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ドア  作者: 佑佳
煉瓦道編
41/43

一日目 (1/6)

 蘇芳が『ドア』を開け、くぅと同時に一歩踏み出したものの、どうやらそこに地がなかったらしい。


「どわあっ?!」

「きゃーあっ!」


 たとえ数センチの段差であれど『有ると思い込んでいたものが無い』という状況は非常に危険である。重力に従って急落しながら、繋いでいたくぅの左手を無意識的に引き寄せた蘇芳は、懸命にくぅを(かば)った。

 落ちた先は硬い。ゴロゴロと転がり終えると「ってーなぁ」と吐き出す。打ち付けた膝や上腕をそっと(こす)り撫でながら、その地を目視。


煉瓦(れんが)だ……近代か?」


 ハッと振り返り見た『ドア』はやはり音もなく霧散しているところで、例によって下から上へキラキラと白みながらあっという間に空気に溶けてしまった。

 同時に、どの程度の高さから転がり落ちたかを理解した。多くの木箱が乱雑に山積みされたその上――目測で一メートル弱であろうそこをしげしげと眺め、「案外高い位置にあったな」と溜め息をつく。


「やーん、もーう、いったぁい!」


 大袈裟なくぅの叫び声に視線を戻す。すると、庇ったつもりのくぅをこともあろうか敷いてしまっていた。


「わ、ワリィくぅ! ダイジョブか?!」

「ダイジョブじゃなーいっ! もーおっ、信じらんなぁい。レディーを下敷きにいつまでも座り込むなんてぇ!」


 慌てて立ち上がり、右手を伸ばす。口を山型に曲げたくぅは乱暴にそれに掴まり立ち上がると、ブツブツ文句を言いながら腹部の汚れを払い落とした。


「悪かったって。ホントは俺が下敷きになる予定だったんだけどさぁ」

「そんで結局あたしを下敷きにしてんだからご苦労なことでしたねっ」

「そ、そんな怒んなよ……怪我してねぇか?」

「今んとこ何ともないみたいだけどっ。こういうのって後から痛みだすんだからねっ」


 フンッと色素の薄い髪の毛を翻したくぅを見て、蘇芳はようやく互いの格好全体を観察し始めた。

 くぅの頭には、大きな深紅色のリボンが左右に付いている。オフホワイトの長袖ブラウスの上に、リボンと同じ素材のドレスワンピースを着ており、そのスカートはふんわりと広がりがある。


「あ、ほらよく見てみろ。くぅむっちゃカワイイ格好してんぞ?」

「まぁ、たしかにね。てゆーか、あたしは別に特別なもので着飾らなくたって充分かわいいんですけどっ」

「そーかよ」


 一方蘇芳は、褪せた深緑色のベストとスーツパンツとハンチング帽に、オフホワイトの立ち襟シャツを着ている。革製ループタイを珊瑚(さんご)色の丸い留め具で緩く締めており、「かなりシャレてる」と頬が緩んだ。


「すぅちゃんもなんだか小綺麗だね?」

「俺はもとから小綺麗にしてましたぁ。けどマジで今までで一番いい格好してんな、俺ら」

「なのに出た先が、こんなゴミ置き場みたいな裏路地なんて……」


 くぅが顔を歪めるのも頷ける。この場は、撫子の時代で出た小路(こみち)よりもはるかに狭く、どちらかといえば塀と塀に挟まれていると言った方が近い。汚物の臭いがしないことだけは救いだったかも、と蘇芳は苦い顔をした。


「時代、どのへんなんだろーね?」

「道が煉瓦で舗装されてるってことは近代なんじゃねーの?」

「わかんないよ? 中世のヨーロッパだって煉瓦で舗装された道はあったからね」

「へー、やけに詳しいな」

「まあねっ。あたし世界史も得意だったから。あとは数学とぉ、科学とぉ――」


 そうして意気揚々と指折り数えるくぅを眺めながら、蘇芳は初めてくぅと顔を合わせたときからずっと抱いていた既視感が、とある疑念へと変わり始めていた。


「って、あれ? そういえば夜さまは?」


 あたりをキョロキョロと見渡すくぅ。深紅色のリボンやバルーン状に膨らんだスカートの裾を翻し、忙しなく観察を始める。


「すぅちゃんが潰したわけじゃないよね?!」

「んなわけねーだろ。つーか、くぅが下敷きにした可能性だってあるぞ」

「夜さま、あたし、すぅちゃんって順番でサンドイッチになったら、一番悪いのは一番上のすぅちゃんだからね?!」

「いやいや、くぅが立ち上がったとき既になんもなかったろーがっ。……ま、まさか、あの木箱の山ン中で潰れてんじゃねーだろーな?!」

「えーっ?! ど、どうしようすぅちゃん!」

「どーするもなにもねぇっ。片っ端からこの箱避けて捜すんだよ!」


 危ないから下がっていろと声をかけ、蘇芳は木箱を次々と手に取り山を崩していく。くぅは、蘇芳が地に置いた木箱の蓋を開け、中にいないことを確かめていく。

 夜さまの名を呼びかけながら捜すも、しかし木箱が辺りに散乱してもとの山がすっかりなくなっても、夜さまは見つからない。


「わーん、どーしよーっ! 夜さまどこにもいないよーっ!」

「とに、とにかく。俺らが潰したわけでもゴミ山で潰れてるわけでもねーんだし、どっか近くにいるだろ。今までも離れて出たことなかったのかよ?」

「なかったよーう、一回もっ。それに、今回はあたしがぎゅってしてたのにぃ、なのにいないなんてぇ。うわーんっ、夜さまあ!」

「泣くなっ。とりあえず、街ン中捜しに行くぞ」


 小路(こみち)から駆け出した蘇芳は、くぅの左手を引いた。右手首の袖で懸命に涙を拭うくぅを目の端に入れながら、その涙が枯れる前にどうにか見つかってくれと苦々しく思う。

 そこから数メートルも歩くと、煉瓦造りの噴水広場に出た。広場は噴水を中心に円形に拓けている。外周に、三角屋根で四階建て程度のアパルトマンらしき建物がぐるりと建っており、しかし人通りはほぼない。


「見ろ、くぅ。街なみも近代的だぞ? な? テンション上げてこーぜ」


 噴水の中央には、子らが駆け回るような公園によくありそうな背の高いモニュメント時計が立っていた。時計の存在に心を撃ち抜かれるような感激をおぼえた蘇芳は、身震いのままについ合掌してしまう。

 アナログのそれは五時五〇分を示しており、合掌を解きながら顔をしかめた。それもそのはず、天候は曇天、しかも霧が立ち込めているため、朝夕の判断に困ったのだ。「テンションを上げよう」のひと言を撤回したなるような静けさは未だ続いている。


「ひ、人全然いねぇし、逆にすぐ見つかるって。あ、じゃあとりあえず戦国時代ンときみてぇに別々で捜さね? 一旦一五分後ここに集合。それ何回か繰り返す。どーよ?」

「絶対やだぁ、怖いもぉん。すぅちゃんとも離れるなんて無理ぃ」


 目元を拭っていた右腕で、建物と建物の隙間を指したくぅ。従って注視すると、地面に直座りしている人間を続々と見つけてしまった。うなだれたまま動かない者、横たわっている者、口を開けたまま虚空を見上げている者――いずれも孤児や家のない人々であろう。想像よりも悪そうな治安にヒュンと息を呑む。


「だ、だな。離れねぇようにしとこ……」


 くぅの左手を改めて掴まえ直し、広場をぐるりと歩きながら小さな黒猫を捜す。むしろ人気(ひとけ)のない裏路地や小路を選んで名を呼び、応答がないとただちに引き返す。二、三度、くぅに手を伸ばそうとする浮浪者に出くわしたが、慌ててくぅを抱え上げて走り撒いた。


「なんかこの街、俺の住んでた街の臭いに似てんだよなぁ」


 モニュメント時計が七時を過ぎた頃。なかなか陽が落ちないことで朝だと断定した蘇芳は、腰に手を当てて伸びをしながら呟いた。


「工場とか工業とかの『物造ってる』っつー臭いがする。人の手で、火とか鉄を使ってるような」


 涙はすっかり落ち着き、むしろ歩き疲れた様子のくぅは、噴水の縁に腰掛け肩を落としていた。不意に話を始めた蘇芳をそろりそろりと窺いつつ、なにか話をしたそうだと察し言葉を投げ返した。


「すぅちゃんはそういう街の出身なの?」

「そ。デケェ工場がやたらあんだよ。昔から鉄鋼業が盛んで、戦争のときは工場で大砲を造ってたこともあるんだって。それが原因で空襲も喰らったって。俺のじいちゃんは、その話を昔からずーっと俺に話すんだ」


 くぅの右隣に腰を下ろす。ちらほら増えてきた人の影の中に夜さまを捜し続ける。


「地元のあのバカでけぇ工場が何のための鉄を造ってんのかなんてさっぱりわかんねぇけど……あの街に並ぶ煙突からは、鉄が混じった粉塵(ふんじん)がずーっと空気中に吐き出されてんだ。それがそのまま街に降ってる。だから喘息の人むっちゃ多い。その公害に目を瞑り続ける、嫌な場所だよ」


 低く霧がたちこめ、空は曇天に覆われ、(すす)けた臭いや空気の淀みに鬱々とする。いずれも地元と酷似しているため、蘇芳は鼻筋にシワを寄せている。


「すぅちゃんは、自分の街に帰りたくない?」

「別にそうじゃねぇよ。俺は、公害になってんのに何も対処しようとしねぇあの街の上のヤツらがムカつくだけ。俺が工業高校に行こうと思ったのは、公害にならねぇような街に立て直す術を探すためだから」

「すぅちゃんて工業高校に通ってるんだ?」

「そーだよ、言ってなかったっけ?」

「細かいとこ訊くタイミングなんてなかったもん」


 それもそうだな、と思い返す。


「中学んときに仲よかった先生が勧めてくれたんだ。『誰かのためにどうにかしたいことを見つけて、それを高校の進路にしなさい』ってな」

「へぇ。その人もしかして『狭間』で言ってたあの先生?」

「そー。物腰が柔らかくて、頼りンなって、スゲー優しい先生。あ、(わけ)ぇのにジジくせぇのかもな」


 ハハッと笑うと、つられてくぅも口角を上げた。


「そっか。優しくていい先生に出逢えて感動したから、すぅちゃんもたくさん優しいんだね」

「あ、なっ? やっぱ俺優しいだろ?」

「もー、調子ノリ! ふふっ」

「まぁけどたしかに、あんときひねてた俺を正してくれたのは枩太郎(しょうたろう)先生なん――あれっ?」


 ふと、蘇芳はとある人波に見覚えのある黒い物体を捉えた。途端に縁から立ち上がり、視線のみでそれを追う。


「おい、あれ夜さまじゃね?!」

「え……えっ? どこ、どこ?!」

「ほら、あれ。作業着みたいの着てるヤツが抱えてるっ。女、かな」


 懸命に指しくぅへ伝える蘇芳。ようやく視界に捉えたか、くぅは「あーっ!」とこの日一番の叫び声と共に立ち上がった。


「ちょ、まっ! くぅ! お前まで迷子ンなられたらマジで困るから!」


 駆け出したくぅを慌てて追う蘇芳。「なんか走ってばっかだな」と苦々しく思いながら、すっからかんの腹部をそっと(さす)った。



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