情報が流れ込んできた。
右の茂みには小動物。
左の倒木には大きな甲虫。
上空を飛んだ鳥の影が、どれほどの速度かまでわかる。
(五感が……おかしいほど鋭い)
これが、索敵者としての進化か。
森を進むうち、ある匂いが風に乗ってきた。
焦げた匂い。
混ざっているのは、灰、脂、焼けた木、そして――血。
(……焼け跡だ)
胸がひりついた。
風の向きが変わるたび、
記憶の奥で眠っていた“死の痛み”がよみがえる。
⸻
◆焼け跡へ
森が開け、前方が黒く歪んでいた。
そこは前回、自分――ホブゴブリンだった“自分”が死んだ場所。
焼け落ちた巣。
灰が風に舞い、世界が薄茶色に沈む。
(……ここで、俺は死んだ)
鮮明ではない。
だが、体が覚えている。
槍の冷たさ。
肺が潰れる音。
幼体の泣き声。
燃える熱。
膝がふらついた。
灰の中で光る金属片が見えた。
拾い上げる。
それは“槍の欠片”だった。
人間の武器。
触れた瞬間――胸を貫いた痛みが蘇る。
「……ッ」
ハヤトは声を殺してうずくまる。
死の痛み。
守れなかった後悔。
前へ出たことによって死んだ自分。
そして、6章で抱えたあの問いが浮かぶ。
(前へ出るのは……感情か? 規律か……?)
焼け跡の中心で、問いだけが心に渦を巻いた。
⸻
◆気配を嗅ぐ――人間接近
そのとき。
風が一変した。
匂いが変わった。
鉄。
革。
油。
布の擦れる音。
規則正しい足音。
(……人間だ)
判断は即座だった。
二人。
片方は重い。剣士。
もう片方は軽く、歩幅が速い。弓。
距離はまだ遠いが、こちらに向かっている。
ハヤトは反射的に手を上げた。
——とまれ!
群れ全体が止まる。
——なに。
——なに、きた?
リーダーが低く問う。
「……にんげん。くる」
濁った発音でも、意味は通じた。
群れがざわめく。
幼体が不安げに鳴く。
(戦ったら……死ぬ)
前回、それを経験した。
戦って前に出た結果、守れなかった。
死んだ。
なら――今回は違う判断をするべきだ。
ハヤトは短く吠えた。
「……ひく! もどれ!」
——さがる!
——いそげ!
リーダーが即座に反応し、群れは静かに退く。
敵影が見える前に、位置を変える。
音を殺し、風を読む。
そして、茂みの影に身を潜めた。
数十秒後。
人間二人が焼け跡の横を通り過ぎる。
誰も気づかない。
(……やり過ごせた)
胸に初めて、静かな“手応え”が生まれた。
前へ出る――
それは“飛び込む”ことじゃない。
“誰よりも早く危険に気づくこと”だ。
群れを守るための“前へ”。
感情でも規律でもなく、
“生きて守るための責任としての前進”。
⸻
◆群れの評価と、名前の重み
人間の気配が遠ざかってから、
リーダーがハヤトを見た。
——きこえた。
——におい、わかった。
——おまえ、まえ、たつ。
索敵役として正式に認められた瞬間だった。
幼体が嬉しそうにハヤトに抱きつく。
——ハヤト!
——まもった!
(……守れた)
前世で守れなかった幼体。
そして、今回は守れた。
それが胸に静かに広がる。
⸻
◆現実の夜へ戻る
世界が白く揺らぎ、光に飲まれた。
気づけば、寮の天井だった。
汗が額を流れる。
息が荒い。
でも、心は6章の夜よりずっと静かだった。
隼人はゆっくりと息を吸う。
(前へ出る理由……やっとわかった)
あの世界での体験が、問いに答えをくれた。
前へ出るのは感情じゃない。
前へ出るのは規律だけでもない。
“生きて、守るために前へ出る。”
“死なないことが責任だ。”
死んだら守れない。
死んだら判断もできない。
死んだら部下も、市民も救えない。
(俺は……生きて前に出る)
その“軸”が胸にすとんと落ちた。
窓の外、夜風が吹く。
耳の奥で、声が微かに囁く。
——まもれ。
——いきろ。
隼人は静かに笑った。
「……ああ。今度は迷わないよ」
そう呟いて、夜の闇を見つめた。




