第7話 変わらない日々、変わっていく私
三年目の春が訪れた。
窓の外では、まだ肌寒い風が吹いているけれど、太陽の光は少しずつ暖かさを増している。私の心も、あの日から少しずつ変わってきた。
あの夜、カイルさんに買われてから、私の人生は静かに動き出した。
最初の頃は、ただ与えられた命令に従うだけの日々だった。
言葉を発することも少なく、感情を表に出すこともなかった。
でも、カイルさんは違った。
無理に私に話しかけることもなく、かと言って冷たく突き放すわけでもない。
彼は時々ぶっきらぼうな態度を取るけれど、どこか不器用な優しさが見え隠れしていた。
ある日、私が床を掃除していたとき、カイルさんがふと声をかけてきた。
「そんなに丁寧にやらなくてもいいんだぞ。」
私は顔を上げずに、ただ静かに答えた。
「……綺麗な方が、気持ちいいです。」
そのとき、カイルさんが少し驚いた顔をしたのを覚えている。たったそれだけの会話だったけれど、私にとっては大きな一歩だった。
カイルさんは、私を品のある女性に育てると言っていた。最初はその意味がよく分からなかったけれど、少しずつ理解するようになった。
髪を梳かすこと。
姿勢を正すこと。
言葉を丁寧に選ぶこと。
それらは、ただの見た目を整えるためだけじゃない。自分自身を大切にするための方法なのだと、気づいた。
ある日、カイルさんが市場で買ってきた安物の布を見て、私は思い立った。自分のために、少しでも綺麗な服を作ろうと。
夜遅くまで針と糸を動かし、ようやく仕立てたその服を翌朝着たとき、カイルさんは私を一瞥してこう言った。
「……少しはマシになったな。」
その言葉は素っ気なかったけれど、隠しきれない驚きが彼の目に宿っていたのを私は見逃さなかった。
私はその時、初めて微笑んだ。それは、ごくごく小さな変化。でも、私にとっては大きな一歩だった。
時間が経つにつれて、私は少しずつカイルさんに言葉を返すようになった。
最初は短い返事だけだったけれど、次第に会話の量も増えていった。
ある晩、彼が仕事から疲れて帰ってきたとき、私は温かいスープを用意しておいた。
「おかえりなさい、カイルさん。」
その言葉を口にした瞬間、カイルさんの動きが一瞬止まった。
「……お、おう。」
照れ隠しなのか、いつものように素っ気ない返事をしていたけれど、私は知っている。彼の声が、少しだけ柔らかくなっていることを。
その夜、私たちは静かに食事をした。言葉は少なかったけれど、その沈黙が心地よいと感じるのは初めてだった。
カイルさんは、クズだと思う。
酒好きで、面倒くさがりで、すぐに不機嫌な顔をする。無責任に私を買ったのがその最たるものだと思う。
でも――彼は本当の意味で悪い人じゃない。
私が病気で寝込んだときも、彼は文句を言いながら薬を買ってきてくれた。
「面倒くせぇな」と呟きながら、夜通し看病してくれた。
私はその優しさに触れるたびに、少しずつ心が溶けていくのを感じた。
――この人の側にいるのは、悪くないかもしれない。
そんな風に思う自分に、少し驚いた。
四年目のある晩、私は思い切ってカイルさんに聞いてみた。
「カイルさん……私のこと、本当に売るんですか?」
彼はしばらく黙っていた。酒の入ったグラスを見つめたまま、答えを探しているようだった。
「……そのつもりだな。」
それだけの答えだった。だけど、その声の中には迷いがあった。
私はそれを聞いて、心のどこかで安堵している自分に気づいた。
――売られても仕方ない。でも、できればこのまま……。
そんな淡い期待が、私の中に芽生えていた。
カイルさんと過ごす日々は、特別なことは何もない。
朝起きて、掃除をして、食事を作って、時々少しだけ会話を交わす。
でも、その静かな日常が、私にとっては何よりも大切だった。
私はこれからも、この日々を大切に育てていきたい。
たとえどんな未来が待っていても、私はカイルさんの側で少しずつ成長していく。
そしていつか――彼が私を売ることを本当に決めたその時、私は笑顔で送り出せる自分でいたい。そう思った。
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