1-19 プレリュード
武たちの部屋では、テーブルの上に三人がそれぞれ自習と予習用の教材を広げていた。
並んでいるのは、すべて自動車の運転に必要な知識に関するものだった。
金鵄夢の島学院の生徒たちは、不測の事態に備え、十八歳未満でありながらも自動車の運転能力を求められている。
二日前から、学院の隣にある自動車操縦訓練場で、その授業が始まっていた。
明日に備えて取り組んでいるのは、運転に関する法律や規則の予習だ。
早く終わらせようと、三人は黙々とペンを走らせている。
覚えること自体は、彼らにとって苦ではなかった。
やがて三人のペンが止まり、武が顔を上げた。
「ねえ。
松岡教官から、明日の朝、職員室に来るように言われたんだけど」
「松岡教官に?」
錠が顔を上げる。
武は、自分が呼び出されていることを二人に伝えた。
そのとき、学院に来た初日、錠と赤松が松岡に呼び出されていたことを思い出す。
「ああ……。
もしかしたら、実任務の話かもしれないね」
錠がそう言った。
「実任務?」
武の問いに、赤松が説明を引き取る。
「今起きている鬼の襲撃については、ククリの力の公表後に、ヤマト機関が首都圏での鬼の掃討作戦を計画しているらしい。
その中で、学生隊も実任務として参加することになるそうだ」
赤松の言葉を受け、錠が続ける。
「この前、俺たちが松岡教官に呼び出されたのも、その準備が近づいているからだよ。
そうなったら、武をサポートするようにって言われた」
「まあ、武ならもう大丈夫だろう」
赤松が言った。
「授業を見ていても、つい最近ククリの力に目覚めたようには思えない」
「しかも、もう鬼と戦闘……というか、遭遇済みだしね」
「あれは、ただ襲われただけだよ」
「それがあるのとないのとでは、決定的に違うんだよ」
武は少し黙ってから、二人に問いかけた。
「……二人は、実任務、怖くない?」
「うーん。
大変にはなるだろうけどさ」
錠は少し考えてから、肩をすくめる。
「多分、なんとかなるよ」
楽観的にも聞こえる言葉だったが、錠にはそれを裏付ける自信と才覚があった。
「俺もだ」
赤松が続ける。
「鬼から、この世界を守りたい。
ここにいる連中は、みんな同じ気持ちだと思うぞ」
武は、明日職員室で何を告げられるのか気になっていた。
それでも、高天原で抱いた決意と、二人の思いが同じであることに、胸の奥が少し温かくなる。
翌朝。
武は錠と赤松よりも早く部屋を出て、職員室へ向かった。
この時間帯はまだ生徒も少なく、誰とも顔を合わせることなく職員室に着く。
「一年四組、物部武。
入ります」
ノックして入ると、デスクに座っていた松岡が立ち上がった。
「おはようございます」
「おはよう。
さっそくだが、隣の部屋に来てもらいたい」
松岡は職員室と繋がっている応接室へ、武を案内した。
二人が向かい合ってソファに腰を下ろすと、松岡は話を切り出す。
「物部君。
今日は、ククリの力の発表後に実施される、首都圏での鬼の掃討作戦について話しておきたい」
「……それに、学生隊も参加する、ということですか」
「そうだ。
もっとも、前面に出るのはヤマト機関の戦闘部隊だ。
根の堅洲国、スサの国からも軍が派遣される」
松岡は淡々と続ける。
「学生隊は、あくまでバックアップだ。
だが、それでも参加してもらうことになる」
「……わかりました。
自分にできる限り、頑張ります」
不安がないわけではない。
だが武の胸には、別の考えも浮かんでいた。
鬼と接触する機会があれば、
一郎について、何か手がかりが得られるかもしれない。
「ありがとう。
よろしく頼む」
松岡は一息ついてから、話題を変えた。
「康彦さまから、何か預かってはいないか?」
武はうなずき、収納空間からヒイロガネで造られた太刀を取り出し、両手で差し出した。
「これです。
高天原を出るときに、いただきました」
松岡は丁寧に受け取り、鞘からわずかに刃を抜いて確かめる。
「……見事な太刀だ。
作戦参加の際も使わずに大切にしておくといい」
「ですが、鬼と戦うことになった場合、これを使うのでは……?」
「作戦前には、正式な武器が支給される。
ヒイロガネの太刀も含めてな」
松岡はそう言って、太刀を武に返した。
「これは、本当に君が生命の危機を感じたときに使うんだ。
奥の手として」
武は康彦から授かった勾玉のことは口にしなかった。
松岡を信用していないわけではない。
だが、ヤマト機関と原始超人たちとの関係を思い、今は伏せておくべきだと判断した。
「それと……
もう一つ、伝えておかなければならないことがある」
松岡の表情が、わずかに引き締まる。
「君のご両親から、鬼塚一郎君について調べてほしい。
そして、その結果を君に伝えてほしいと頼まれていた」
「……一郎のことを?」
「そうだ」
松岡は言葉を選ぶように続ける。
「鬼塚一郎君が“誘拐された”という表現には、少し語弊があるかもしれない。
彼は、母親の出身国である鬼の国━━ガネイの国の王族の血を引いている」
武は息を呑んだ。
「そして彼は、王位を継承している。
鬼の集合国家である百鬼連合国家の中でも、その立場は現在も保たれている」
黄泉の国には、鬼の各種族が集まった連合国家が存在する。
かつては種族間の争いが絶えなかったが、百鬼連合国家の成立によって、それは収まりつつあった。
「松岡教官……。
それでは、一郎は今、何をしているんですか」
武は、原始超人であるという事実に触れられない制約の中で、そう尋ねた。
「それは、わからない」
松岡は率直に答えた。
「もちろん、康彦さまのお言葉の通り、囚われたという状況の真意は引き続き調査中だ。
だが、鬼たちの動きは活発化している。
今後の情勢を追えば、何かわかる可能性はある」
「……そうですか」
一郎の名前が口にされた衝撃は、武の思考を大きく揺さぶった。
授業が始まっても、その余韻は消えなかった。
午後の操縦訓練でも、武の意識は一郎のことから離れなかった。
訓練場では、五台の車両が稼働していた。
生徒たちは一人ずつ順番に運転席へ座り、決められたコースを回っていく。
順番を待つ間、武は松岡から聞いた一郎の話を、錠たちに伝えていた。
「へえ。
幼なじみが鬼の国の王子様、か」
錠が軽い調子で言う。
「でもさ。
鬼の国の王子が、どうして鬼に囚われるんだ?」
赤松が首をかしげた。
「王族って言っても、鬼の中にも階層や序列があると聞く。
もっと上の存在が関わっているとか」
話の輪には、錠と赤松のほかに、瑛美、瑛理子、そして早奈美も加わっていた。
「武君。
その人、鬼塚って苗字よね?」
瑛理子が尋ねる。
「うん。
鬼塚一郎」
「あれ……?」
瑛理子は、その名前に引っかかるものを感じたようだった。
眉間にしわを寄せ、目を閉じて記憶を辿る。
「……思い出せない」
双子として記憶を共有している錠に視線を向ける。
「ねえ、錠。
聞いたことない?」
「いや……。
わからないな」
「そう……」
そのとき、訓練場の係員が声を張り上げた。
「次、赤松!」
「お、じゃあ行ってくる」
赤松は立ち上がり、運転席へ向かった。
この自動車訓練は、どのような環境下でも車両を操縦できるようにするためのものだった。
使用されているのは、すべてマニュアル車である。
超人であっても、簡単に扱えるものではない。
この中で最も安定していたのは、錠と瑛理子だった。
二人は以前、根の堅洲国で車を操縦した経験があり、基本的な感覚をすでに身につけていた。
武は初めてにしては上出来だった。
瑛美はまずまずといったところで、早奈美は苦戦している様子だった。
早奈美の運転を見ていたため、赤松にも少し心配の視線が向けられた。
だが、武ほどではないものの、コースをしっかりと回って戻ってくる。
「赤松。
大丈夫そうだな」
「うん。
早奈美ちゃんを見てたから、ちょっと心配だったけど」
「うう……。
すみません」
早奈美が肩を落とす。
「大丈夫よ、早奈美。
初めてなんだから」
瑛美がやさしく声をかける。
「明日は、きっともっと上手くいくわ」
「ありがとう……。
でも、エンストしちゃって」
「それ普通だから!」
錠が慌てて割って入る。
「俺も姉さんも、最初は何回もやったしさ。
要領はちゃんと教えるから!」
皆が早奈美を囲む中、武だけは少し離れたところで考え込んでいた。
一郎のことが、どうしても頭から離れない。
「……まだ気になる?」
錠が気づいて声をかける。
「その幼なじみのこと」
「うん……」
武は小さく頷く。
武はできることなら、もう一度康彦と話したいと思った。
その夕方。
政府から、翌日正午十二時三十分、日本政府による重大な発表が行われるというニュースが、
複数のメディアを通じて、世界中に流れた。
※登場人物名の表記を整理し、「瑛美子」を「瑛美」に統一しました。




