閑話 名前を呼ぶ理由
過去
「……ご主人様」
か細い声が、薄暗い部屋に響く。
カイルは酒瓶を片手に、面倒くさそうに振り返った。
そこに立っていたのは、買ったばかりの奴隷──リィナ。
怯えた瞳と、擦り切れた服。
震える指先。
──まぁ、こんなもんか。
カイルは大して気にも留めず、適当に酒をあおった。
「……お前、今なんて言った?」
「え……? あの……ご主人様……と」
リィナは不安げにうつむく。
自分の言葉に何か間違いがあったのだろうか、と怯えた様子でカイルを窺っていた。
カイルは舌打ちして、ぐいっと酒を飲み干す。
「その呼び方はやめろ」
リィナは目を瞬かせた。何か不手際でもあっただろうか。そう疑問を持った。
「……ですが、私は奴隷で、あなたは私の主人ですから……」
「だからって、『ご主人様』はないだろ。なんかこう、背中というか体全体がこう、ぞわっとする」
カイルは肩をすくめた。
沈黙が流れる。
リィナは少し考えてから、改めて口を開いた。
「……では、『カイル様』とお呼びしても?」
カイルは少しだけ眉をひそめた。
──それが普通だろうな。
奴隷が主人を呼ぶときの、最も一般的な敬称。
むしろ、この状況なら自然すぎる選択だ。
だが、カイルは少し考えてから、わずかに笑った。
「……いや、様もいらねぇ。そんな柄じゃない」
リィナはまた困惑したような顔をした。
「では……何と?」
「そのままカイルさんとかでいい」
リィナは意外そうに目を丸くする。
それは、まるで主人と奴隷ではなく、対等な関係の呼び方だった。
しかし、カイルは特に気にした様子もなく、酒瓶を置くと欠伸をした。
「覚えとけよ」
リィナは少し戸惑いながらも、静かに頷いた。
「……はい、カイルさん」
カイルはその言葉を聞いて、微かに目を伏せた。
煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐く。
──この呼び方なら、何も思い出さずに済む。
現在
「カイルさん、それ、そこに置くと邪魔ですよ」
リィナが軽やかに笑いながら、机の上の書類を片付ける。
カイルは煙草をくゆらせながら、適当に肩をすくめた。
「お前、俺の仕事場を仕切るようになったな」
「だって、カイルさん、片付け苦手じゃないですか」
「俺の自由だろ」
「……そのせいで、大事な書類を何度失くしました?」
リィナはじとっとした目で見つめる。
カイルは少し気まずそうに目を逸らした。
「……まぁ、多少はな」
「多少、じゃないですよ」
「細けぇな……」
そんな軽いやり取りの後、リィナはふと手を止めた。
「そういえば、カイルさん」
「ん?」
「私がカイルさんのことを『カイルさん』って呼ぶようになったのって……」
リィナは、遠い記憶を探るように言葉を紡ぐ。
「……カイルさんが、そう言ったから、ですよね」
カイルは、少しだけ目を細めた。
「そうだったか?」
「えぇ。『様はいらねぇ』って言いましたよ」
「……そんなこともあったか」
カイルは煙を吐き出しながら、なんでもないように流す。
リィナは小さく笑う。
「なんだか不思議です」
「何がだ?」
「最初は、とても呼びにくかったのに、今では『カイルさん』って呼ぶのが一番しっくりきてるんです」
リィナは、どこか懐かしそうに笑った。
「……変ですね」
カイルは何も言わず、ただ煙草の火を消した。
「……そうだな」
そう呟いた彼の声は、やけに静かだった。
だが、その意味にリィナが気づくことはなかった。
──カイルは、この呼び方なら何も思い出さずに済むと思っていた。
しかし、実際は違った。
“カイルさん”と呼ばれるたび、
心の奥底に沈めたはずの声が、かすかに蘇る。
“カイル”
──そう呼んだ、誰かの声が。
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