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第11章 『守るだけでは届かない手と、頂点の孤独』

◆静かな森と、不穏な匂い


 森は、静かだった。


 あまりにも、静かすぎた。


 新しい巣に移ってから、いくつもの夜と朝が過ぎた。

 水は近くにあり、外敵も少ない。

 獣たちの通り道からは少し外れていて、人間の気配も薄い。


(悪くない場所だ……はずだった)


 ハヤトは、巣穴の前で膝を抱えて、森の匂いを嗅いだ。


 湿った土。苔の青さ。水の冷たい気配。

 幼体たちの、眠り混じりの甘い体温。

 成体たちの、薄い警戒と安堵。


 どれも、悪くない。


 だが、その「悪くなさ」が、ある日を境に少しずつ変わり始めた。


 鳥の声が、減った。

 小さな獣の足音も、少し遠くなった。

 風の流れが、どこかぎこちない。


(……逃げてる)


 シャーマンとしての感覚が、森の「ざわめきを」拾う。


——やばい。

——におい、かわった。

——ひとのにおい。

——くる。


 言葉にならない獣たちの恐怖が、風に乗って流れてくる。


 鉄。油。革。乾いた血。

 それらが、以前よりも濃く、しかも広い範囲から漂ってきていた。


(人間……だ。

 しかも、前みたいな小さな狩りじゃない)


 焼け跡になった古い巣。

 ホブだった自分が死んだ場所。

 あのときよりも、ずっと重い「圧」が森の奥から押し寄せていた。


 巣穴の入り口から、幼体が一匹、顔を出した。


——ハヤト……

——きょう、でる?


 泣き虫の小さなゴブリン。

 新しい巣に移ってから、ようやく夜泣きが減ってきた個体だ。


 ハヤトは、その頭を軽く撫でた。


「ああ。でる。

 ……ちょっと、みてくる」


 その答えに、幼体は少しだけ安心したように目を細める。


——ハヤト、いく。

——だいじょうぶ。


 その無邪気な信頼が、胸に重く載った。


(……だいじょうぶ、にしなきゃな)



◆見えない包囲


 少し高い丘に登ると、森全体の「流れ」がよく見えた。


 風に運ばれる匂い。

 足音。

 遠くの金属音。

 それらが、一本の線ではなく、幾つもの輪となって森を囲っている。


(ここと……ここ。それから、あっちもか)


 目には見えない。

 だが、ハヤトには「見えた」。


 鉄と油の塊が、森の外縁にいくつも刺さっている。

 それぞれが、ゆっくりと森の中へ向かっている。


 人間の討伐隊。


 以前、巣が燃やされたときよりも大きい。

 前は、ひとつの巣を「狩る」規模だった。

 だが今回は、この森全体を「掃除する」ような動きだ。


(数……多いな)


 息を吸い込む。


 匂いだけで、ぼんやりと人数がわかる。

 重い鎖帷子の集団。軽装の斥候。

 火薬と油。儀式に使うような、妙な香の気配すら混じっている。


(逃げ道を……潰している)


 焼け跡から逃げたとき、ハヤトは「穴」を選んだ。

 人間の目が届かない、細い獣道。

 包囲の網の「結び目の隙間」を縫うようにして、群れを連れ出した。


 だが今回は——


(隙間が、ほとんどない)


 森の「縁」に沿って、人間の匂いがくるりと輪を作っていた。


 ゆっくりと狭まってくる輪。


 このままじっとしていれば、いずれはここにも届く。


(戦えば、全滅。

 逃げても、追いつかれる)


 胸の奥に、じわりと冷たいものが広がる。


 巣では、幼体たちが眠っている。

 成体たちは、まだこの規模の危機を知らない。


(知らせなきゃ……だが、混乱させても意味がない)


 シャーマンとしての感覚が、群れの心の揺れを拾う。


 不安はある。

 しかし、それは日常の警戒の範囲だ。

 「森全体が死ぬかもしれない」という恐怖には、まだ届いていない。


(見えているのは、俺だけか)


 その事実が、妙に心細かった。



◆守るだけでは届かない手


 巣に戻ると、成体たちが簡単な餌場を囲んでいた。

 幼体たちは、巣穴の奥でとぐろを巻いて眠っている。


 リーダー格のゴブリンが、ハヤトの顔を見るなり眉をひそめた。


——かお、わるい。

——なに、みた。


「にんげん。

 おおい。

 ……まえより、ずっと」


 短い言葉に、成体たちの空気が一瞬で固くなる。


——また、もす?

——やける?

——ここ、も?


 焼け跡の記憶は、彼らの心にも残っていた。


 あの黒い土地。

 焦げた匂い。

 血の色。


 幼体がひとり、寝ぼけた顔で巣穴から出てきた。

 ハヤトの声に引き寄せられたのだろう。


——ハヤト。

——どうした?


 その小さな目が、不安そうに揺れる。


(……守りたい)


 その感情が、いつもより鋭く胸に突き刺さった。


「きく、みんな」


 ハヤトは、巣の真ん中に立った。


「にんげん。たくさん。

 もり、ぜんぶ。

 さがしてる」


——ぜんぶ?

——そんな、くる?


「くる。

 まわり、もう……においで、わかる」


 少しの沈黙のあと、成体たちが一斉にざわめき始めた。


——ここ、たたかう?

——まもる?

——にげる?

——どこ、にげる?


 リーダーが吠えた。


——たたかう!

——ここ、すみか!


 別の成体が叫び返す。


——たたかえない!

——あし、おそい!

——ちいさいの、まもれない!


 幼体が震える声で言う。


——こわい……

——でも、ハヤトが、いる……


 その一言で、全ての視線がハヤトに向いた。


 頼るような目。

 訴えるような目。

 怒りに燃えた目。

 諦めかけている目。


 それらが、シャーマンとしての感覚と重なり、波のように胸に押し寄せる。


(決めなきゃならない)


 前へ出る理由。

 生きて守る責任。

 それを、現実の世界で隼人は掴んだ。


 あの海外のキャンプで——

 「撃たずに撃たせない」という答えを選んだ。


 だがここでは、同じ答えは通用しない。


(ここには“撃つ/撃たない”のルールも、専守防衛の紙もない。

 あるのは……食うか食われるかだけだ)


 それでも——


「にげる」


 ハヤトは言った。


「たたかわない。

 ここで、まもれない。

 ここ、やける。

 ……みんなで、でる」


——でる?

——また、かわる?

——すみか、すてる?


 ざわめきが、再び広がる。


 リーダー格の成体が、苛立ったように息を吐いた。


——いっかい、にげた。

——また、にげる?

——どこまで、にげる?


 ハヤトは、その視線を真正面から受け止めた。


「いきるために。

 まもるために。

 ……にげる」


 それが、今できる最善だと信じた。


 森全体を包囲する人間の網。

 その中に、ほんのわずかでも「ほころび」があるとしたら、

 シャーマンとしての自分だけがそれを見つけられるはずだ。


(前に出て、道を切り開く。

 それが、俺の役目だ)


 巣穴の入り口で、幼体が小さく頷いた。


——ハヤトが、いくなら……

——いく。


 その言葉が、群れの揺れを少しだけ静めた。



◆崩れる綱の上


 移動は、前回よりもさらに慎重だった。


 幼体と弱い個体を中央に。

 強い成体が外側を囲む。

 先頭にはハヤト。

 その少し後ろに、以前はリーダーだった成体が並ぶ。


 森の匂いが、常に変化していた。


 風が向きを変えるたびに、人間の位置がぼんやりと見えた。

 前方で、鉄と革の匂い。

 右側で、火薬。

 左側で、香の煙。


 香の匂いには、嫌な記憶があった。


(匂いで獣を追い出すやつだ……)


 煙で巣穴を燻し出された記憶が蘇る。


 今度は森全体を燻すつもりなのだろう。


「こっちじゃない……」


 ハヤトは、走りながら進路を修正した。


 一本の倒木をくぐり、獣道を外れ、岩場を回り込む。


 森が囁く。


——こっちは、あぶない。

——あかいひかり。

——ひと、いっぱい。


 別の方向では——


——まだ、うすい。

——におい、すくない。

——みず、ある。


 それらの声を繋ぎ合わせて、ハヤトはルートを作っていく。


(大丈夫だ。

 まだ、抜けられる)


 そう思った、そのときだった。


 風の向きが、突然変わった。


 いや、自然に変わったのではない。

 どこかで、大きな熱が生まれたせいで、空気が吸い寄せられている感覚。


 鼻腔を刺す、ひどく嫌な匂い。


 油と、布と、乾いた草。

 それらをまとめて燃やしたような、重くて黒い、熱い匂い。


(……森を、燃やしている)


 胸がきゅっと縮んだ。


 遠くで、木の折れる音。

 鳥が一斉に飛び立つ羽音。


 人間の包囲は、もう輪ではない。


(囲んで、焼いて、追い出してから……狩るつもりか)


 巣穴をひとつずつ潰すのではなく、

 森そのものを「鍋」のようにして、全ての獣を煮立たせようとしている。


 守るだけでは、届かない。


 逃げ道が、一本、また一本と、煙と炎で封じられていく。


 幼体の一匹が、咳き込んだ。


——くさ……

——くるしい……


 まだ火は見えない。

 だが、煙の粒はもうここまで届いている。


「はやく……はしれ」


 ハヤトは振り返らずに叫んだ。


「とまるな。

 ……ついてこい!」



◆最後の幼体


 細い谷間に飛び込んだとき、

 ハヤトは初めて「間違えた」と思った。


 谷の両側の崖。

 その上から、鉄と革の匂いが降ってきたのだ。


 人間の足音。

 鎖の鳴る音。


(……待ち伏せだ)


 前方からも、複数の匂いが迫ってくる。


 完全に囲まれたわけではない。

 だが、体の小さなゴブリンたちには厳しい地形だった。


 足元はゴロゴロとした岩。

 幼体の足には不安定で、何度も転びそうになる。


 そのたびに、成体たちが手を伸ばして支えた。


——あぶない!

——こっち!


「おちるな!

 まだ、いける!」


 ハヤトは先頭で岩を跳び越えながら、必死に道を探した。


 風が叫ぶ。


——まえ!

——ひと!

——てつ!


 崖の上から、影が動いた。

 矢が一本、岩を跳ねる。


 まだ、狙いは荒い。

 警告のつもりか、あるいは距離を測っているのか。


(ここで止まれば、的だ)


 ハヤトは、さらに前へ出た。


 谷の先に、かすかな水の匂いがあった。

 そこを抜ければ、別の森へ続く細い溝がある。


(あそこまで行けば——)


 そう思った瞬間、背後で小さな悲鳴がした。


——きゃっ!


 振り向く。


 幼体がひとり、岩に足を取られて転んでいた。

 足首をひねったのか、うまく立ち上がれない。


 それに、もう一本の矢が飛んできた。


 時間が、少しだけ伸びたように感じた。


(間に合う)


 ハヤトは反射的に踏み切った。


 岩を蹴り、体を捻り、幼体と矢の間に身をねじ込む。


 子どもを庇う動き。

 あの焼ける巣穴で、幼体に覆いかぶさったときと同じ。


 だが——


 矢は、彼の肩をかすめた。


 ほんの少し。

 皮膚を裂き、血をにじませるだけで済んだ。


(……外れた)


 痛みよりも、安堵が大きかった。


 だが、その次の矢は——

 ハヤトではなく、幼体を狙っていた。


 庇いきれない角度。

 岩の跳ね返りで軌道が変わり、幼体の胸のあたりに突き刺さる。


 小さな体が、ぐらりと揺れた。


——あ……


 声とも息ともつかない音が漏れる。


 世界の色が、一瞬だけ薄くなった。


(……届かなかった)


 手は伸ばした。

 体も前へ出た。

 守ろうとした。


 それでも、指先は矢に触れられなかった。


 幼体の目が、ハヤトを見た。


 驚いたような。

 信じたまま、現実に追いつけないような。


——ハヤト……


 その唇がそう動き、

 次の瞬間、体が岩の上に倒れ込んだ。


 血の匂いが、煙と混ざって谷間に広がる。


「……っ!」


 喉から、何かがこみ上げた。


 怒りでも、悲しみでもなかった。


 もっと、底の深い何か。

 焼け跡の記憶とも、槍に貫かれた痛みとも違う、

 冷たい穴のような感覚。


(また、守れなかった)


 この世界で、何度目だろう。


 巣が焼けたとき。

 炎の中で死んだ幼体たち。

 焼け跡に残っていた、体温の記憶。


(守るために、生きてきたはずだ)


 逃げ道を探し、危険を避け、群れを導いた。

 前へ出る理由を、「生きて守るため」に変えた。


 それでも——


(守るだけじゃ、足りないのか)


 崖の上で、人間たちがざわめいた。


「いまの、見たか?」

「的が小さすぎる……」

「だが、ほら、ひとつは落ちた」


 彼らには、ただの「的」にしか見えていない。


 泣きじゃくる幼体の声。

 群れの怒りと恐怖。

 ハヤトの胸の中で渦巻く絶望。


 そのどれにも、彼らは触れない。


 矢を番え、次の獲物を探しているだけだ。


(……足りない)


 その言葉が、胸の奥で静かにこぼれた。


 守るだけでは足りない。

 逃げるだけでは足りない。

 撃たせない努力では、届かない命がある。


 なら——


(消すしかない)


 自分たちを狙う手を。

 笑いながら矢を射る目を。

 この森を「鍋」としか見ていない存在を。


 その考えが浮かんだ瞬間、

 ハヤトの中で、何かが切り替わった。



◆ロードへの堕ちる進化


 世界の音が一度、完全に消えた。


 煙の匂いも、血の匂いも、矢の風切り音も。

 全てが、遠くへ押しやられる。


 代わりに、自分の心臓の鼓動だけが響いていた。


 どくん。

 どくん。

 どくん。


(まもれなかった)


 その事実だけが、黒い渦となって胸の奥で回り続ける。


(まもれないなら——)


 渦は、やがて方向を変えた。


(まもるもの「以外」を……全部、殺す)


 その瞬間、体の奥で火がついた。


 ただ熱いだけの火ではない。

 冷たい黒い炎。

 焼くというより、塗りつぶすような、重い熱。


 指先が震え、爪が伸びた。

 骨の節々がきしみ、筋肉が膨らむ。


 視界の輪郭が、ぐにゃりと歪む。

 崖の上の人間たちの顔が、「的」ではなく「標的」として浮かび上がる。


 シャーマンとしての「揺れを見る目」が、別の方向に向いた。


 森の恐怖ではなく、人間の心の揺れ。


 崖の上の兵士たちの中にある

 「油断」と「好奇心」と「優越感」と「わずかな恐怖」が、

 色と形を持って見えた。


(そこだ)


 ハヤトは、喉の奥から唸り声を絞り出した。


 それは、叫びではない。

 呪いのような、低すぎる声。


 空気が震え、煙の流れが一瞬だけ逆流した。


 崖の上の人間たちの足元で、何かが揺らぐ。


「……? なんだ、今の——」


 ひとりが眉をひそめた瞬間、

 隣にいた男の手が、勝手に弓の弦を引いた。


「おい、どこを——」


 矢は、仲間の足元に突き刺さる。


「なにして……!」


 怒鳴る声。

 だが、その怒りさえ「揺れ」としてハヤトの目に映る。


(もっとだ)


 ハヤトは、さらに一歩前へ出た。


 谷間を満たしていた「恐怖」が、

 逆に崖の上へ、冷たい霧のように這い上がっていく。


 人間たちの中にある「恐れ」が膨張し、

 互いを敵と誤認するようにずれ始める。


「こっちへ引け!」

「いや、そいつ、さっき矢を——!」


 怒号。

 失敗したときの責任を押し付け合う心。

 それらが、ハヤトの意識の中で、歯車のように噛み合っていく。


(お前たちは、敵だ)


 その認識を、森全体に刻み込むように、

 ハヤトは低く呟いた。


「ここは……おれの、もりだ」


 谷間に、黒い風が吹いた。


 それは煙でも霧でもない。

 心の揺れを撫でるような、目に見えない風。


 崖の上で、ひとりが叫ぶ。


「やばい、ここ、なんかおかしい——!」


 次の瞬間、彼は背後から押し飛ばされ、足を踏み外した。

 岩に頭を打ちつけ、そのまま谷底へ転がり落ちる。


 別の男が、恐怖で引き金を引いた。

 狙うでもなく放たれた矢が、同じ隊の足を貫く。


 怒号と悲鳴と混乱。

 それら全部を、ハヤトは冷静に見ていた。


(弱い)


 そう、はっきり思った。


 自分には遠くから矢を射る力はない。

 鎖帷子を貫く刃もない。

 魔法の炎も持っていない。


 だが——

 敵の「心そのもの」を揺らす力なら、ある。


(シャーマン……じゃない)


 自分で自分の変化に気づく。


 シャーマンは「聞く」者だった。

 揺れを読み、流れを受け止め、群れを導く者。


 だが今、自分は「揺れを作っている」。


 敵の心を折り、壊し、互いに殺し合わせる。

 森そのものを狂わせ、外敵を呑み込む。


 それは、導き手ではない。


 支配者。

 支配し、支配されたまま孤立する者。


 谷間の岩を蹴って、ハヤトは崖へと飛び上がった。


 指先は岩に食い込み、

 筋肉はかつてないほど軽かった。


 崖の上に乗り上がるとき、

 人間たちの目に映ったのは、もはや「小鬼」ではなかっただろう。


 血で濡れた爪。

 黒い霧をまとったような輪郭。

 闇の中で光る、黄色い目。


「ゴ、ゴブリンロードだ……!」


 誰かが叫んだ。


 ハヤトは、その言葉の意味を「知っていた」。


 ゴブリンの頂点。

 群れを率い、森を支配し、周囲に恐怖を撒き散らす存在。


 その名を、人間たちは恐怖と共に語り継いでいる。


(そうか。

 お前たちにとって、俺はそう見えるのか)


 なら——それでいい。


「おまえたちが、うばうなら」


 ハヤトは、低く呟いた。


「おれは……ぜんぶ、おまえたちから、うばう」


 以降の時間は、ほとんど記憶に残らなかった。


 崖の上で、悲鳴が上がり、血が飛び散る。

 足音と、武器の音と、骨の折れる音。


 森が一度、真っ赤に染まり、

 次の瞬間には、全ての色を失う。



◆強くなりすぎた群れ


 どれくらい時間が経ったのか、ハヤトにはわからない。


 気がついたとき、谷間には人間の姿がなかった。


 死体も、武器も、血の匂いも、すべて森に呑まれていた。


 黒い霧のようなものが、それらを覆い、

 土と一緒に分解してしまったのだ。


(……やりすぎたな)


 自分でもそう思うほどの、徹底した「消去」だった。


 残っているのは、ゴブリンたちだけ。


 谷間の一角で、幼体たちが固まっている。

 成体たちが、その周囲を取り囲むように立っていた。


 彼らの目に映るハヤトは、どう見えているのか。


——ハヤト……

——つよい……


——ひと、きえた……

——こわい……


——でも……

——まもって、くれた……


 恐怖と、尊敬と、依存。

 それらが複雑に絡み合った感情が、波となってハヤトに押し寄せる。


 さっきまでシャーマンとして受け止めていた「揺れ」が、

 今は、彼自身から発されている。


「……おれは」


 ハヤトは、自分の手を見た。


 爪は長く、黒く光っている。

 皮膚は以前よりも硬く、色も深い緑に近づいている。


 背中には、何か重いものが生えていた。

 小さな角のような突起。

 それが、枝に触れるたび、鋭く軋む。


(ゴブリンロード……か)


 その名を心の中で繰り返す。


 森を支配する者。

 群れの頂点。


 その証拠の一つとして、

 彼の周囲にいるゴブリンたちの姿も変わり始めていた。


 成体たちの体格が、一回り大きくなっている。

 筋肉が厚くなり、牙は鋭く、目には野性味以上の「知性」が宿っていた。


 幼体ですら、以前のような頼りなさはなかった。


——つよい……

——はしれる……

——にんげん、にげる……


 彼らは、はっきりとわかっていた。


 もう、自分たちは「狩られる側」ではない。

 狩られ続けるだけの弱い群れではない。


 ゴブリンロードの加護を受けた群れ。

 その自覚が、幼体の瞳にさえ浮かんでいる。


(……守る必要、あるのか?)


 ふと、そんな考えが頭をよぎった。


 さっきまで、必死に守ろうとしていた相手だ。

 そのために、「支配者」になることすら選んだ。


 だが——


(こいつらは、もう自分で戦える)


 少し訓練すれば、

 人間の斥候程度なら簡単に返り討ちにできるだろう。


 森の中での動き方も、嗅覚も、耳も、

 先ほどの戦いの熱に当てられて、一段階上がっている。


 ハヤトが前へ出なくても、

 群れだけで戦い、勝ち、生き延びることはできる。


(前へ出る理由……は?)


 胸の奥で、ひどく静かな疑問が浮かんだ。


 守りたい誰か。

 庇わなければ死んでしまう存在。

 それがいるから、自分は前へ出ていた。


 だが今、その「弱さ」が急速に消えつつある。


 谷間の石の上に横たわる、小さな体だけを除いて。


 矢に貫かれた幼体。

 守りきれなかった、最後の「弱い誰か」。


 彼の死が、群れを強くした。

 その事実が、ハヤトの胸を冷たく締め付ける。


(……遅かった)


 届かなかった手。

 間に合わなかった跳躍。


 その悔しさを、「強さ」で上書きしてしまったのは誰だ。


 自分だ。


 ハヤトは、そっと目を閉じた。



◆頂点の孤独


 森の夜は、静かだった。


 以前の静けさとは違う。


 あの頃は、

 風の音や、遠くの獣の気配や、虫の羽音があった。


 今は——

 森そのものが、ハヤトから距離を取っているようだった。


 獣の通り道は、彼のいる場所を大きく迂回していた。

 鳥たちは、彼の頭上の枝にとまらなくなった。


 森は、ロードを「王」として認める代わりに、

 近づかないという選択をしている。


(きらわれてる、わけじゃない。

 でも、怖がられてる)


 どこかで哀しそうに笑う自分に気づく。


 巣穴の中では、ゴブリンたちが眠っていた。


 彼らは、確かに感謝している。

 尊敬もしている。

 だが、その根底には「恐怖」がある。


——ハヤト、つよい。

——ハヤト、こわい。

——でも、だいじょうぶ。

——ハヤトがいれば、だれも、こない。


 彼らは、「守られる側」の心ではない。


 「強い存在に従い、その影の中で生き延びる者」の心だ。


 そこに、「守られたい」と願う幼さはない。


(守らなくていい、仲間か)


 それは、本来なら喜ばしいことなのかもしれない。


 全員が強く、自立し、誰も一方的に守られるだけではない。

 高い崖も、深い谷も、自分たちだけで乗り越えられる。


(でも、それってさ……)


 ハヤトは、夜の森を見渡した。


 かつて、守りたかった泣き虫の幼体。

 谷で死んだ、小さな体。


 彼のような存在は、もういない。


 これから先、群れはさらに強くなるだろう。

 ゴブリンロードの支配のもとで、

 ホブに、将に、別の進化を遂げていく。


 弱さは淘汰される。

 それは、森にとって正しいことなのかもしれない。


(……じゃあ、俺はどこに立てばいい?)


 前に出る理由。

 生きて守るための責任。


 それが、足元からすうっと消えていく感覚があった。


 守るべき相手がいない。

 守られたいと願う手が、もう伸びてこない。


 あるのは、

 「強い者であれ」という期待と、

 「こうあってほしい」という畏怖だけ。


 ハヤトは、巣穴から少し離れた崖の上に座った。


 遠くに、森の外れの焼け跡が見えた。


 前の巣が燃えた場所。

 守れなかった幼体たちが消えた場所。


 今、その周囲には人間の匂いがほとんどない。


 恐れて近づかないのだろう。

 この森にはゴブリンロードがいるという噂が、

 もう人間たちの間に広まっているのかもしれない。


(撃たれない。

 撃たれに、こない)


 専守防衛の世界で隼人が掴んだ「撃たせない防衛」。

 それは、この森にも、ある意味では形を変えて現れていた。


 敵は、もう簡単には近づいてこない。

 近づかないように、「抑止」されている。


 だが、その「抑止」は、

 同時にハヤト自身を森から切り離していた。


(ここまで強くなれば……


 誰も、俺を守らなくていい)


 誰も、庇ってくれない。

 誰も、手を伸ばしてくれない。


 守る必要のない仲間。

 守る必要のない森。

 守られたいと願う誰かがいない世界。


(俺は、前へ出るしかなかったはずなのにな)


 足元の土を、爪で軽く掻いた。


 シャーマンだったころ、

 聞こえていた「小さな揺れ」が、今は遠い。


 幼体の不安。

 成体の迷い。

 森の生き物たちの恐怖。


 それらはもう、自分と同じ高さにはない。


 自分は、頂点に立ちすぎてしまった。


 立て、と誰かに言われたわけではない。

 そうなるしかないと、自分で選んだ。


 守るだけでは届かなかったから。

 逃げるだけでは救えなかったから。


 その結果が、これだ。


「……まもるものが、もういない」


 口に出してしまうと、

 その言葉は思った以上に重く響いた。


 風が頬を撫でた。


 森は何も言わなかった。

 ただ、遠くで水の音がする。


 巣穴の方から、かすかな寝息が聞こえてきた。

 太くなった体。

 鋭くなった牙。

 強くなった仲間たち。


 彼らは、これからも生き延びるだろう。


 ゴブリンロードが、ここにいる限り。


(なら、いいのかもしれないな)


 自分が感じている孤独は、

 この森にとっては大した問題ではないのだろう。


 森は強くなり、

 群れは生き延び、

 人間は迂闊に入ってこなくなる。


 それは、ほとんど「勝利」のように見える。


 だが——


(これは、俺にとってのバッドエンドだ)


 誰にも言えない本音が、

 静かに胸の奥に沈んでいった。


 誰のせいでもない。

 人間のせいだけでもない。

 森のせいでもない。


 自分が選んだ結果だ。


 守るために強くなり、

 強くなりすぎて、守る相手を失った。


 頂点の孤独。


 それが、ゴブリンロードの宿命なのだとしたら——

 自分は、これから何を糧に前へ出ればいいのだろう。


 答えは、まだ見えなかった。


 ただ、夜の森の向こう、

 別の世界で眠るひとりの男の胸の奥でも、

 同じような痛みが、静かにきしんでいることだけは——

 ハヤトには、なんとなくわかっていた。


 守るために前へ出た者の心が、

 二つの世界で、同じように揺れている。


 それだけが、

 ロードになってしまった彼に残された、

 かすかな「つながり」のように思えた。


 ハヤトは、ゆっくりと目を閉じた。


 森の風は、やはり何も言わなかった。

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