第12章 『選ばなかった戦場と、守り続ける世界』
風の音が違っていた。
隼人は、統合幕僚学校の講堂の壇上に立っていた。
椅子は百ほど。
そこに座っているのは、少佐や中佐の幹部候補、海外派遣経験者、そして一部の文官たち。
前列には、かつて自分を諭した中隊長――今は陸将となった人物が腕を組んでいる。
スクリーンに映し出されているのは、
海外任務で撮られた“あの斜面”の写真だった。
銃撃も、爆発も写っていない。
ただ、乾いた風が吹き抜ける岩肌。
しかし、その岩肌を“撃たずに超えた”経験が、いまの隼人の全てだった。
「……以上が、『撃たせない専守防衛』について、私の考えです」
隼人はレーザーポインタを置き、深く一礼した。
会場はしばらく静かだった。
だが、静けさは拒絶ではなく、理解に時間が必要な種類の空気だった。
最前列の陸将が、ゆっくりと手を叩いた。
その拍手が広がり、講堂は温かな音に包まれる。
――ここから、変わるのかもしれない。
隼人はそう思った。
誰かに強い言葉で訴えたわけではない。
ただ、経験を話し、
守るために必要な「前へ出る距離」のことを語っただけだ。
だが、若い幹部候補たちの目は明らかに変わっていた。
(撃たれないのが理想だ。
撃たせないのが、防衛だ。
でも――撃たせないためには、危険な場所に先に立たなきゃいけない)
それはゴブリンの森で学んだことでもあった。
逃げ道を作り、危険の匂いを嗅ぎ、前へ出た。
それでも救えない命があり、守りきれない瞬間があった。
守るだけでは届かない“揺らぎ”があった。
だが、その苦い経験は、二つの世界で隼人を強くした。
⸻
◆昇任の夜
講演から数週間後、
統合幕僚監部の階段を降りたところで名前を呼ばれた。
「桐生三等陸佐――いや、桐生新・陸将補殿」
隼人は立ち止まった。
差し出された封筒には、
黒い文字で「辞令」と書かれている。
ゆっくりと開けると、その中にあったのは――
『桐生隼人を陸将補に任ずる』
その瞬間、胸に火が灯るような感覚が走った。
昇任は階級の問題ではない。
背負う責任の質が変わる。
現場に立つ“隊長”ではなく、
“命を預かる仕組みそのもの”を設計する側に踏み込んだことを意味している。
そして――
その瞬間、隼人の視界の端で、何か黒いものが揺れた。
(……来たな)
あの森の気配。
あの生々しい土と、木と、煙の匂い。
隼人は、その夜ゆっくりと眠りについた。
⸻
◆シャドウの森へ
目を開けると、静寂があった。
鳥の鳴き声も、獣の足音も遠い。
そこはかつての森ではなく、
もっと広く、もっと静かで、
どこか“整っている”森だった。
そして、その中心に――
黒い影が立っていた。
大きな体躯。
鋭い爪。
だが、眼は驚くほど静かだった。
ブラックゴブリン――ロード・ハヤト。
隼人と同じ顔ではない。
だが、胸の奥で同じ鼓動をしている存在。
「……来たのか」
低い声が、森に響いた。
「おまえ、しょうほ、ってやつに、なったんだろ?」
隼人は苦笑した。
「よく知ってるな」
「わかる。
おまえの“なか”が、かわったのが」
ロード・ハヤトは、森を一望するように顎を上げた。
「こっちは、もうだいじょうぶだ。
まもらなくていい。
にんげんも、もうこない。
おれが、ここをおさえてる」
かつての弱さも、恐怖も、
森の揺らぎもすべて消えていた。
ゴブリンたちは強く、
もう“守られる側”ではなかった。
「日本はどうなんだ?」
ロードは聞いた。
隼人は、しばし言葉を探した。
「……始まったばかりだよ。
守る相手は多い。
守り方も、まだ定まってない。
危険もあるし、面倒も多い」
ロードはうなずいた。
「じゃあ、おまえの――
“まえへでるりゆう”は、そっちにあるのか?」
隼人は答えなかった。
森に吹く風が、二人の間を静かに通り抜ける。
どちらにも傾かない、ただの夜風。
「どっちえ、いく?」
ロード・ハヤトの声は、
決断を迫るのではなく、
問いそのものを“置いていく”ような響きだった。
「ここに、のこってもいい。
あっちに、もどってもいい。
どっちでも、いい。
どっちも、まもりたいなら……
そのままでも、いい」
その言葉に、隼人の胸の奥がわずかに揺れた。
どちらも、選ばなくていい――
そんな“逃げ道”ではなかった。
むしろ、
どちらも守りたいなら、
どちらかに決めなくていい。
その選択肢を、初めて提示された気がした。
「おれはロードだ。
おまえは、しょうほだ。
どっちも、まよいながら、まもればいい」
ロードは背を向け、森の奥へ歩いていく。
「おまえは、おまえのままでいい。
おれも、おれのままでいい。
それで……
二つのせかいは、じゅうぶんだ」
その背中は大きく、
そして、どこか寂しげで、
しかし誇らしさに満ちていた。
隼人は何も言わなかった。
選ぶ必要はなかった。
選ばないことは、逃げでも弱さでもない。
“二つの世界で、二つの自分が前へ出続ける”
ただそれだけで、充分だった。
ロードの姿が森の影に溶ける。
隼人は、静かに目を閉じた。
⸻
◆選ばなかった結末
朝。
隼人は、駐屯地の薄い光の中で目を開けた。
机の上には将補昇任の辞令。
その横には、昨日読みかけた“専守防衛研究会”の資料。
どちらも現実で、
どちらも責任で、
どちらも“前へ出る理由”になり得た。
ふと、森の気配が胸の奥をかすめた。
あの黒い影は、きっと今も森を歩いているのだろう。
(……こっちも、まだ始まったばかりだ)
隼人はゆっくりと立ち上がった。
日本の未来は決まっていない。
派遣の在り方も、安保の形も、専守防衛の限界も。
だからこそ、
選ばないことで、守れるものもある。
どちらの世界も、続いていく。
どちらの自分も、止まらない。
その事実だけが、静かに胸を温めた。
隼人は窓を開き、冷たい朝の空気を吸い込んだ。
どちらへ向かうのか――
その答えを求める必要は、もうなかった。
前へ出る。
ただ、それだけ。
それが、二つの世界を結ぶただ一つの“行動”だった。
(さて……行くか)
隼人は、誰に告げるでもなく呟くと、
朝の光へ歩き出した。
選ばないことで、二つの未来が続いていく。
二つの世界を、二人のハヤトが守り続ける物語は、ここで静かに幕を閉じる。




