三日目 (6/7)
銀次郎の発案で、勝手口から撫子を逃がすこととなった。もちろん蘇芳はその護衛についた。
城の正門付近まで来ると、撫子は頭から被っていた砥粉色の羽織をこと丁寧に外し、蘇芳を向き直った。「誰かに見られるじゃねーかよ」と慌てる蘇芳をクスと笑んで、撫子は羽織をまっすぐに差し出した。
「これをそなたに預ける。もう、持ってはいられぬから」
赤みの取れない目元は、躊躇の気持ちを吹っ切ったようであった。想いに喰われたはずの『姫の顔』が彼女へ戻りつつあるのかもしれない。
「いいのかよ」
「よい。これを持っていては、嫁ぎ先の城下をまたコソコソと歩き廻るかもしれない。そんなことをしては、私がこの町の恥となってしまうではないか。出戻りすらできぬのはさすがにかなわぬ」
「ブフッ! バァカ、アンタが出戻るわけねーよ。若君さまだって、どんなアンタだろうと離したくなくなるって」
「ふふ、だとよいがな」
スンと鼻を啜る仕草で別れを読み取り、砥粉色をそっと受け取る。
すぐに出戻って来い、そしたら一緒に――そう言ってしまいたい言葉は、じっくりと舌と上顎の間ですり潰した。
「そなたが故郷を救いたいと願うように、私もこの町を救ってみせる。この世の何処かでそなたが生きていてくれるのなら、私も、きっと……」
「んーん、それじゃダメだ」
努めて明るく、蘇芳は首を振る。キョトンと彼女に見上げられると心地よい。
「嫁ぎ先でいつまでも俺のこと思い出してるようじゃ、この城下はいつまでぇも平和になんねーよ。だって若君さま不憫すぎね? 俺ならヤダな、嫁さんが昔の男引きずってんのなんて」
「な、なんと世俗的な。まるで私がそうであるかのように言うなっ」
「それそれ、その感じ。するならそーやってサヨナラしよ」
どう言葉を交わせば、涙などなく別れられるだろう。未練が残るくらいならば、いっそのこと多少の誤解を残していた方が後腐れがないのではないか。蘇芳は撫子と共に歩きながら静かにそう考えていた。
「ほら、もう行きな。門番以外の誰かに見つかったら事だろ?」
柔く笑んでやると、撫子も同じように口角を上げた。向き合ったままどちらともなく一歩、二歩と、互いに後ろへ下がりゆく。
「蘇芳の行く道に、幸多からんことを私は願っている」
「撫子こそ。嫁ぎ先で、あんまオテンバしすぎんなよ」
「わ、わかっている」
乾いた土が煙り立つ。そうして歩幅分ずつ、距離が開いてゆく。
「どうか、達者でな」
「ちゃんと足首治せよ」
離れる歩幅分、目尻に再度涙粒を溜めた撫子をしかと脳裏に焼き付けていく。そうして突然蘇芳は足を止め、深く息を吸い込み、大きく一声を発した。
「撫子っ。絶対に、たくさん笑って生きてけ!」
顔を上げ、一度だけニィッと大袈裟に笑み、勢い任せに彼女へ背を向ける。決めた心を、あっけなく覆してしまいそうな自分が怖くなり、これ以上彼女の声に浸る前にと無我夢中で駆け出した。
「蘇芳!」
返事はしない。振り返ることはない。ただ米屋へ戻ることだけを考え、来た道を疾走した。
進むごとに、渋る気持ちと止めどない涙をかなぐり捨てる。下唇を噛み、滲んだ血を舐め取り、左腕が抱えている砥粉色のそれが無事であればいいとよぎる。
「……はぁ」
角を曲がった先でおもむろに速度を緩める。間もなく立ち止まり、低い建物の合間から見える高く広大な青い空を仰いだ。
流れる雲は徐々に形を変えながら、戦乱の緑豊かな風に溶ける。人々のざわめき、砂塵の擦れ合い、動植物の近い声。
鼻を啜った後味が塩辛かったことを、この先青い空を見上ぐたびに思い出してしまうのかもしれない。蘇芳はそんなことを思って、サヨナラと小さく吐き出した。




