第8話 五年目の矛盾
五年。
この時間は、人を変えるには十分すぎる長さだった。
だが、俺は――変わらない。変わるわけがない。
あの日、酔っぱらった勢いで買った奴隷の少女。奴隷の返品はどうせ受け付けられないだろうから、俺は決めた。
目的はただ一つ。育てて、高く売る。それだけだ。
そう、俺の計画に感情なんて必要ない。
……だったはずだ。
リィナは、俺の計画通りに育っていた。
姿勢は正しく、言葉遣いも品がある。髪は艶やかに整えられ、その瞳は冷静さと優雅さを併せ持つ。
完璧な商品。
この五年間の努力が、ようやく実を結んだ。
「お前、そろそろ売り時だな。」
飄々と、冗談交じりにそう言うと、リィナは変わらぬ微笑みで俺を見つめ返す。
「カイルさんがそうお考えなら。」
その言葉に俺は薄く笑う。
「おう。お前が一番高く売れる市場、しっかり探してやるよ。」
リィナは何も言わず、ただ静かに頷いた。
その落ち着いた態度に、俺はさらに余裕の笑みを浮かべる。
完璧な対応だ。これなら高値がつく。
――表面上は、な。
だが、部屋の隅に目を向けた瞬間、俺の胸の奥に妙な痛みが走る。
整えられた机。磨かれた魔法具。窓辺に並べられた花瓶。
どれも、リィナが俺のためにやってきたことだ。
――くそ、何を感傷に浸ってんだ。
頭を振ってその考えを振り払う。これはビジネスだ。感情なんかいらない。
「高く売るために育ててきた。それだけだ。」
自分に言い聞かせる。何度も何度も。
でも、夜が静かになればなるほど、その言葉は空虚な響きを帯びてくる。
数日後、奴隷商人のブライスが俺の元を訪れた。
「おい、カイル。あのガキ、そろそろ見せてくれよ。高値で買い取ってやるぜ?」
俺はソファに腰掛け、飄々とした笑みを浮かべた。
「お前みたいな小物に売る気はねぇよ。こっちはもっと上を狙ってんだ。」
「は? お前、そんな大物気取りして、結局売れ残るんじゃねぇの?」
ブライスの挑発的な言葉にも、俺は余裕の態度を崩さない。
「心配するな。お前が手を出せないくらいの値がついたら、教えてやるよ。」
ブライスは鼻を鳴らして帰っていったが、俺の心の中はぐらぐらと揺れていた。
――本当に売れるのか?いや、売るんだろ?
自分で自分に問いかける。
だが、心の中に浮かぶのはリィナの笑顔だった。あの、静かで、穏やかな――そして、どこか俺を信じているような目。
「……あーもう、くそ。」
頭を抱えたくなる。だけど、リィナの前では絶対にそんな素振りは見せない。
その夜、俺が仕事から帰ると、リィナはいつものように微笑んで迎えてくれた。
「おかえりなさい、カイルさん。」
「おう。ただいま。」
俺はコートを脱ぎながら、何気なく尋ねた。
「なあ、リィナ。お前、自分がどれだけの値がつくと思う?」
リィナは驚いた様子も見せず、少しだけ首を傾げた。
「カイルさんが育ててくださったのですから、高値がつくはずです。」
その返答に、俺は乾いた笑いを漏らした。
「お前も口がうまくなったな。」
リィナは微笑んだまま、何も言わなかった。
その沈黙が、俺の胸をじわじわと締め付ける。
だが、俺は顔色一つ変えずに、飄々と続けた。
「まぁ、売るのはもう少し後だな。今が一番育ち盛りってやつだ。」
「はい、カイルさん。」
リィナは静かに頷いた。その目には、何の疑いもない。
――そんな目をするなよ。お前は、売るために育てたんだ。
自分に言い聞かせる。だけど、心の奥で何かが崩れていくのを感じた。
夜が深くなる頃、俺は机に向かいながら酒を煽った。
「……高く売る。高く売る。高く売る。」
呪文のようにその言葉を繰り返す。
だけど、頭に浮かぶのは――リィナの笑顔だ。あの穏やかな瞳。静かな声。俺の帰りを待ってくれている存在。
――これが、ただの商品だって?
グラスを握る手が震えているのに気づいた。
「……やべぇな、俺。」
呟いた声が、妙に部屋に響く。
「こんなはずじゃなかった。」
だが、俺はまだ決めたわけじゃない。
明日も、俺は飄々とリィナに言うだろう。
「お前を育てて、高く売る。」
それが、俺の――唯一の拠り所だからだ。
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