一日目 (1/3)
三人が『狭間』から完全に抜け出すと、その背後で『ドア』は音もなく霧散していった。その様はまるでシュレッダーにかけられた重要書類のようで、下から上へキラキラと白んでゆき、間もなく空気に溶けてしまった。
それを眺め終えた蘇芳は、片眉を上げ「やれやれ」と首を振った。後ろ向きになりつつある思考を切り替えようと再度前を向く。
「うおお、すっげぇ! マジで時代巡ってんだなぁ!」
三白眼を見開き、大きな口で感嘆する。そんな蘇芳の足下で、夜さまは「フン」と鼻を鳴らした。
三人が下り立った場所は、簡素な木造りの民家と民家の間。その細い小路は薄暗く、蘇芳の右脚にくぅがまとわりついてやっと並び立てる程度だ。数歩先に人の往来が盛んな通りがあるらしいことがわかり、自然とそちらに目や意識が向く。
「で、ここどこだよ?」
「儂の見立てが間違っとらなんだら、恐らく一五〇〇年代頃の日本じゃろうな」
「えぇっと、一五〇〇……って、何時代?」
「室町後期などやもしれぬの」
「あぁ、なるほど」
町行く人々は皆、簡素な着物を着、簡単に髪を結っている。蘇芳もくぅも、気が付けばいつの間にかそういった『時代に馴染む格好』になっていた。
「へーえ。俺らも時代とか場所によって服も変わるし、髪も勝手に伸びんだな。便利」
蘇芳の赤茶け硬く尖った地毛は、高い位置で結わえられている。白茶色の安っぽい小袖を緩く纏い、薄汚れた濃紺の脚絆はまるでレギンスのように感じた。
「ぶふっ! あっはははは、なんかすぅちゃんすんごい似合ってるぅ! ビンボくさぁい!」
「全っ然嬉しくない」
人差し指を向けゲラゲラとお構いなしに笑うくぅも、蘇芳同様に薄汚れた着物を着ている。同じような白茶の地に、紅色の大きく細い格子柄の小袖着物を一枚着て、手編みの小さな草鞋を履いている。髪は『狭間』に居たときよりも長くなり、腰の辺りでひとつに結わえられているようだ。
「それにしても日本でよかったぁ。お米が食べられるね、すぅちゃん」
「だぁから。オマエは『すぅちゃん』て呼ぶな」
「えーっ? じゃあ誰なら呼んでいいの?」
「あ? まぁ、そうだな……たとえば俺より一〇コ歳上の大人になら呼ばれてもいい」
「ふぅーん、じゃあくぅもやっぱりすぅちゃんって呼べるよ。くぅのが先輩だもぉん」
「『ドア歴』か。この旅の経歴のこと言ってんのか? ンなの先輩って言わねーの」
「ときに、すぅよ」
唯一変化のない夜さまはピョンとくぅの小さな肩に飛び乗り、蘇芳を見上げ訊ねる。
「なにか自身に変化は無いかの」
「変化?」
「身なり以外で異常はないか、と訊いておる。ヌシは『ドア』を潜るのは初めてゆえ、些細なことでも異常があればすぐに対応せねばならんじゃろうて」
夜さまの薄いアメジストのような双眸が、スイと細くなっていく。それがどうにも心の奥を見透かそうとしているようなまなざしに思えてならない。蘇芳は真正面から見られたくなくて、逃れるように半身を捻った。
「べ、別に。特には無いと思うけど」
「例えば。産まれし地や両親のことなど、事細かく憶えておるか」
「うん? まぁ、わかる。大丈夫」
「過去の記憶などはどうじゃ? たとえば、もっとも恥ずかしかった事柄なぞ」
「……んなのわざわざ思い出したくねーよ」
質問の真意に眉間を詰める蘇芳。心当たりがあるのか、と背中でクスクスとくぅが肩を震わせていたことには気が付かずに終わる。
「つーかさぁ。こんな狭いとこじゃなくてとりあえずさっさと次の『ドア』んとこ行かねぇ?」
ぐるぐると辺りを見渡しながら、蘇芳がぼんやりと提案した。しかし五秒間の沈黙がその場を埋める。
「……なにを言うておるんじゃ」
「『ドア』はこれから探すんでしょー」
「は?」
大きなハテナを頭頂にひとつ浮かべる蘇芳。「なにを今さら」なくぅ。更に三秒間固まったのちに、ピンク色の小さな鼻先で「フッ」と嘲る夜さま。
「まさかヌシ。未だ簡単に帰れるとでも考えていたのではあるまいな?」
くぅの「ブッ」という吹き笑いに睨みを刺すも、効果はない。
「くふふふ! そんな苦労しないなら、わざわざ『手伝ってぇー』なぁんて頼まないよォ!」
「えーえー、そーですよねっ! 俺の浅はかな考えはもう捨てますよゴメンナサイ!」
ぐりんと二人に背を向け、蘇芳は小路を勝手に出ていこうとする。くぅの呼び止めの声を無視し三歩四歩と進むと、すぐに大きな通りに出た。
通りは平坦で、土煙が舞う真砂土の地面をしている。ところどころに小石が転がっていることから、これは人力で舗装されたわけではなく永年の往来で踏み均された道らしいと理解した。そんな通りに密集する人々の活気を目の当たりにした蘇芳は、なぜか急に足が竦んでしまった。
「マジで、現代日本じゃねぇ……」
視覚的に思い知らされ、するとどこからともなく冷や汗が滲み、背中を転がっていく。指先から冷えていくような不安感に生唾を呑んだところで、不意に左からドンとなにかにぶつかられた。
「あっ、す、すんません」
咄嗟に出る謝罪。みずからが小路から飛び出したがために通行を遮ってしまったに違いないと判断した。左隣に尻もちをついた人影を認めた蘇芳は、前屈気味に手を差し伸べる。
「大丈夫スか」
「あ、あぁ。大事ない」
澄んだ声。中性的で、性別や人物像の判断に戸惑う。その人が頭から目深に小袖着物を一枚被り、まるで顔を隠すようにしているためだ。
「こちらこそすまない。前をよく見なんだゆえ」
「あぁ、いや別に」
転んだその人は蘇芳が伸べた手を取らず、自力で立ち上がろうとした。中腰になったところで、しかしガクンと再び尻もちをついてしまう。
「痛っ……」
「もしかして、足首捻った?」
その人が自身の左足首を一往復だけさすったので、蘇芳はジッと怪我の様子を観察し始めた。特段外傷は見当たらないが、やはり素人が一見しただけではその具合を詳細に分析できるはずもない。
「捻挫かもしんねぇし、とりあえずどっかで冷やした方が――」
「よい」
ピシャリと遮られる蘇芳の良心。ムッとその人を睨むもやはり伸べた手は無視され、そのうちにどうにか自力で立ち上がった。
その人の背丈は、蘇芳よりも頭ひとつ半程度低い。地面の土で汚れた腰まわりを軽く叩き、被っている砥粉色の小袖着物で首周りを改めて深く隠した。
「手間取らせてすまなんだ。これにて失礼する」
「え、おい、ちょっとっ」
呼びかけるも、その人は足早に蘇芳の右脇を抜けて行ってしまった。痛めた左足をわずかに引摺りながらまたたく間に人波に消えてしまう。所在なくなった手をおずおずと引っ込めゆく蘇芳は、モヤモヤとした気持ちを抱えることとなった。
「大丈夫、すぅちゃん?」
一連を見ていたであろうくぅが、小路から恐る恐る顔を覗かせて蘇芳を案じた。
「まぁ、俺は別に。むしろ俺が飛び出したからさっきの人怪我さしちまったっぽくてさ。だから手ェ貸したんだけど、突っぱねられちった」
肩を竦める蘇芳を見上げ、くぅは「そっかぁ」と眉尻を下げた。
「すぅちゃんって、怒った顔してるわりにはケッコー優しいんだねぇ」
「怒った顔ってなんだ、賢そうって言えよ」
「賢くはなかろうて」
「うん、賢くはなさそう」
「ウルセェな……」
掠れた舌打ちで二人からの冗談をかわす。視線を背けた先の地面に、ふと木肌色の何かを発見した。
「ん?」
「どしたの、すぅちゃん」
「いや、なんかあれ……何だ?」
「ちょっ、すぅちゃんっ。待ってよう!」
三歩分歩み寄り、背を丸めそこへかがむ。行き交う人波は、蘇芳の姿に気付いた者から弧を描くようにして避けてゆく。
「すぅ、そのように突発的で勝手な行動は許さぬ。面倒ごとは避けねばならぬゆえ」
「そーだよう。『なるべく目立たないように』がお約束ごとだよ?」
「あーあー悪かったな。落としモン拾う程度がそんっなに責められるような面倒事だなんて思わなくてよ」
嫌味と共に立ち上がり振り返った蘇芳が手にしていたものは、汚れた木製の扇だった。軽く手で払うだけではなかなか綺麗にならないほど土にまみれている。
「ほう、檜扇とは。これはまた高価なものじゃな」
くぅの左肩で薄紫色の両目を丸くする夜さま。評されたその一言で扇に過剰な重さを錯覚し、顔面を歪める蘇芳。
「うぎ……そんな高ぇモンなの?」
「檜じゃて、この時代の庶民の持ち物とは考えにくかろう」
檜扇とは、古来日本の宮中で用いられていた木製の扇子のことである。薄い檜板を何枚も重ね、糸で閉じ纏めて使用する。最たる例としては、雛人形が持っている扇といったところか。
この扇の先端部分は、飾り模様が施されている。何かの花を模した形抜きが繊細で、涼しげな印象が特徴的だ。
「けどかわいそーだねぇ。結構汚れちゃってる」
「こんだけ往来がありゃしゃーねぇよ。俺が見つけるまでの間で、そこそこ蹴られたり踏まれてたかもしんねぇしな」
そろりそろりと広げてみれば、なんと扇に欠損や傷もなく、むしろ檜の優美な薫りが匂い立った。三人は顔を見合わせひとまずの安堵を得る。
「『ドア』探すついでに扇の持ち主も探しゃいいだろ。俺が責任持って任されとくからよ」
「うぬぅ、いたしかたあるまい」
「いたしかたあるまーいっ」
「で?」
檜扇を懐へしまいながら、蘇芳は夜さまへ首を傾いだ。
「『ドア』探すのってそんっなに時間かかるわけ? なんかヒント的なのくらいあんだろ?」
「そうじゃのォ」
夜さまはひょいとくぅの肩から降り、道の端に寄り、空を仰ぎ目を閉じた。まるで吹く風の方向や匂いなどを嗅ぎ、なにかの気配でも察知しているように。
「ここより程近いところには在る、ということしか、いまのところわからんの」
「つーことは!」
ニタァと頬を緩める蘇芳。無邪気に目を輝かせながら弾むように訊ねる。
「『ドア』に近付くごとに、その夜さまの超能力的なのでもっとピーンときたりすんのな?!」
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が、再び五秒間。やがて夜さまは顔を苦悶に歪め、くぅはその柔らかそうな頬を染め肩を震わせた。
「すぅちゃん、やっぱマジでなに言ってんの?」
「うっ、るせぇなァ……ちょっと、その。が、ただの願望だっつーの」
「足でしらみ潰しに探るしか方法はない。心して精進せい」
「うぃーす」
「でもひとつラッキーだよ」
「ラッキー? どこが」
「さっきも言ったけど、『古い日本に出た』ってのが最っ高だよぉ!」
こぼれ落ちそうな薄茶色の双眸をキラッキラに輝かせ、にっこり満足そうに笑んでいるくぅ。
「だってこの時代の扉は、ドアじゃないもぉん!」
「あぁっ、そうかなるほど!」
吸い込んだ空気の透明度は高い。
「この時代に|洋風扉ドアがあんのは異常なんだ!」
くぅと同じようににったりと口角を上げると、夜さまもスイと目頭を細めた。
「ヌシも探せよう?」
「だな。さっきよりは希望が持てる気ィしてきた」
「よっしゃーあ! じゃあ張り切って行こう、すぅちゃん!」
「わーったって。おい、そんな引っ張んな」
「くぅ、そう慌てるでない。目立つぞ」
「はぁーいっ!」