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第2章 卒業と三等陸尉——ホブゴブリンへの第一歩

◆卒業、そして三等陸尉


春の風が、校庭をかすめていった。

制服の肩章が、かすかに揺れる。


桐生隼人は、整列した列の中に立っていた。

前を見ているふりをしながら、視線は少しだけ遠くをさまよう。


「――桐生隼人」


名前が読み上げられる。

一歩前に出て、答礼する。


拍手が、遠くで鳴っていた。

耳には届くのに、どこか現実味がない。


(……終わった、のか)


防衛大学校の卒業式。

四年分の積み重ねの“区切り”。


壇上での訓示が続く。

規律、使命、自衛官としての誇り。


ひとつひとつの言葉は、今まで何度も聞いてきたはずだ。

それでも、隼人の胸の奥には、別の記憶がこびりついている。


谷の底。

折れた枝。

潰れた視界。


そして――

緑の手。

小さな巣穴。

血の匂い。


「卒業、おめでとう!」


式が終わったあと、背中を叩かれた。

振り向くと、同期の山下がいた。


「生きてここにいるの、普通にすごいからな、お前」


「おおげさだろ」


軽く笑って返す。

それでも、胸の奥が少しだけ痛んだ。


あの夜のことを、隼人は誰にも話していない。

「落ちて気を失った」「病院で目覚めた」

それだけが、公式の記憶だ。


本当は。

落ちた先で一度“死んだ”感覚がある。


そして、“別の場所”で目を覚ました。


あれを、夢だと切り捨てるには、あまりにも生々しかった。


「写真撮るぞー! おい、桐生、真ん中来い!」


山下に腕を引かれ、同期たちの輪の中に入る。

肩を組まれ、何枚もシャッターが切られた。


笑顔を作る。

この瞬間を後悔したくはない。


(俺は、桐生隼人だ。

 ここまでは、ちゃんと生きてきた)


それは、現実を確かめるための呪文みたいだった。


◆ 新しい肩章と、普通の日常


卒業後の時間は、驚くほど淡々と過ぎていった。


幹部候補生学校での課程。

座学、訓練、シミュレーション。


隼人は必要なことを淡々とこなした。

体はもう問題なく動く。

医師にも「後遺症はない」と言われた。


あるとすれば、胸の奥の違和感だけだ。


夢を見る夜があった。

巣穴。

小さな影。

潰れる頭。


目が覚めるたびに、心臓が少しだけ早く打っていた。


それでも日常は進む。

時間は待ってくれない。


ある日、階級章が渡された。

銀色の一本線。


三等陸尉。

幹部自衛官としての、最初の肩書き。


「桐生三尉、今後ともよろしく頼む」


上官がそう言った時、やっと実感が少し追いついた。

敬礼を返すと、背筋が自然と伸びる。


(ここからがスタートだ)


そう思った。

思いたかった。


◆ 静かな違和感


赴任先の駐屯地は、海からの風が少し強い場所だった。

建物の角で風が巻き、旗が大きくはためく。


「今日からこの中隊に配属だ。桐生三尉だ」


上官の紹介に合わせて、一斉に視線が集まる。

年上の隊員たち。

同世代の幹部候補。


隼人は一歩前に出て、名乗った。


「桐生隼人、三等陸尉です。よろしくお願いします」


声は思ったより落ち着いていた。

何度も練習したわけでもないのに。


その日の午後は、配置の説明や必要な手続きをこなした。

装備庫の場所、訓練場の範囲、各分隊の役割。


すべて、現実の仕事だ。

どこにも“異世界”なんて影はない。


……はずなのに。


ふと、暗がりの隅に目が行くことがある。

倉庫の陰。

建物と建物の間。


誰もいない。

何もない。


それでも、視線がそちらに吸い寄せられる。


「どうした、桐生三尉」


横に来た先輩が声をかけた。

柔らかい口調だ。


「いえ、なんでもありません」


隼人は、いつものように笑って見せた。

胸の奥のざわつきは、誤魔化すしかない。


夕食後、寮の部屋に戻る。

まだ荷物は完全には片づいていない。


ベッドに寝転がる。

天井を見上げた。


(ここが、俺の新しい場所か)


スマホの時間を確認する。

通知を数件流し見して、画面を伏せる。


目を閉じると、体が急に重くなった。

一日の疲れが一気に押し寄せる。


大きく息を吐いた、その時だった。


◆再び、落ちる


胸の奥が、じわりと熱くなる。

心臓の辺りが、内側から押し広げられる。


(……ああ、これ)


覚えのある感覚だった。

谷で落ちた夜。

病院のベッド。

あの「間」にいたときの、あの圧迫感。


鼓動が速くなる。

脈が跳ね、血が全身を駆け巡る。


呼吸が浅くなった。

空気が足りない。


起き上がろうとして、体が動かないことに気づく。

布団に沈む、というより、

もっと深い場所に引き込まれる感覚。


(やめろ……今は、やめろ)


心の中で叫ぶ。

言葉は音にならない。


耳鳴りがした。

砂を擦るような、ざらついた音。


——きこえるか。


声がした。

はっきりと。


——きりゅう。

——……いや、ハヤト。


誰かが、名前を呼んだ。

“桐生”でもあり、“隼人”でもある、曖昧な呼び方。


視界の端から、色が剥がれていく。

天井も、壁も、ベッドも消える。


代わりに、湿った土と、暗い空間が滲み出てくる。


◆巣穴の中の、小さな震え


目を開けた。

いや、開けた感覚がした。


そこは、やっぱり巣穴だった。

低い天井。

土と岩が混ざった壁。

どこかで水滴が落ちる音。


(……また、ここか)


自分の手を見下ろす。

前回より、少しだけ大きくなっている気がした。


緑色の皮膚。

太くなった指。

鋭い爪。


それでも、まだ「小鬼」の範囲だ。


巣の隅で、何かが震えていた。


小さなゴブリンの幼体だった。

体を丸め、両腕で頭を抱えている。


喉の奥から、かすかな音が漏れていた。


「……ギ……」


言葉ではない。

それでも、意味は伝わってきた。


——こわい。

——いたいの、いやだ。

——くらいの、きらい。


胸の奥が、ちくりと痛くなった。


他のゴブリンたちを探す。

巣穴の入口のほうで、数体が慌ただしく動いていた。


外の様子を伺いながら、荷物らしきものを抱えている。

逃げる準備をしているのが、見て取れた。


幼体の方を見ようともしない。


(置いていく気かよ)


自分でも驚くくらい、苛立ちが湧いた。


ゴブリンという種族の本能なのか。

それとも、人間としての記憶がそうさせるのか。


桐生隼人としての声が、頭の奥で呟いた。


——任務で一人を置き去りになんて、できないだろ。


巣穴の外で、低い咆哮が響いた。

地面が震える。


敵だ。

前にも見たことのある、あの“巨大な何か”。


幼体の震えが増す。

くぐもった声が、泣き声に近づいた。


入口付近のゴブリンたちが、我先にと奥へ走り込んだ。

幼体の存在なんて、始めからなかったみたいに。


「おい、待て!」


声を出していた。

自分でも驚いた。


もちろん、言葉は通じない。

振り向く者はいない。


巣穴の入口の影が、ゆっくりと大きくなった。

外の光が遮られ、空気が重くなる。


咆哮。

爪が岩を削る音。

獣の息。


幼体が、小さな声で鳴いた。


——こわい。

——たすけて。

——しにたくない。


それは、言葉じゃない。

ただの感情の塊。


なのに、隼人にははっきり伝わった。


(……そりゃ、そうだよな)


胸が熱くなる。

膝が震える。


逃げろ、という本能が叫んでいた。

ここにいたら、また潰される。


でも。


「ここは、もう嫌なんだよ」


誰に言うでもなく、呟いた。

ゴブリンの喉から出る濁った声は、自分でもよく聞き取れない。


それでも、想いだけははっきりしていた。


(もう、一人で死ぬのはごめんだ。

 守れるなら、守りたい)


隼人は幼体の前に立った。

小さな体を、自分の影の中に隠すように。


巣穴の入口に、巨大な影が現れた。

あの怪物だ。

牙を剥き、岩を砕きながら中へ侵入してくる。


前回はただ、見ていることしかできなかった。

今回は違う。


足は震えている。

でも、退かなかった。


「来るなら、こいよ」


ゴブリンの喉で、そんな言葉を吐いた。

意味なんて、相手には伝わらない。


それでも、目だけは逸らさなかった。


爪が振り下ろされる。

肩が裂けた。

血が噴き出す。


痛みが、脳を焼く。

それでも、後ろの幼体だけは守りたかった。


幼体の小さな手が、足首にしがみついている。

その震えが、隼人の背中を押した。


◆「ハヤト」の名で、進化する


胸の奥が、急に熱くなった。

さっきまでとは、次元の違う熱さだった。


心臓が爆発しそうに脈打つ。

骨の一本一本が、内側から軋んだ。


視界の高さが、変わる。

さっきまで見上げていたはずの天井が、少しだけ近くなった。


腕を見る。

太くなっていた。

筋肉が盛り上がっている。


皮膚の色が深く、濃くなった。

重さの感覚が変わる。


巣の奥で、他のゴブリンたちが怯えた声を上げた。


——でかい。

——かわった。

——あれ、だれだ。


幼体が、隼人の背中から顔を出した。

大きくなった体にしがみつきながら、小さな声を漏らす。


「……ハ、ヤ……ト……」


濁った発音だった。

それでも、確かにそう聞こえた。


ハヤト。

自分の名前。


桐生隼人。

その“隼人”の部分だけが、切り出されて呼ばれた。


胸の奥で、何かが合致した。


(ああ、そうか。

 こいつらにとっての俺は、“桐生隼人”なんて長い名前じゃない)


(この世界での俺は――)


「ハヤトだ」


自分の口で言った。

ゴブリンの喉で、はっきりと言葉を刻む。


名前を名乗った瞬間、

体の中を走る熱がさらに増した。


筋肉が締まり、骨の位置が定まる。

視界が一段、また一段と鮮明になる。


ホブゴブリン。

その言葉が、どこからともなく浮かんだ。


強者。

群れを導く者。

そういう種類の存在。


目の前の怪物が、一歩下がった。

さっきまでの“獲物を見る目”ではない。

警戒の色が混じっている。


巣穴の奥から、小さな囁きがした。


——ハヤト。

——ハヤト、つよい。

——まもった。


幼体の手の震えが少し弱くなった。

隼人――いや、ハヤトは、ゆっくりと一歩前へ出た。


敵と、自分の間に、幼体を完全に隠すように。


「……ここは、通さない」


言葉は通じないだろう。

それでも、構えれば伝わるものがある。


咆哮。

一瞬の睨み合い。


怪物は、しばらく唸り声を上げたあと、

ゆっくりと身を翻した。


巣穴の外へ退いていく。

その足音が遠ざかるたび、巣の中の緊張がほどけていく。


静寂が訪れた。


ハヤトは、大きく息を吐いた。

胸の奥の熱は、まだ完全には引いていない。


(守れた、のか)


足元に視線を落とす。

幼体が、しがみついたまま、じっとこちらを見上げていた。


「……大丈夫だ」


そう告げた瞬間、

視界がふたたび揺れた。


巣穴が遠ざかる。

幼体の顔も、ゴブリンたちの影も、薄くなっていく。


代わりに、白い天井が近づいてきた。

蛍光灯。

布団の感触。


現実の世界だ。


寮の天井がそこにあった。

胸の鼓動だけが、まだホブゴブリンのリズムで鳴っている気がした。

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