第6章 命を預かるということ
◆命を預かるという言葉
演習場の風は、砂と乾いた草の匂いを運んでくる。
空は晴れていた。
訓練日和と言えば訓練日和だが、
桐生隼人・三等陸尉の胸の中は、
どうにも晴れきらないざらつきを抱えていた。
「――状況終了。各班、集結」
中隊長の声が響く。
模擬訓練は一応の終わりを迎えた。
敵情不明の山間地域に進出し、
被災住民の救出と安全確保を行う、
という想定だった。
本番さながらの緊張感――の、はずなのだが。
(……今の判断で、本当に良かったのか)
整列した隊員たちの前で、
中隊長が淡々と講評を始める。
「全体としては悪くない。だが――」
鋭い目が、隼人を一瞬だけ捉えた。
「桐生三尉。あの場面の判断については、後で話そう」
「……了解しました」
短く返事をする。
背筋は自然と伸びる。
あの場面。
崩れかけた斜面の下で、
想定上の“住民役”隊員が取り残され、
別の方向からも負傷者が出たあの瞬間。
右か、左か。
誰を優先するか。
ほんの数秒のためらいがあった。
誰にも気づかれない程度の、わずかな間。
けれど隼人には、それが永遠に等しく長く感じられた。
(あそこで、迷った)
それが、今の胸のざらつきの正体だった。
⸻
◆静かな講義室
訓練が終わり、装備の返納や片付けが一段落した頃。
「桐生三尉、ちょっと来い」
声をかけてきたのは、中隊長だった。
訓練場に隣接した小さなブリーフィングルーム。
白いホワイトボードと、使い込まれた机。
簡素な部屋の中に、二人きりで向かい合う。
「さっきの場面だが」
中隊長は、机の上に簡単な図を書きながら話し始めた。
崩れかけた斜面。
取り残された“住民”。
反対側で怪我をした隊員。
「お前は、一瞬だけ動きを止めたな」
淡々とした口調だったが、その目は真っ直ぐだった。
「……わかりましたか」
「わかる。見ていたからな」
中隊長はそう言って、チョーク代わりのペンを指で転がす。
「結果としては、お前が選んだ順番で正しかった。
どちらを優先したかも、理由も、悪くない」
「……はい」
「だが、迷った」
その一言が、隼人の胸に突き刺さる。
「迷うな、とは言わない。人間だ。
状況を見れば、一瞬は迷う」
中隊長は少しだけ目線を落とし、
言葉を選ぶように続けた。
「ただな、桐生。
お前は“その迷いの重さ”を、他のやつより強く感じすぎている」
「……感じすぎている、ですか」
「そうだ」
中隊長はペンを置いた。
「命を預かる責任、ってやつだ。
三尉、お前はそれをちゃんとわかっている。
……いや、わかりすぎている」
冗談めかした口調ではない。
評価とも、注意ともつかない響き。
「命を預かる責任を軽く見る幹部なんざ、論外だ。
だがな、重く見すぎると、今度は足が止まる」
隼人の喉が、ひゅっと鳴った。
(足が――止まる)
燃える巣穴の光景がフラッシュバックする。
幼体の泣き声。
胸を貫いた槍。
自分の息が、止まる瞬間。
谷底。
赤い光。
小鬼の手。
幾つもの“死”の記憶が脳内で重なり合う。
「……自分の判断で誰かが死ぬかもしれない。
そう考えるのは、正しい」
中隊長の声が、現実に引き戻す。
「だが、忘れるな。
お前の判断が遅れれば、やっぱり誰かが死ぬんだ」
静かだが、重い言葉。
「命を預かるってのはな、
“自分のせいで死なせるかもしれない”って恐怖と、
“それでも決めなきゃいけない”って責任を、
両方飲み込むってことだ」
隼人は、拳を膝の上で強く握りしめた。
(両方、飲み込む)
頭では、わかる。
わかるのだ。
だが、胸の奥がきゅっと痛んだ。
焼け跡の黒さ。
幼体の震え。
守れなかった責任。
あの世界の“失敗”は、
いまも生々しく隼人を締め付けている。
「……三尉」
中隊長が、少しだけ声のトーンを落とした。
「ひとつ、覚えておけ。
“全部を救う”なんて考えるな。
そんなことが出来るのは神様だけだ」
「……はい」
「だが、“今、この場で一番マシな選択をする”。
それはお前の仕事だ。
それから逃げるな。それを放り出した時点で、
幹部失格だ」
逃げるな。
その言葉に、隼人の心が反応する。
(俺は逃げているのか)
巣穴で。
炎の中で。
災害現場で。
前へ出たはずなのに、どこかで「まだ足りない」と感じ続けている自分。
「……自分は」
隼人は、少しだけ目を伏せた。
「怖がりなんだと思います。
死ぬのは、もう嫌です」
思わず、素直な言葉が口からこぼれた。
中隊長は、少しだけ目を見開き、それからふっと笑みを浮かべる。
「いいじゃないか。怖がりで」
「え?」
「怖いって思えるやつの方が、ちゃんと周りを見る。
無茶を無茶だとわかる」
中隊長は椅子の背にもたれた。
「ただな――」
そこで、言葉を区切る。
「怖いからこそ、決めろ。
怖いからこそ、準備しろ。
怖いからこそ、“死なせないために”動け」
その目は、真っ直ぐ隼人を射抜いていた。
「いいか、桐生。
お前は“命を預かる責任”を、
もう逃れられないところまで背負ってる。
なら、せめてそこから逃げるな」
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
「……了解しました」
隼人は、深く頭を下げた。
⸻
◆小さな事故
数日後。
災害を想定した屋内訓練が行われた。
老朽化した建物を模した訓練施設。
薄暗い廊下。
倒れた机。
散乱した什器。
「桐生三尉、この班の指揮を頼む」
「了解」
ヘルメットのバンドを締めながら、隼人は短く答える。
今回の想定は、
地震で建物の一部が崩れ、
内部に取り残された人員の救出。
基本的な流れは何度も繰り返している訓練だ。
だが、現場は毎回違う顔を見せる。
「視界、悪っ」
「足元、気をつけろ。瓦礫に足取られるぞ」
隊員たちが小声でやり取りをしながら、
慎重に進んでいく。
薄暗い中で、懐中電灯の光が揺れる。
埃っぽい空気。
崩れた壁材の匂い。
隼人は、先頭のすぐ後ろを進みながら、
頭の中で常に最悪のパターンを並べていた。
(天井の落下、二次崩落、火災……)
ゴブリンの巣の天井が崩れた瞬間。
炎が岩壁を舐める光景。
嫌でも、あの記憶が重なってくる。
「三尉、こっち。人形の反応あります」
隊員のひとりが、瓦礫の隙間を指さした。
訓練用の人形。
熱源センサーで“生存者役”として反応する。
「よし、周囲の補強からだ。天井見ろ」
隼人は即座に指示を飛ばす。
支柱を立て、倒れかけの梁を一時的に固定する。
手順は頭に叩き込まれている。
そのとき、聞こえた。
わずかな「ミシ」という音。
天井の、別の場所からだった。
「――止まれ!」
隼人は咄嗟に声を張り上げた。
次の瞬間、
別の部屋との境の壁の一部が、
ごそり、と音を立てて崩れた。
「うわっ!」
先頭の隊員がバランスを崩す。
崩れてきた木材が、ちょうど彼の方へ倒れていく。
(やばい――)
足が、勝手に前へ出かけた。
体が、庇いに行こうとする。
幼体に覆いかぶさった時と同じように。
槍が胸に突き刺さるあの瞬間と同じように。
だが。
「三尉! 下がってください!」
別の隊員が、横から飛び込んだ。
木材を肩で受け止め、
ぎりぎりのところで踏みとどまる。
想定上の事故だが、
重さは本物だ。
木材がきしみ、隊員の顔が苦痛で歪む。
「支柱! ここに一本追加しろ! 急げ!」
隼人は咄嗟に叫んだ。
前へ飛び込む代わりに、
支えるための指示を出す。
隊員たちが一斉に動き、
数秒後には仮の支えが完成した。
「ふうっ……助かった……」
木材から体重を外した隊員が、息を吐く。
隼人は、その場にしゃがみ込んだ。
膝がわずかに震えている。
(今、俺が飛び込んでいたら……)
きっと、あの隊員の位置に自分がいた。
木材をまともに浴びて、
打ちどころが悪ければ、首か背中をやっていた。
訓練であっても、骨の一本くらいは簡単に折れる。
(庇えたかもしれない。
でも、同じくらい、自分が潰されてた)
喉の奥が、ひりつく。
「桐生三尉、大丈夫ですか」
さっき木材を支えた隊員が、心配そうに覗き込んでくる。
「……ああ。すまん。助かった」
隼人は、なんとか笑みを作って答えた。
胸の奥では、別の声がうなる。
(俺が行かなかったから、助かった……のか?)
それとも。
(俺が飛び込んでいたら、もっと早く楽に支えられたかもしれない?)
正解は、誰にもわからない。
それが、余計に重かった。
⸻
◆夜の問い
部屋の灯りを落とすと、天井の白さがゆっくりと闇に溶けていった。
(前に出るのは……感情なのか。規律なのか。
答えがないままじゃ……また、同じところで迷う)
胸の奥がずしりと重い。
それでも、目の前に“正解”の札はぶら下がっていない。
考えても、迷っても、結局わからない。
(……このままじゃ、いつか本番で足が止まる)
自分が死ぬ恐怖。
誰かを死なせてしまう恐怖。
その間の綱渡りを、どう歩けばいいのか――。
「……もう、わからない」
隼人は、深く息をついた。
眠りに落ちた瞬間に見る夢はいつも、
決まって“あの世界”とつながっている。
それが怖い時期もあった。
だが今は――むしろ、その先に何かがある気がしていた。
(……寝たら、また向こうに行くんだろうな)
焼け跡の匂い。
幼体の小さな手。
ハヤトと呼ばれた声。
あの世界に、まだ“続き”がある。
(そこで……なにか、掴めるかもしれない)
ゆっくりと目を閉じる。
耳鳴りが、微かにした。
最初は風の音のようだった。
だが次の瞬間、それは低いざらつきに変わった。
——……きこえるか。
胸の奥に落ちてくる声。
現実とは違う、土の匂いのする声。
そして、呼ぶ。
——こい。
闇が、静かに倒れ込んでくる。
落ちるように意識が沈んだ。
(……行くよ。俺も、そっちで答えを探す)
最後にそう思った瞬間、
視界は完全に反転した。
土の匂い。
湿った空気。
光の届かない巣穴の天井。
隼人は、再び“あちら側”で目を覚ました。
――7章へ続く。




