1-18 空間のつながり
ククリの力の存在が公になる日を前に、ヤマト機関は静かに慌ただしさを増していた。
発表による社会の混乱は避けられないと見られていたが、それ以上に警戒されていたのは、鬼たち──黄泉軍の動向だった。
首都圏では、鬼によって人間が襲われる事件が多発している。
鬼たちは空間術を用い、人知れず人間を狩っていた。
それには、明確な意図がある。
それがはっきりと分かったのは、武が襲われた事件だった。
鬼たちは、物部武を確認した上で襲っていたのだ。
武がこの島に来てから、一週間が過ぎていた。
生活には少しずつ慣れてきたが、世界の常識は大きく書き換えられている。
理解が追いついているとは、到底まだ言えなかった。
放課後、武は野澤教諭に呼ばれ、研究室を訪れていた。
「物部君。転入されたばかりで、なおかつククリの力についても最近知ったとのことでしたね」
野澤は穏やかな口調で続けた。
「物部君。
本来であれば、これはすでに授業で扱っている内容なのですが、君は転入の時期が重なってしまいましたからね」
今後の授業についていくためにも、
一度、整理しておいた方がよろしいでしょう」
野澤はそう言って、研究室の奥にある机とホワイトボードの前へと武を案内した。
野澤は金鵄夢の島学院に所属する教師で、生徒たちからは「先生」と呼ばれている。
一方、この学院にはヤマト機関の軍事的活動を担う部隊に所属する人間も、教官として派遣されていた。
同じヤマト機関に属していても、立場によって呼び名は異なる。
「では、始めましょう」
野澤はホワイトボードに円を一つ描いた。
「まず前提からお話しします」
「この世界は、ひとつの固定された空間ではありません」
円は二つ、三つと増え、矢印でつながれていく。
「世界は、連続する空間のつながりによって成り立っています」
「私たちは常に、新しい空間を迎えながら生きているのです」
「過ぎ去った空間」
「刹那的な現在の空間」
「迫り来る空間」
野澤は、そう書き添えた。
「かつて、太陽の昇る東は生の方向、沈む西は死の方向と呼ばれていました」
「それは方角の話ではありません」
「新しい空間が訪れる方向と、古い空間が去る方向を示した言葉です」
武はペンを止め、図を見つめた。
「生物は本来、新しい空間をまたぎながら存在します」
「ですが、人間には限界があります」
野澤は、言葉を選ぶように続けた。
「それは、新しい空間を迎え続けることへの耐久度と考えていただいて構いません」
「それが寿命であるとも、言えるでしょう」
野澤は、図の下にもう一つ円を描いた。
「ですが、神という存在にはその限界がありません」
「神は、空間のつながりそのものに縛られない存在です」
武は、少し迷ってから口を開いた。
「先生。
俺が鬼に襲われた時、周りから人も車も消えました」
「はい。そうだったでしょう」
野澤は静かに頷いた。
「それは、空間を創られたからです」
次の瞬間、研究室の空気が変わった。
武と野澤以外の人の気配が消えた。
周囲の物体は残っている。
また、時計の針は変わらずに動いていた。
「今、私が空間を創りました」
野澤は、力を込めた右手でホワイトボードを叩き壊した。
「ここは、元の空間のつながりから切り離された異空間です」
「ここで起きた現象は、元の世界には影響しません」
野澤は胸ポケットからペンを取り出し、静かに折った。
次の瞬間、研究室は元に戻った。
ホワイトボードも元通りだった。
だが、折れたペンだけは、そのままだった。
「ただし、空間の中にいた者自身が所有していた物質は例外です」
「壊れれば、新しい空間を迎えても壊れたままになります」
武は、言葉を失ったまま光景を見つめていた。
「鬼たちは、この仕組みを利用しています。
対象を空間から切り離し、そこへ閉じ込める。
その空間で命を落とせば、新しい空間を迎えられません。
それが、物部君が襲われた時の状況です」
「この空間のことを、境界線空間といいます」
武は、静かに息を呑んだ。
「先生。
空間がやってきて流れていくということは、世界のすべての人間が同じ空間にいないということですか」
野澤は、すぐに否定した。
「いいえ。時差とは異なります」
「現在の空間と、新しい空間、古い空間の関係は、刹那的なものです」
「時間の単位では言い表せません」
野澤は、ホワイトボードに楕円を描き、すべてを包み込んだ。
「一歩踏み出すその瞬間にも、人は幾重もの空間を受けています」
「東へ進んでも、西へ進んでも、空間は常に更新されている」
「それが、空間のつながりです」
「この空間のつながりこそが、世界なのです」
武は、いつの間にかペンが止まっていることに気づき、その図をノートに書き写した。
「境界線空間は、操作すれば消滅させることもできます。
また、創った本人が死亡すれば、その空間も消滅します」
「境界線空間には、維持できる限界があります。
それは、作用しているククリの力を調べれば分かります」
「では、境界線空間ではなくて、世界と同じように空間つながりを創ることはできないんですか」
「それができるのは、神のみです」
野澤は、はっきりと答えた。
「高天原、芦原の国、根の堅洲国、黄泉の国」
「それらは、神が創った世界です」
「だからこそ、空間のつながりがあります」
「この世には、異空間と異世界があります」
「神は異世界を創られました」
「私たちがら創られるのは、異空間だけです」
「この違いは、必ず覚えておいてください」
補習を終えて研究室を出た武は、廊下を歩きながら考えていた。
自分が助かったのは、運ではない。
世界の仕組みが、そうなっていただけだ。
そしてその仕組みを、
鬼たちも知っている。




