第9話 五年目の約束
五年。
長いようで短かったこの年月は、私にとってただの時間の積み重ねではなかった。
カイルさんの家で過ごした日々は、私の中で静かに、でも確実に何かを変えていった。
だけど、カイルさんは――変わらない。
少なくとも、私の前では。
五年前、あの薄汚れた市場でカイルさんに買われたとき、私はただの商品だった。
彼は酔っぱらいで、だらしなくて、でもどこか憎めない男だった。
「お前を育てて、高く売る。」
初めてその言葉を聞いたとき、私は何も感じなかった訳じゃなかった。むしろ戸惑った。だけれどもただの奴隷として、それが私の運命だとそう思っていた。
でも、カイルさんと一緒に過ごす中で、私は少しずつ自分を磨くことを覚えた。
髪を整え、姿勢を正し、丁寧な言葉遣いを身につける。
それはただ高く売られるためではなく、自分自身を大切にするためだった。
だけど――カイルさんはいつも変わらずに言う。
「お前を育てて、高く売る。」
その言葉を聞くたびに、胸の奥が少しだけ痛むようになった。
カイルさんは、いつも飄々としている。
冗談交じりに、私を売る話をする。冷たい言葉を投げかける。
でも――私は知っている。
その奥にある本当の気持ちを。
ある日、カイルさんが何気なく私に聞いた。
「お前、自分がどれだけの値がつくと思う?」
私は笑って答えた。
「カイルさんが育ててくださったのですから、高値がつくはずです。」
それが、彼の望む答えだと分かっていたから。
カイルさんは乾いた笑いを漏らして、いつものように冗談で返す。
「お前も口がうまくなったな。」
でも、その笑顔の奥にある微かな迷いを、私は見逃さなかった。
五年の間、私はずっと自分に言い聞かせてきた。
――私は奴隷。いずれ売られる存在。
カイルさんがどんなに優しくしてくれても、それが彼のビジネスであることは分かっている。
でも……それでも……
ある晩、私は思い切ってカイルさんに尋ねた。
「カイルさん、私のこと、本当に売るんですか?」
そのときのカイルさんの表情は、今でも忘れられない。
一瞬、彼の瞳が揺れた。だけどすぐに、飄々とした笑顔に戻った。
「ああ、もちろんだ。」
その言葉を聞いて、私は微笑むしかなかった。
――分かっていたはずなのに。
胸の奥に広がる痛みを、私は抑えきれなかった。
カイルさんの態度は、いつも掴みどころがない。
私を売ると言いながら、日常の中で見せる彼の仕草や言葉は、どこか優しさに満ちている。
私が風邪になったときも、文句を言いながら薬を買ってきてくれた。
市場で買い物をしているときも、私が欲しそうにしているものをさりげなく選んでくれた。
「どうせ売るんだから、壊れたら困るしな。」
そんな言い訳をしながらも、その目はどこか不器用な優しさを宿している。
私はその優しさに気づくたびに、胸が締め付けられる。
――この人、本当に私を売るの?
何度も自分に問いかけても、答えは見つからなかった。
五年という時間は、私にとってただの奴隷としての成長の期間ではなかった。
私はカイルさんと一緒に過ごす中で、自分自身を見つけたのだ。
でも、その時間が永遠に続くわけではないことも分かっている。
カイルさんは、必ず私を売ると言い続けている。
たとえその言葉の裏に何があっても、私はその現実から逃げることはできない。
だけど――
「お前を育てて、高く売る。」
その言葉を聞くたびに、私はほんの少しだけ期待してしまう。
――もしかしたら、カイルさんは私を売らないかもしれない。
そんな壊れやすい希望を胸に抱きながら、私は今日もカイルさんの帰りを待つ。
そして、もしその日が来たとしても、私は――
「カイルさん、ありがとう。」
そう言って、笑顔で送り出せる自分でありたい。この時は本気でそう思っていた。
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