第5章 焼け跡の記憶と、新たな“ハヤト”
◆静かな評価
風が、訓練場を横切っていった。
砂じん混じりの空気が舞い上がり、隼人の迷彩服の裾をわずかに揺らす。
「――以上だ。各分隊、解散!」
中隊長の声が響き、整列していた隊員たちが一斉に動き出した。
その中で、桐生隼人三等陸尉は、まだしばらくその場に立っていた。
「桐生三尉」
横から声がかかる。
振り向くと、中隊長がそこにいた。年季の入った顔。日焼けと皺が、現場の時間を物語っている。
「はい」
「さっきの状況判断、悪くなかった。後方の遮蔽物を使わせたのも良かった」
「……ありがとうございます」
素直にそう言って敬礼する。
けれど、胸の奥は少しざわついていた。
――もっと早く指示を出せたはずだ。
――あのタイミングなら、別の迂回路も取れた。
頭の中では、さっきの訓練の映像が何度も巻き戻されている。
中隊長はそんな隼人の表情をちらりと見て、薄く笑った。
「そんな顔をするな。あれ以上を求めるのは、結果を知っている側の贅沢ってやつだ」
「いえ、自分は……」
「桐生」
言葉を遮られた。
「お前は、もう少し『失敗の幅』を許してやれ。自分にも、部下にもな」
一拍置いてから、付け加える。
「全部を救えると思うな。現場は、そんなに都合よくない」
図星だった。
隼人は、言葉を返せなかった。
「……はい」
絞り出すように答えると、中隊長はそれ以上何も言わず、軽く肩を叩いて去っていった。
風がまた、訓練場を横切る。
(全部なんて、救えない。そんなこと、頭ではわかってるのに)
胸の奥で、あの夜の“熱さ”が、ゆっくりと目を覚ます。
燃える巣。
潰れる叫び声。
血の匂い。
そして、自分の胸を貫いた刃。
息が浅くなる。
隼人は、無意識に拳を握りしめていた。
◆夜の重さ
日が落ちて、駐屯地の灯りが点りはじめる。
シャワーを浴び、簡単にストレッチをして、隼人は自室のベッドに横になった。
天井は白い。どこにでもある、自衛隊の宿舎の天井。
なのに、目を閉じると、すぐに土の天井が浮かぶ。
低く、湿って、土と石と根っこが絡み合った、あの巣の天井。
(……また見るなよ)
そう願っても、夢は選べない。
枕元のスマホに手を伸ばして、時間を確認する。
まだ就寝ラッパには少し早い。
けれど、体の奥はもう疲れていた。
中隊長の言葉が、頭の中で反芻される。
「全部を救えると思うな」
そんなのは傲慢だ、と。
そんなことは、隼人だって理解している。
――それでも。
守れなかった命の感覚を、彼は知ってしまった。
巣の奥で震えていた幼体。
小さな手。
泣き声。
自分の影に隠れようと、必死にしがみついてきた体温。
そして、炎。
隼人は、目を閉じた。
(あのとき、もっとやりようがあったんじゃないか)
(俺がもっと早く動けていたら)
(俺がもっと強ければ)
自分で自分の首を絞めるような思考だとわかっていても、止まらない。
胸の奥が、じわり、と熱を帯びる。
あの世界で死んだ感覚は、現実の体にも刻まれている。
刃が胸を貫いた瞬間の、異常な熱と冷え。
肺から一気に空気が抜けるあの感覚。
手のひらがじっとりと汗ばむ。
(もう、死ぬのは嫌だ)
正直な本音だ。
けれど、その次の言葉も、同じくらい強く浮かんでくる。
(……でも、また誰かがああやって泣いていたら)
(目の前で手を伸ばしてきたら)
(今度は、背中を向けられない)
怖い。
でも、自分だけ逃げるほうが、もっと怖い。
そんな捻じれた感情が、胸の奥で絡まりあっていた。
息を深く吸おうとして、失敗する。
肺の奥が詰まったような感覚。
その時だった。
耳鳴りがした。
最初は、風の音のような、かすかなざらつき。
やがて、それが“聞き覚えのある音”に変わっていく。
土を擦るような、低い声。
——……きこえるか。
誰かが、呼んでいた。
耳からではない。
頭の内側。
心臓の鼓動と同じ場所に、声が落ちてくる。
(……また、か)
覚悟と諦めが半々だった。
逃げることはできない。
これはもう、そういうものだ。
一度つながってしまったのなら。
——こい。
短い、その一言で、世界が暗転した。
◆小さな巣で目覚める
湿った空気が、鼻を刺した。
土と苔と、古い血の匂い。
(――ああ)
隼人は、もう慌てなかった。
最初のときのような混乱はない。
二度目のときのような驚きも、もう薄い。
むしろ、わずかな諦念と、奇妙な懐かしさがあった。
目を開ける。
いや、開けた感覚がしただけで、実際にまぶたというものがどう動いているのか、自分でもよくわからない。
視界に映るのは、やはり巣の天井。
けれど、前の巣とは少し違っていた。
天井は低いが、ところどころに乾いた草が挟まれ、寝床のようなものが壁際に並んでいる。
奥からは小さな寝息が聞こえる。
幼体たちだろう。
自分の手を見る。
緑色。
四本指。
小さな爪。
前よりも、少しだけ細い。
骨の感触が軽い。
(……別の個体、か)
胸の奥で、冷静な声がつぶやいた。
前回のハヤトは、ホブゴブリンとして死んだ。
ならば、次のリンクで、また別のゴブリンに“生まれる”ことは、想像していた。
体を起こす。
他のゴブリンたちが、まだ眠っている気配がした。
薄い寝息と、時々鳴る喉の音。
巣の入口は、小さな穴になっている。
外から差し込む光は、柔らかい。
前の巣のような、今にも潰れそうな圧迫感はない。
(ここは……少し、安全なのか)
そう感じた瞬間、胸の奥に、わずかな安堵が浮かぶ。
しかし同時に、別の感覚が顔を出す。
耳。
いや、実際の構造はわからない。
だが“聞く器官”が、鋭く世界を拾い始める。
遠くで、石が転がる音。
小さな羽音。
巣穴の外を、風が通る気配。
今までよりも、ずっとはっきりと聞こえる。
(こんなに……聞こえていたか?)
前の体の記憶と、わずかに違う。
耳だけではない。
鼻もまた、異常に敏感になっていた。
湿った苔の匂い。
壁にこびりついた血と脂。
外の、まだ見ぬ森の匂い。
それらが、色を持つように立ち上がってくる。
胸がざわついた。
(――嫌な匂いも、これだけはっきり嗅げるってことか)
まだ、あの焦げた臭いは漂ってこない。
けれど、隼人には、なぜかそれが“どこかにある”と確信できた。
◆群れの朝
やがて巣の奥から、ざらついた声が聞こえはじめた。
——おきろ。
——でるぞ。
——ひだりの、まえの、きまで。
言葉は相変わらず理解できない。
それでも、意味だけは頭の中に流れ込んでくる。
隼人は立ち上がり、他のゴブリンたちと同じように巣の出口へ向かった。
この巣のゴブリンたちは、小さな群れだった。
五体。
そのうち二体は幼体。
残り三体のうち、最も体格の良い一体が“リーダー”らしい。
前の巣にいた、あの巨大な怪物ほどではない。
だが、この小さな巣の中では、はっきりと“強者”としての輪郭を持っている。
彼は、隼人のことを一瞥した。
——おまえ。
——きょう、いっしょ。
——みみ、いい。
——はな、いい。
(……バレてるのか)
隼人は、少しだけ苦笑したくなった。
ゴブリンの顔でそれがどう表現されているかはわからないが。
巣穴から外へ出ると、光が世界を一気に広げる。
森だ。
木々が高く伸び、その間を風が通り抜けていく。
枝葉の隙間から差し込む光は、まだ朝の柔らかさを持っていた。
鳥の声が聞こえる。
遠くで獣の呼吸音もする。
鼻腔をくすぐる匂いが、いくつも重なる。
土。
水。
木。
獣。
虫。
そして、ほんのわずかに――焦げた何かの名残。
(……やっぱり、ある)
隼人は無意識に首を巡らせた。
森の奥のどこか。
風の向きが変わるたびに、微かな臭いが跳ね返ってくる。
胸の奥がきゅっと掴まれる。
何かを思い出しそうで、でも思い出せない。
記憶ではなく、ただの“痛み”として、それがそこにあった。
◆焼け跡へ
リーダーが短く声を上げ、群れが動き出す。
森の中を進む。
足音をできるだけ殺しながら。
他のゴブリンたちも、それなりに用心深い。
だが、隼人の耳と鼻は、それを一段上から俯瞰していた。
右側の茂みの中に小動物。
少し離れた木の上に、何かがとまっている。
その上空を、別の鳥が横切っていく。
すべてが、妙にくっきりとわかる。
(索敵――そんな言葉が、頭をよぎるな)
自衛官として、何度も訓練で使ってきた言葉。
前へ出る者。
先に危険を嗅ぎ取る者。
その役割を担う個体。
その概念と、この体の感覚が、ぴたりと重なった。
——まえ。
——におい。
——みろ。
リーダーが、隼人に軽い指示を飛ばす。
どうやら、“鼻の利く新入り”として認識されているらしい。
先頭に立つ。
風が顔を撫でる。
その瞬間、鼻腔に、強烈な匂いが入り込んできた。
焦げ。
灰。
焼けた油。
血と肉と、熱の混ざった、あの匂い。
足が止まる。
喉がひゅっと鳴った。
(……ここだ)
言葉もなく、そう思った。
体が覚えている。
この匂いの正体を。
この先にあるものを。
——どうした。
後ろから、仲間の一体が肩を小突いてきた。
隼人は、ゆっくりと首を巡らせる。
木々の間。
少し開けた場所。
そこだけが、不自然な色をしていた。
黒い。
土も、岩も、折れた木も。
全てが、焦げた黒に覆われている。
風が吹くたびに、細かい灰が舞い上がる。
足を、一歩踏み出した。
そこは――誰もいない巣の跡だった。
◆胸の痛み
焼け跡の中心に、足を進める。
一歩ごとに、足の裏から何かが伝わってくる。
焦げた木の感触。
崩れた石の鋭さ。
そこにあったはずの“体温”の欠片。
何かを思い出そうとする。
だが、具体的な映像は浮かばない。
代わりに、感情だけが押し寄せてくる。
怖い。
悔しい。
苦しい。
守れなかった。
胸が、きゅっと縮む。
さっきまで普通に呼吸できていたのに、急に空気が薄くなったような気がした。
視界の端が、少し揺れる。
(ここで……何かがあった)
確信だけが、はっきりしている。
その記憶に、名前をつける語彙はない。
けれど、心臓はそれを“知っている”。
足元で、何かが光った。
灰の上に半分埋もれていた、小さな金属片。
しゃがみ込んで、手を伸ばす。
拾い上げると、それは人間の武器の一部だった。
矢じりか、短い刃か。
細く、鋭く、どこか見覚えのある形。
その瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。
焼けるような痛み。
同時に、氷を押し込まれたような冷たさ。
“そこ”を、何かが貫いた感覚。
(――ああ)
遅れて、理解が追いついた。
ここで、自分は、一度死んだのだ。
今の“自分”ではない、別の個体。
だが、同じ魂の断片。
視界の中で、黒い焼け跡が一瞬だけ赤く染まる。
炎の残像が、脳裏をかすめる。
小さな手。
泣き声。
熱と煙。
言葉にならない叫びが、喉に上がってきた。
「……っ」
ゴブリンの喉で、掠れた声が漏れる。
それは悲鳴とも、唸りともつかない音だった。
——おい。
背後から声がした。
——そこ。
——まえの、すみか。
——ひ。
意味が、ふらふらと頭の中に届く。
この群れのゴブリンたちも、知っているらしい。
——あいつら、もえた。
——にんげん。
——おおきい、もの。
——きて、きった。
焼け跡の匂いの中で、隼人はゆっくりと立ち上がった。
(にんげん)
その言葉だけが、やけに鮮明に響いた。
胸の痛みと、匂いと、金属片の冷たさ。
全てが、その単語にひとまとめにされる。
自分もまた、“にんげん”だった。
別の世界で。
そして、別の“にんげん”が、この世界で、自分を殺した。
捻じれた因果が、胸の中に渦を巻く。
「……」
何かを言おうとして、やめた。
言葉を探しても、この喉ではうまく形にできない。
代わりに、灰の中から拾い上げた金属片を、ぎゅっと握りしめた。
手の中で、刃の欠片が皮膚を少しだけ切る。
血の匂いが、焦げの中に新しく混ざった。
雨は降っていないのに、どこかで水の滴る音がした。
◆気配を嗅ぐ
焼け跡を離れ、群れは再び森の中へ戻った。
リーダーは何も言わなかった。
隼人の様子をちらりと見るだけで、特に咎めもしない。
その代わり、群れの並びが少し変わった。
隼人が、自然と先頭に立つ位置に押し上げられていた。
——まえ。
——おまえ。
——みみ、つかえ。
短い指示。
(……索敵要員、ってことか)
内心で苦笑しながらも、隼人は何も言わず前を見据えた。
耳を澄ます。
鼻を利かせる。
風が音を運んでくる。
遠くの枝が揺れる音。
小さな獣が走る音。
土の上に落ちた何かが転がる音。
その中に――“違和感”が混ざった。
規則性のある、硬い音。
土を踏むにしては、角張りすぎている。
獣にしては、重さの質が違う。
金属と革と、布の擦れる音。
嗅覚にも、違う匂いが混じった。
鉄。
油。
火薬。
現実世界で、何度も嗅いだことのある匂い。
(……人間だ)
思考がそれを告げるより先に、体が反応していた。
隼人は、反射的に手を上げる。
群れを止める合図。
——とまれ。
自分でも驚くほど、声に力がこもっていた。
後ろのゴブリンたちが足を止める。
——なに。
——まえ。
——なにが、ある。
リーダーが低く問う。
隼人は言葉を探した。
この喉では、うまく説明できない。
それでも、伝えなければならない。
「……に……ん。げん」
濁った発音で、絞り出す。
——にんげん?
群れ全体の空気が、瞬間的に固くなった。
焦りと恐怖と警戒が、一斉に立ち上がる。
——どこ。
——どっち。
リーダーがさらに詰める。
隼人は、耳と鼻が告げる方向を指差した。
木々が少し薄く、開けた方角。
そこから、確かに気配が近づいている。
足音は二つ。
重さの違う二人分。
片方は重く、ゆっくり。
もう片方は軽く、少しせっかちな歩き方。
視界に入る前に、そこまで読み取れた。
(……スカウト、なんてレベルじゃないな)
自嘲混じりに思う。
けれど同時に、冷静さもあった。
距離。
速度。
匂い。
風向き。
全てを短時間で組み合わせ、最も被害の少ない行動を選ぶ。
(逃げるなら、今だ)
そう判断して、隼人は、短く吠えた。
「……ひく。した。もどれ」
完全な文法ではない。
それでも、“下がれ”という意味は通じる。
リーダーが、わずかに目を見開いた。
——きこえる、のか。
——みえない、のに。
驚きと感心と、少しの恐怖。
次の瞬間、リーダーは即座に行動に移った。
——さがる。
——いちど、かるく。
——みるだけ。
群れが、音を殺して後退する。
木々の影に身を潜め、視界の隙間から前方を窺う。
やがて、彼らは現れた。
二人。
片方は簡素な革鎧、片方は鎖帷子をまとい、腰には剣。
背中には荷物と、短い槍。
典型的な“冒険者”と呼ばれるような姿。
彼らは、焼け跡のほうではなく、別の方向へと進んでいく。
目前を通り過ぎ、やがて気配が遠ざかる。
群れの中に、安堵の息が広がった。
——きづかれ、なかった。
——さっき、はやく。
——わかって、よかった。
リーダーが、隼人をじっと見る。
——きこえた。
——におい、わかった。
——おまえ、め。いい。
評価の色が宿っていた。
隼人は何も言わなかった。
ただ、焼け跡で拾った金属片を、腰の布切れにくるみながら、静かに息を吐いた。
(……今度は、逃げられた)
それが、少しだけ救いだった。
◆名前の残響
その夜。
巣に戻ったあと、他のゴブリンたちが眠りについた時間。
隼人は、一体だけ外に出ていた。
巣穴の入口に腰を下ろし、森の匂いを嗅ぐ。
風向きは変わっている。
焦げた匂いは、もうほとんど届いてこない。
それでも、胸の奥の痛みは消えなかった。
(俺は、誰だ)
ゴブリンとしての“自分”には、まだ名前がない。
この群れでは、名前という概念があまり強くない。
体格や特徴で呼び分ける程度だ。
長く生き、力を持つ個体だけが、特別な呼び名を与えられる。
前回、自分はその一歩手前まで行った。
幼体が、震える声で呼んだ。
「……ハ、ヤ……ト……」
あの濁った声が、今も耳に残っている。
(ハヤト)
自分の名。
桐生隼人。
その一部。
口の中で転がしてみる。
「……ハ……ヤ……」
ゴブリンの喉では、少し歪んだ音になった。
それでも、自分にははっきりと聞こえる。
(俺は、隼人だ)
現実世界での自分。
でも同時に、この世界での自分も、たしかに存在している。
焼け跡の記憶。
幼体の泣き声。
刃の痛み。
それらが、同じ線の上に並んでいる感覚。
「……ハヤト」
今度は、少しだけはっきりと発音できた。
その瞬間、巣の奥から、小さな頭がひょこりと覗いた。
先ほどまで眠っていたはずの幼体の一体だ。
眠たげな目で隼人を見つめ、ぽつりと口を開く。
——ハヤト。
濁った音。
それでも、確かにそう聞こえた。
隼人は、思わず目を見開いた。
「……いまの」
——ハヤト。
——さっき、いった。
——おまえ。
——ハヤト。
幼体は、当然のように続けた。
それは、ただの音の真似かもしれない。
意味もなく繰り返しているだけかもしれない。
それでも。
胸の奥で、何かがぴたりと“はまった”。
名前を得た感覚。
この世界での“自分”が、輪郭を持ち始める。
焼け跡で死んだホブゴブリン。
幼体を守ろうとして、命を落とした個体。
その名を、別の体が継いだ。
輪廻。
継承。
断ち切れない線。
「……そうか」
隼人――いや、ハヤトは、ゆっくりと笑った。
ゴブリンの顔で、それがどんな表情になっているかはわからない。
けれど、胸の奥は、少しだけ軽くなっていた。
「おれは、ハヤトだ」
改めて、そう名乗る。
幼体が、嬉しそうに目を細める。
——ハヤト。
その呼び声を聞いた瞬間、胸の奥で熱が生まれた。
前回、ホブゴブリンへと進化したときの“あの感覚”とは違う。
もっと静かで、深い熱。
耳が、さらに世界を拾いはじめる。
鼻が、森の隅々まで嗅ぎ取る。
索敵者としての資質が、形を取り始めている。
(今度は、逃げるだけじゃない)
静かに思う。
危険を、誰よりも早く嗅ぎ取る。
危険から、誰かを遠ざける。
そのための“ハヤト”として、ここにいる。
そんな役割が、ぼんやりと見えてきた。
◆現実の夜
光が、世界を反転させた。
巣穴の天井が薄れ、代わりに白い天井が迫ってくる。
蛍光灯。
塗装のムラ。
日本の駐屯地の宿舎。
隼人は、勢いよく上体を起こした。
心臓が、激しく鳴っている。
汗が額を流れ落ちる。
息を吸う。
肺に空気が入り込む。
さっきまで嗅いでいた森の匂いは、もうここにはない。
代わりに、消毒液と古い建物の匂いがある。
視界の端で、スマホの画面が光っていた。
時間は、日付が変わる少し前。
隼人は、しばらくベッドの上で固まっていた。
焼け跡。
金属片。
人間の足音。
幼体の声。
「ハヤト」
あの呼び声が、まだ耳の奥に残っている。
(……また、名前をもらったのか)
現実世界では、桐生隼人。
異世界では、ゴブリンのハヤト。
二つの世界で、同じ名前が呼ばれている。
それは、妙な感覚だった。
自分が二重に存在しているような。
一本の糸が、別の布地にも織り込まれているような。
隼人はベッドから降り、窓のカーテンを少しだけ開けた。
夜の駐屯地が、静かに広がっている。
外灯の下で、風に揺れる旗。
遠くに見える演習場の黒い影。
あの向こうにも、焼け跡がある。
訓練で使った建物。
火災を模した訓練施設。
本物の焼け跡ではない。
それでも、隼人には、それが別の“焼け跡”と重なって見えた。
守れなかった場所。
守れなかった命。
それでも、まだ続いている世界。
「……全部は、無理かもしれませんけど」
誰にともなく、呟く。
「それでも、気づける危険は、全部嗅ぎ取りますよ、中隊長」
森の中で感じたあの感覚。
人間の足音。
匂い。
気配。
あれを現実世界に持ち込めたら――。
(俺は、もっと前で守れる)
それは、傲慢かもしれない。
それでも、そうありたいと願う気持ちは、もう止められなかった。
窓の外の暗闇を見つめながら、隼人は胸の奥の熱を確かめる。
焼け跡の記憶。
新しい“ハヤト”の目覚め。
それらが、ひとつの線につながっていく。
(まだ、終わってない)
静かにそう思ったとき、
耳の奥で、かすかなざわめきがした気がした。
——まえ。
——きけ。
——まもれ。
ゴブリンの声とも、自分の心の声ともつかない囁き。
隼人は、小さく笑った。
「……了解だ」
誰にともなく、そう返事をする。
夜の駐屯地は静かだ。
だが、その静けさの下で、
ひとつの“索敵者”の感覚が、確かに育ち始めていた。




