はみ出したきり戻り方を忘れてしまったあの頃
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中学の頃、友人が上級生に身に覚えの無いことで絡まれていた。
お調子者のそいつと俺は旧知の仲で、だからというわけではないが、気が付くとそいつを助けたい衝動でその場から駆け出していた。
もしかしたらボコボコに殴られるかもしれない。それでも恐怖心をかなぐり捨てて、俺は上級生に向かっていった。策もなしに割り入ったのだが、そんな中でたまたま俺の左拳が上級生の下腹部に入ってしまった。
何度思い出しても、あれは大したことのない一撃だったと思う。決して強くも何ともない、へなちょこで情けない一打。それでも入ってしまった場所が悪くて、上級生は沸き立つように逆上してきた。冷静さを欠いた人を前にすると逆に落ち着けるという話は本当で、まばたきごとに俺は冷静になった。
向かってくる上級生の攻撃軌道がすべて見える。避けることもいなすことも簡単。カウンターにだって出来たことには驚いた。
結果として、教員からしこたま怒られたのは俺だった。
校内で暴力事件を起こすなんて、と酷く責め立てられた。俺の反論意見なんて少しも聞き入れてもらえなかった。打撃のすべてが弱かったとか、初めての喧嘩だったとか、そんなことは教員にしてみればどうだっていいのだ。『上級生から仕掛けられた事件』は『俺の起こした暴力事件』として広まり、なぜか俺だけが三日間の自宅謹慎になった。
謹慎が明けると、助けた友人は口を利いてくれなくなっていた。なんで? どうしてだよ? あんなに仲、良かったのに。あんなに俺、頑張ったのに――。
「あれはキミが仕掛けたことじゃない。ただ友達を助けたんだ。ですよね?」
そう言って、俺を咎めなかった先生が一人だけいた。
「ごめんね。先生にもうちょっと威厳とか説得力があれば、キミだけを謹慎させたりなんかしないで済んだのに」
「もういいよ。結局余計なことすんのが悪いんだってわかったから」
そうしてふて腐れて口を尖らせる俺へ、その先生は笑顔で肩をポンポンと優しく叩いた。
「腐らない腐らない。蘇芳は勇気あることをしたなぁって、先生は思いました」
「先生だけがそう思ったって、結局何にもならなかったじゃん」
「うん、そうなんです。だからごめんなさい。先生が新任なんかじゃなかったら、なんて、実はずっと考えてました。本当にごめんね」
「先生が謝ったって……っぐ」
言葉が詰まって、俺は先生に背を向けて静かに泣いた。事件が起きてから初めて悔しくて涙が流れたんだ。自分の無力さとか、大人に反論できない度胸のなさとか、いろんな感情が渦巻いて、ただただ悔しかった。喧嘩に参戦したことには後悔はなかったが、大人に立ち向かえない自分に毎日腹が立っていた。
そんな俺を咎めず叱らず、ただ包むようにあたたかな居場所をくれるその先生へ、俺はそれからしばらく甘えることになる。
「……枩太郎先生」
それ以来、喧嘩による怪我の手当ては枩太郎先生がしてくれた。しかも、保健室ではなく社会資料室という狭い一室だった。
そこは枩太郎先生の秘密基地みたいなもので、先生は放課後になるとわりといつもそこにいた。だから喧嘩で疲れた体を引きずってそこまで辿り着いた俺が、窓際の事務机に先生が座っているのを期待して扉をガラッとやるのが、いつからかお決まりになった。
「また喧嘩したんですか?」
「『した』んじゃねぇの、『吹っ掛けられた』の」
このときの俺は口の端を切っていた。ピタリと絆創膏を貼ってくれる先生の手は、優しくて大きい。しかも、絆創膏は口の開閉の邪魔にならないように、形を整えて多少ハサミが入れてある。
「あのことがあってから上級生に絡まれることが増えたんだね」
肩を落とし苦笑する枩太郎先生は、間もなく「終わりました」と救急箱の蓋を閉じた。
俺は大したことなかったと気丈に振る舞うため、ぐりんぐりんと左肩を回してみる。だが、どつかれた肋骨の辺りが鈍い痛みに襲われ、正直焦った。そんなに深いところにまでダメージになって蓄積されていただなんて思わなかったから。
焦ったリアクションを顔に出ないよう必死にこらえて、「なんかさぁ」とおどけたことを口走る。
「仇討ちってよりチャレンジファイト的な? そーゆーのにされてんだって、俺」
「それは困ったな。蘇芳が喧嘩馴れしてしまうのは、先生ちょっと心配です」
「いンだよ別に。負けねぇから」
「よくないっ」
珍しく、枩太郎先生はキッとしたまなざしを俺に向けた。びっくりした俺は、回していた左肩をピタリと止める。
「蘇芳は先生にとって特に大事な生徒……いや、『友人』みたいに想ってるんだから。キミが僕のことどうとも想ってなくたって、先生はキミに感謝の気持ちがあるんだよ」
それだけ真剣に言った先生は、間もなく我に返ったように目を瞬かせてから、いつもの柔らかい笑顔に戻った。
「いやぁ、これだけ聞かれると、なんだか怪しい発言だね。ごめんなさい、別に変な意味じゃないからね? 僕、ちゃんと恋人いますから、女の人だし」
「知ってるよ。普段からそんな風に写真飾って見せつけてんじゃんか」
窓辺にある枩太郎先生の事務机を顎で指せば、枩太郎先生は照れたように後頭部をかいた。
小さな写真立てには、眩い笑顔の女の人。写真を見ているとだんだん羨ましい気持ちと小恥ずかしい気持ちがないまぜになって、俺は枩太郎先生がきちんと大人であることを改めて見せつけられたような気がした。
「いいかい、蘇芳」
不意に呼ばれてハッと我に返り、写真立てから枩太郎先生へ視線を戻す。夕焼けに淡く照らされた枩太郎先生は、どこか懐かしい表情で笑んでいた。
「どれだけ腹が立つことをされたって、同じことをやり返していいってわけじゃない。やり返してスカッとするのは一瞬だけです。蘇芳はその一瞬の快感のために拳に応じてるの?」
俺は静かに小さく首を振る。
「そうだよね。まぁけど、黙って殴られ続けなさいって言ってるわけじゃない。全力で自分を護ったり、友達を助けたいから前に出る蘇芳はなにも間違ってないんだ。でも――」
枩太郎先生はチラ、と俺の右拳の赤黒くなり始めてる痣を見て続ける。
「――捩じ伏せてやろうとしてこっちから攻撃を仕掛けるのだけは、僕は間違いだと思ってる」
まるでさっきの喧嘩を見ていたかのように、枩太郎先生は言った。
そうだ、先生の見抜いたとおりだ。この右の一発だけはつい、自分からかかっていった。相手がちょっと怯んだ隙に「死ねクソ野郎!」という気持ちをこの一発に込めたんだっけ。
ドキリとした俺は、ばつが悪くなって苦く俯く。
「俺にはまだ、ムズカシイわ」
「またまたァ。ホントはわかってるくせに」
視線から逃れる俺を、枩太郎先生はやっぱり咎めなかった。いつものように優しく笑んで、大きな掌で俺の肩をポンポンとした。
「さ、もう遅い。そろそろ帰りましょうか」
「うん……」
優しく雄大に構えてくれる枩太郎先生は、俺の心の浄化場所だったんだと、いまなら思う。
「また明日、ここで待ってますね」
「う……ハイ」
はみ出したきり戻り方を忘れてしまったあの頃の俺に、枩太郎先生はいつだって変わらない微笑みで優しく包み込むように寄り添ってくれた。
だから俺も、少しでも二人の役に立ちたい。
そして少しでも、意味のある存在でいたい。
そんなふうに、自然と願ってしまうんだ。
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