第4章 生きるために前に出る
◆燃える巣穴の夢
息が切れていた。
桐生隼人は、真夜中の寮のベッドの上で
大きく肩を上下させていた。
喉が焼けるみたいに乾いている。
胸の奥が、まだ熱い。
「……また、かよ」
額に手を当てる。
冷たいはずの自分の手が、やけに遠く感じた。
さっきまで見ていたのは、
現実じゃない方の世界だ。
燃える巣穴。
赤く染まった岩壁。
倒れるゴブリンたち。
そして――
『ハヤト……! ハヤト……!』
小さな手。
灰と涙でぐしゃぐしゃになった顔。
あの幼体の泣き声が、耳の奥にこびりついている。
人間の剣が振り下ろされる。
火の粉が舞う。
悲鳴が消えていく。
最後に胸を貫いたのは、
“人間の槍”だった。
「……怖ぇよ」
隼人は、小さく呟いた。
怖い。
もう死ぬのは嫌だ。
谷で落ちた夜も。
巣穴で潰された時も。
燃える中で刺し貫かれた時も。
全部、本当に死んだと思った。
心臓が止まって。
視界が黒く沈んで。
何も感じなくなって。
そこから、また戻される。
現実に。
桐生隼人としての世界に。
枕元の時計を見る。
午前三時を少し回っていた。
明日は任務がある。
寝なきゃいけないのはわかっている。
それでも目を閉じるのが、怖かった。
目を閉じたらまた、
あの燃える巣穴に“落ちて”しまいそうで。
「……でもな」
隼人は、自分の胸に手を当てた。
鼓動は、ちゃんとここにある。
生きている証拠だ。
だけど、
この心臓にはもう、ひとつ別の重さが乗っている。
守れなかった声。
消えていった命。
あの泣き声だけは、忘れられなかった。
⸻
◆現場の空気は、あの日と似ている
翌日。
空は、いやなほど澄んでいた。
桐生隼人・三等陸尉は、
部隊の車両の後部座席に揺られていた。
今日の任務は、災害派遣だった。
山間部で大きな崩落があり、
集落の一部が土砂で埋まった。
行方不明者が出ている。
家屋も何軒か倒壊した。
「桐生三尉、現場に着いたらまず安全確認だ。
隊員をばらけさせるなよ」
前の席から、上官が振り返りもせずに言った。
「了解しました」
声は自然に出た。
さすがにもう、返事ひとつで噛んだりはしない。
だが、手のひらには汗がにじんでいた。
現場に近づくにつれ、
焦げたような匂いが車内にまで入り込んでくる。
土と木が崩れた匂い。
どこかでガスが漏れている匂い。
湿った煙の匂い。
(……似てる)
隼人の喉が、ひゅっと鳴った。
燃える巣穴の空気と、
ほんの少しだけ、似ていた。
車両が止まり、扉が開く。
冷たい風が顔を撫でた。
「降りろ。急ぐぞ」
「はい」
ブーツが土を踏む。
視界の先には、崩れた家屋の残骸があった。
屋根が沈み、
壁が斜めに倒れ、
柱が途中で折れている。
周囲には、避難してきた住民たち。
泣き声。
怒鳴り声。
必死に誰かの名を呼ぶ声。
(泣き声……)
胸が締めつけられた。
あの幼体の声と、
この世界の子どもの泣き声が、
一瞬だけ重なった。
「桐生三尉、こっちだ」
上官の声で、なんとか意識を現場に繋ぎ止める。
状況確認。
崩落範囲の把握。
隊員の配置。
やることはわかっている。
「第一班はこっちの家屋だ。
第二班は裏側から回れ。
危険箇所のマーキングを忘れるな」
指示は正確に出せた。
声も震えていない。
それでも、
胸の奥はざわざわと落ち着かなかった。
「三尉、顔色、悪いぞ」
近くにいた先輩隊員が、小声で言った。
「大丈夫です。寝不足なだけです」
そう答えると、
先輩はそれ以上は追及しなかった。
仕事は仕事。
感情は後回しだ。
頭ではわかっている。
自衛官なら、誰だってそうだ。
◆「怖い」より先に動いていた
救助が始まってから、
時間の感覚は曖昧になった。
土を掘り、
瓦礫をどかし、
声をかける。
「誰か聞こえますか!」
何度も何度も、同じ言葉を繰り返す。
返事がない場所の方が、まだ多かった。
汗が目に入る。
軍手の中はもうびしょびしょだ。
「桐生三尉! こっち!」
少し離れた位置から、隊員の叫び声がした。
振り返ると、
崩れた家屋の隙間で、誰かが手を振っていた。
「生活スペースっぽいところを見つけました!
声、しました!」
隼人の心臓が跳ねる。
そこは、さっき危険だと判断して
後回しにしていたエリアだった。
屋根が不安定で、
いつ崩れ落ちるかわからない。
それでも、
そこから“生きている人”の声がした。
「……行くぞ。安全確認急げ!」
隼人は駆け寄りながら指示を飛ばす。
屋根を支える仮設の支柱。
崩落を防ぐためのロープ。
隊員の配置。
頭の中で、最悪のパターンを全部並べる。
そして――一番マシな手を選ぶ。
瓦礫の隙間から、
小さな声が聞こえてきた。
「……だれか……」
子どもの声だった。
喉が詰まりそうになる。
息が乱れる。
(やめろ。今じゃない)
自分に言い聞かせる。
怖い。
足がすくみそうだ。
屋根が落ちてくれば、
自分ごと押し潰される。
谷で落ちた時みたいに。
巣穴で岩が崩れた時みたいに。
死ぬのは嫌だ。
本当に嫌だ。
心臓が「逃げろ」と叫ぶ。
けれど――その直後。
『ハヤト……! ハヤト……!』
耳の奥で。
別の泣き声が重なった。
煤だらけの、小さな両手。
必死に伸ばされた腕。
届かなかった、あの最後の瞬間。
守れなかった。
あの時、自分は死んだ。
何も守れないまま。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
(もう、あの泣き声は聞きたくない)
怖い。
怖いに決まっている。
死にたくない。
本音を言えば、それが一番だ。
でも――
守れなかったまま死ぬくらいなら。
守って死んだ方が、まだマシだ。
巣穴で、そう思った。
あの燃える中で。
だから――
「俺が行く。支えを強化しろ!」
気づいた時には、
もう前に出ていた。
隊員の制止が飛ぶ。
「三尉、危険です! 崩れたら――」
「だから急ぐんだろ!」
隼人は低く身を伏せ、
瓦礫の隙間に体をねじ込んだ。
ホブゴブリンとして身についた、
低姿勢での移動が自然に出る。
屋根のきしむ音。
落ちてくる砂埃。
ギリギリの空間。
「大丈夫だ。すぐ出る」
自分に言い聞かせながら、
奥へ、奥へと進む。
小さな手が見えた。
泣き腫らした顔が、砂の中から覗いている。
「怖かったか」
思わず、
ゴブリンの幼体に話しかけた時と同じ口調になった。
「……うん」
子どもはかすかに頷いた。
まだ生きている。
それだけで、胸が熱くなる。
「よし、今から引っ張るぞ。目つぶってろ」
隼人は瓦礫の位置を一瞬で確認した。
どの木材をどかせば、
どこまでなら崩落を耐えられるか。
頭の中で、線が引かれていく。
ホブゴブリンとして身についた“巣穴の感覚”が、
ここでも役に立っていた。
木材を押し、
体をひねり、
子どもの腕を掴む。
「行くぞ。絶対離すな」
子どもが、ぎゅっと手を握り返した。
その瞬間、屋根が大きく軋んだ。
「三尉! 急げ!」
外から先輩の叫び声が届く。
崩れるか、守れるか。
ぎりぎりのライン。
(守れなかったまま、終わりたくない)
隼人は、全力で這い出した。
◆俺は、生きるために前に出る
外に出た瞬間、
大きな音を立てて屋根の一部が崩れた。
土煙が舞い、視界が一瞬白くなる。
「桐生三尉! 無事か!」
「……生きてます」
隼人は、腕の中の子どもをそっと下ろした。
子どもは咳き込みながらも、
はっきりと息をしていた。
土と涙でぐしゃぐしゃの顔。
でも、その目にはちゃんと“光”があった。
その瞬間、
燃える巣穴で消えていった幼体の姿が、胸の中で重なった。
守れなかった命。
守れた命。
どちらも、確かにあった。
「ありがとう、お兄ちゃん……!」
子どもが、かすれた声でそう言った。
隼人の胸に、じわりと何かが広がった。
あの時は、
名前を呼ばれながら死んだ。
ハヤト、と。
泣き声に縋られながら。
今、
桐生隼人として、
「ありがとう」と言われて生きている。
この差は、大きい。
現場の整理が終わり、
日が暮れていく。
駐屯地に戻る車の中で、
隼人は窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
「……怖かったか?」
前の席から、上官がふいに言った。
「正直に言えば、かなり」
隼人は笑いながら答えた。
強がりではない、半分本音の笑いだった。
「けど、足は止まらなかったな。
いい動きだったぞ」
「……ありがとうございます」
褒められて、ようやく少しだけ実感が湧いた。
怖い。
それは変わらない。
もう死にたくない。
それも本音だ。
だけど――
あの泣き声を、もう二度と聞きたくない。
守れなかったまま死ぬくらいなら。
守って死んだ方が、まだいい。
巣穴で死んだハヤトは、
そこまでの覚悟を、もう持っていた。
桐生隼人も、
その感情をちゃんと引き継いでいる。
だから俺は、次も前に出る。
恐怖よりも、
守れなかった悔しさの方が重いから。
寮に戻り、
シャワーを浴びて、
ベッドに横たわる。
天井を見上げて、
隼人は小さく息を吐いた。
「……俺は、生きる」
誰に聞かせるでもない、
ただの独り言。
でも、その言葉には、
今までと違う“重み”があった。
死ぬためじゃない。
逃げるためでもない。
守るために、生きる。
桐生隼人として。
そしてきっと、どこかの世界のハヤトとしても。
そうやって、二つの世界で、
同じ魂が息を続けていくのだと思った。




