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第1章 『リンク:夜間演習の谷底で』

◆夜の山での行軍


夜の空気は、思ったより冷たかった。

息を吸うと、肺の奥がきしむ。


訓練用のブーツが、土を踏みしめる。

前へ、前へと足音だけが続いた。


赤色灯の列が、細い蛇みたいに揺れている。

闇の中で、人の形はよく見えない。


「間隔、つめすぎるな。五メートル維持」


前を行く班長の声が、短く飛んだ。

返事をしようとして、喉が詰まる。


乾いている。

さっき水筒を確認した時、もう底が見えていた。


飲むか。

いや、まだ先は長い。


迷っているうちに、列が少し開いた。

慌てて歩幅を広げる。


重装備が肩に食い込んだ。

背中の汗が、インナーに張り付く。


「ペース落ちてるぞ。大丈夫か」


すぐ前の同期が、振り向かずに小声で言った。

返事をしようとして、笑いでごまかす。


「平気だ。あと何キロだっけ」


「まだ考えるな。心折れる」


それだけ言うと、同期はまた前を向いた。

冗談みたいで、少しだけ気が楽になる。


夜の山は、静かすぎた。

虫の音がない。


風の音も、あまりしない。

聞こえるのは、靴と装備がこすれる音だけ。


月は出ている。

でも、木々の影がそれをほとんど隠していた。


赤色灯と星の明かりが、頼りない。

地面の起伏までは、はっきりわからない。


視界の端で、誰かが小さくつまずいた。

前後の距離が、少し乱れる。


すぐに整えろ。

頭の中で、自分に命令した。


ここで怪我したら、全部無駄になる。

入校してから積み上げたものが、そこで終わる。


わかっているのに、足が重くなる。

膝が少し笑った。


さっきの教官の声がよぎる。


——夜間行軍はメンタルも試験だ。

——弱いところは、すぐ出る。


見られている気がした。

闇のどこかから、誰かに。


「目線下げすぎるな。顔あげろ」


後ろから教官の声。

振り向くな、と続いた。


心臓が跳ねた。

見られていたのは本当だった。


顔を上げる。

前の赤色灯が、ちょっとにじんだ。


息が荒い。

でも、「苦しい」と言ったらそこで負けな気がした。


歯を食いしばる。

一歩、一歩だけ考える。


右、左。

右、左。


それだけを繰り返した。


斜面が、少し急になった。

土の感触が、さっきより柔らかい。


昼間に雨が降っていたのを思い出す。

嫌なイメージが浮かんだ。


滑るぞ。

そう頭で言い聞かせた瞬間だった。


◆足が、落ちた


右足の下で、土がふわりと崩れた。

支えが消える。


「あ——」


声にならない声が喉から漏れる。

つかむ場所を探す前に、体が前に投げ出された。


重力が一気に引きずった。

背中の装備が、余計な重さになる。


視界が、黒と茶色の線になって流れた。

木の幹が、横に走る。


頬をかすめる枝。

痛い、という感覚より先に、何かが切れる音がした。


呼吸ができない。

空気が胸に入らない。


地面が近づく。

避けられない。


ドン、と鈍い音がした。

体全体が、内側から潰れるみたいに揺れた。


音が一瞬で遠ざかる。

誰かの叫び声が、もう水の向こう側にある。


——やばいな、これ。


考えたのか、ただ浮かんだのか。

その区別もつかない。


手足の感覚が、急に消えた。

体の輪郭が、ふわっと溶けていく。


視界の端で、赤色灯がひとつ揺れた。

誰かが覗き込もうとしている気がした。


でも、顔が動かない。

目も閉じられない。


暗闇が、じわじわ広がる。

色が剥がされていく。


音が消えた。

匂いも消えた。

重さも消えた。


何もない空間に、体ごと沈んでいく。


◆声が聞こえる(リンク)


真っ暗な中に、浮いていた。

下も上も、わからない。


痛みは、不思議となくなっている。

けれど、どこかが空っぽだった。


そこに、音が落ちてきた。


——……きこえるか。


低い声だった。

耳からではなく、頭の内側から響く。


誰だ。

問いかけようとしたが、言葉にならない。


口も舌も、あるのかないのか、わからない。

自分がどんな形をしているのかすら、曖昧だった。


——おい。

——うごけ。


別の声も混じる。

ひとつではない。


ざわざわと、何人もの囁きが重なっていた。

それなのに、言葉ははっきりしている。


動け、と言われても。

体の場所が、もうどこにもない。


浮いている。

それだけ。


声だけが、近づいてくる。

輪になって、囲まれるような感覚。


——まだ、くたばるな。

——つかえ。

——うごくなら、生かす。


意味はわかる。

なぜか、全部日本語に聞こえた。


だけど、発音は違う。

口の形も、喉の仕組みも、自分とは違う何かの声。


耳鳴りがした。

ざらざらした砂みたいな音が混じる。


気持ち悪さよりも、妙な静けさが勝っていた。

恐怖が、一瞬だけ遅れてやって来る。


——こい。


最後の一言だけが、やけに澄んでいた。


選べる感じではなかった。

引きずられる。


暗闇に、ひびが入る。

裂け目から、別の色がこぼれた。


黄ばんだ光。

湿った土の匂い。


目を開けたつもりはない。

それでも、世界が勝手に切り替わった。


◆ゴブリンとして生きて、死ぬ


最初に見えたのは、天井だった。

岩と土が、まだらな模様を作っている。


低い天井。

狭い空間。


体を動かそうとして、違和感にぶつかった。

腕が短い。

関節の位置が違う。


視線を落とす。

手が、見えた。


小さな手。

指が四本。

爪が黒く尖っている。


皮膚は、濁った緑色だった。

ところどころに、傷跡みたいな線がある。


自分のものじゃない。

その一言だけが、頭の中ではっきりした。


喉から、勝手に声が漏れる。


「……グ、ギ」


聞いたことのない音だった。

自分で発したのに、理解できない。


周りを見回す。

同じような小さな影が、いくつも見えた。


目だけぎらぎら光っている。

身体つきは似ている。


さっき聞いた“声の主”が、そこにいた。

そんな直感があった。


奴らもこちらを見ている。

何かを言っている。


——こいつ、きた。

——なまえ、まだ。

——うごくか。


言葉自体は、やはりわからない。

けれど、意味だけが頭の中に浮かび上がった。


胸の奥がざわつく。

怖い、というより、戸惑いに近い。


立ち上がろうとして、バランスを崩した。

足が短い。

重心の位置が違う。


床に手をついた。

ざらざらの土。

湿気を含んで冷たい。


巣穴。

そんな言葉が浮かぶ。


穴の奥には、木の根っこみたいなものが絡んでいた。

天井から水が、時々ぽたりと落ちる。


狭い入口の方から、かすかな光が射している。

外は夜ではなさそうだ。


腹が鳴った。

さっきまで、意識も曖昧だったのに。


空腹の信号だけは、やけに鮮明だった。

生きている、という実感がそこでやっと出る。


——生きてるんだ、俺。


そこまで考えた瞬間だった。


外で、何かが吠えた。

巣穴全体が震えた気がした。


低くて大きい声。

獣の咆哮のような音。


周りの小鬼たちが、一斉に身を縮めた。

恐怖が波のように伝染する。


——くる。

——にげろ。

——また、やられる。


意味が、頭の中に流れ込む。

同じ種族だからか、感情の方が早く届く。


入口の影が、ふっと暗くなった。

誰かが立った。


いや、「誰か」ではない。

明らかに、別格だった。


大きい。

この巣のどの小鬼よりも。


肩幅が広い。

背中が岩みたいに分厚い。


赤黒い目だけが、入口の明かりを反射していた。

牙が、ちらりと光る。


喉の奥から唸り声が漏れた。

それだけで、足が固まる。


動けない。

この体も、心も。


巨大な腕が振るわれた。

その動きは、思っていたより速かった。


隣にいた小鬼の頭が、簡単に潰れた。

音がした。

ぐしゃ、という湿った音。


血が飛び散る。

温かい飛沫が、頬にかかった。


心臓が縮む。

視界が狭くなる。


逃げろ。

頭ではそう叫んでいるのに、体が動かない。


本能は理解している。

勝てない。

無理だ。


掌が、こちらに伸びた。

逃げる距離もない。


胸を、爪が貫いた。


熱い、という感覚と、冷たい、という感覚が同時にきた。

口から、勝手に息が漏れる。


二度目の死だ。

そう思った。


「いや……だ……」


声は細くて弱かった。

誰にも届かない。


視界が赤く染まり、すぐ黒に変わる。

音が遠ざかる。


さっきの暗闇に、また沈んでいった。


◆現実の光


光が刺さった。

まぶたの裏を、白い線が走る。


「……聞こえるか。反応あり!」


知らない声だった。

けれど、言葉ははっきり日本語だ。


重いまぶたを持ち上げる。

ライトの光が、真正面から目に飛び込んだ。


眩しい。

すぐに目を細める。


輪郭がぼやけた人の影が、いくつか見えた。

ヘルメット。

反射材。

担架のフレーム。


「脈、戻ってる。搬送優先だ」


誰かがそう言った。

その声を聞いて、やっと思い出す。


訓練中だった。

夜間行軍。

山道。

足を滑らせた。


谷。

落ちたんだ。


体が担架に移された。

固定される感覚がある。


さっきまでの小さな体は、もうない。

腕も足も、自分の長さに戻っていた。


それでも、胸の奥には“穴”が残っている気がした。

さっき爪で貫かれた場所と、同じところに。


酸素マスクが口元に当てられる。

薬品とゴムの匂い。


どこかに運ばれていく揺れが続く。

けれど、意識は今度は落ちない。


天井の白い光。

点検用の丸い照明が、等間隔に並んでいた。


病院だ。

そう気づいたのは、しばらくしてからだった。


腕に点滴。

体に巻かれた包帯。


胸は折れていないようだ。

それでも、呼吸のたびに鈍い痛みがした。


夢だったのか。

あの巣穴も、緑の手も、血の匂いも。


そう思いたかった。

目を閉じれば、すぐにあの場面が浮かぶ。


潰れた頭。

飛び散る血。

胸を貫いた爪。


あれを、“夢”の一言で片付けていいのか。

喉が乾いた。


「……なんだ、あれ……」


声に出したら、やっと少し現実味が出た。

自分の声は、いつも通りだった。


右手が、勝手に震えた。

止めようとしても、うまくいかない。


生きているはずなのに。

さっき、一度死んだ感覚が、どうしても消えなかった。


その時だった。


耳の奥で、微かなざわめきがした。


——また、くる。


聞き覚えのある声だった。

あの闇の中で聞いた、ざらついた声。


鼓動が跳ねる。

胸の痛みとは別の場所がざわついた。


リンク。

そんな言葉が、なぜか浮かぶ。


まだ、終わっていない。

直感だけが、はっきりそう告げていた。


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